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2022年のおさらい(10月~12月)

 10月1日に数多くの食料品が値上げした。原材料費の高騰に加え、歴史的な円安が影響していたのだ。20日には1ドルが150円台まで下がり、32年ぶりの円安ドル高となった。海外の旅行者にとってはバーゲンセールのようなものかもしれない。問題は日本人の賃金が一向に上がらないことだ。

 24日、山際大志郎経済再生相が辞任した。実質上の更迭だった。世界平和統一家庭連合との関係を追及され、あいまいな答弁を続けたことが原因だった。なお岸田内閣はこの後、葉梨康弘法相、寺田稔総務相が11月に辞任し、辞任ドミノといわれた。押し詰まった12月27日には秋葉賢也復興相も辞表を提出し、ドミノは終わらないようだ。日本の政治家の質はこの程度なのだろうか。そして、代替するリーダーがいないのだろうか。

 この月あたりから北朝鮮が何度もミサイル発射をしている。何が目的なのかよくわからないが、独裁政権が何をもたらすのかを考えさせる材料にはなる。

 11月に入ると一気に寒さがつのり紅葉があちらこちらでみられた。

 カタールで行われたFIFAワールドカップで日本代表がドイツに逆転勝利したのは大きな話題になった。圧倒的に攻め込まれながら少ないチャンスで得点をするという戦略だった。選手交代とシステム変更という森保監督の戦術も評価された。試合外では選手によるロッカーの掃除やサポーターによる客席の清掃が大きく取り上げられた。今回はその後、スペインにも勝ち、予選リーグを1位通過という快挙であり、決勝トーナメントもクロアチアにPK戦までもつれ込む大健闘だった。

 そして12月。10日に世界平和統一家庭連合の被害者を救済するための法案が国会で可決した。安倍元首相の狙撃事件後、国葬を終えた後、閣僚やそのほかの政治家のこの団体への関与が相次いで指摘され、安倍氏を悼むという気分は吹き飛ばされてしまった。

 今年の漢字は「戦」となった。ウクライナ戦争が終わらないまま一年が終わってしまいそうなのが残念でならない。

 記録的な大雪が降ったところもある。その原因が耳慣れない気象用語で解説されるようになった。とにかく被害が出ないことを祈る。本格的な降雪の季節はこれからだ。

 振り返ってみると今年もいろいろなこはとがあった。まずはマスクが取れる日々が早く来ることを祈る。そして戦争が終わることを切望する。もういい加減に世界のことを考えてほしい。

 私はというと、いろいろなところでデクレッシェンドが感じられるが、決して進歩はやめない。最後まで悪あがきをしたいと考えている。その成果は時々ここにも書いておこうと考えている。

優しくない時代に

 貧すれば鈍するという言葉がある。景気の良かったころにも様々な問題はあった。欲望に流されて自らを失うという話はどこにでもあった。しかし、もっと深刻なのは貧困による理性の喪失である。ここでいう貧困とはもちろん経済的な問題も大きいが、さらなる問題は精神的な貧困である。

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 私自身もそうなのだが、心の安定を失ったとき冷静な判断ができず、場合によっては周囲を恨んだり、必要以上に悲観的になったりする。不安定になる要因に経済的な不安がある。これはかなり大きな比重を占める。このままの生活はできるのだろうかとう漠然とした不安である。それがまたさまざまな心の貧しさを導く。余裕のなさという方が正しい。余裕を失うと焦りとともに様々な負の感情が飛び出してくる。

 こうした状況が今の日本には潜在的にある。大半の識者は今後日本の国勢は衰退していくという。先進国ではなくなるという言い方ももう何度も接してきた。一人当たりの所得はすでに近隣の中興国のレベル以下になっているというのだ。数値的にはもうこれは否定できない。プライドという面においてこれは大きな影響力を及ぼすだろう。しかし、これは個人の成長にも言えることだが、大切なのは他人と比較することではなく、自分がいかに満足し、幸福を得られるかということだ。それが危うくなっているということに一番の問題がある。

 日本人の理想的な人物像に優しさという基準がある。これは他人に対して寛容で、かつ利他的に行動できるということを意味するはずだ。決して、他人に甘いという意味ではない。この優しさを維持することが当面の課題になると思われる。つまり、自らの生活や周囲の生活が次第に縮小傾向にある中でも他人に優しくできるのかということである。これがこれからの日本人の目標になっていくように思える。もちろん手をこまねいて衰退に進むのではなく、あらゆる努力をするべきだ。人口減やエネルギー問題などを克服するための技術や社会制度を構築し、小さいながらも堅実な生活ができる国家を目指すべきだろう。ただそれにしても今のような拡大再生産を前提とした考え方が成り立たなくなるのは事実であり、意識改革が求められることは間違いない。

 利他的に生きるというのは自己犠牲という意味だけではない。自らも他者と同一の水準でものを考え、その中での最適解を探す努力をするということなのだろう。どんなことがあってもその理想を貫ける人こそ、優しい人ということになる。今、世情をにぎわしている他者を愚者扱いして自分だけが世の中を分かっているかのようにふるまう人は優しくはない。

 2023年はこうした新しい優しさの概念を実現するために何が必要なのかを考える一年にしていきたい。私にはできることは少ないが、せめて本当の優しさを持っている人たちの紹介をさせていただくことはできるかもしれない。

2022年のおさらい(7月~9月)

 7月は大きな事件が相次いだ。2日に起きたKDDIの通信障害は過去最大規模といわれ、3915万回線が影響を受けたという。私にとってもメインの回線であるため大いに心配した。

 こうした障害は規模の違いこそあれ、これ以前も以降も起きている。デュアルSIMを勧める人もいるが、できれば非常時は回線を譲り合えるような仕組みを作れないかと思う。なんにしても電波が飛ばなくては社会が止まるという現実は克服されなくてはならない。これからも起こることだ。

 8日に起きた安倍晋三元首相の銃撃事件は衝撃だった。手製の銃で殺害するという日本の銃規制の裏をついたものだった。安倍氏は歴代最長の任期をつとめた。いろいろな批判もあり、とくにアベノミクスと自称した経済政策は結果的に失敗している。しかし、没落する日本経済に一種の麻酔をかけ、時間稼ぎをしたことには意味があった。また、すぐに変わる日本のトップという印象を変え、他国の首脳から一定の信頼を勝ち得たことも安倍氏の大きな功績だ。

 この事件の犯人が世界平和統一家庭連合(元統一教会)の信者の家族であり、多額の献金により家庭崩壊の被害にあっていたことも大きく報じられた。かつてから問題視されていたカルト的宗教団体であったが、実際には政治家からの直接間接の支援を受けていたことがこの後明るみになっていく。

 10日に投票が行われた参院選では自民党が大勝し、単独過半数を獲得した。この国の政治的な選択肢が事実上ないことをこの選挙は思い知らせる結果になった。

 この月もとても暑く、あまりにも早く梅雨が明けたため蝉が鳴かない期間がしばらく続いた。いつもと違う静かな猛暑は気候変動の一つの側面を示すものであり、少々気味が悪かった。

 8月は大谷翔平に注目していた。9日にはアメリカのメジャーリーグでは104年ぶりに二桁勝利、二桁本塁打を達成している。塁上では敵チームの選手と歓談する姿や、グラウンドに落ちているごみを片付ける行動が注目されていた。かれは日本人だからということではなく、野球の歴史において貴重な人材として記憶されることになるだろう。10月には前人未踏の規定投球回数と規定打席数の両方を満たした。

 この月には有名なデザイナーが相次いで死去した。5日は三宅一生氏、11日には森英恵氏が亡くなっている。森英恵のビルが表参道に建ったときの思い出はブログに書いた。

 この月、東京オリンピックやパラリンピックの大会組織委員長の高橋治之氏が企業からの不正な収賄の疑いで逮捕された、AOKIホールディングやKADOKAWA、さらには電通などに汚職の疑惑が広がってしまった。東京オリンピックの開催には賛否両論あったが、無観客という前代未聞の方法で成し遂げ国際的な評価を受けていたのに、裏方が犯した罪は夢を壊すのに十分な打撃を与えた。

 9月には3歳児がバスに取り残され熱射病でなくなるという痛ましい事件があった。非常時には内側から鍵が開けられる仕組みなどが検討されている。ぜひ、実施してほしい。

 九州新幹線、武雄温泉と長崎の間が開業した。本線とつながらない暫定的な路線だ。長崎をたずねたとき、現地の人から聞いた話ではあまり期待感はないということだったが、その後はどうなのだろう。新幹線が走ったことで在来線の沿線が寂れないかも心配だ。これは北陸新幹線が走ったときも同じことが起きたために連想してしまうのだ。

手数料があるので

 かつて学校で募金の担当をしたとき、集まった小銭を郵便局に持って行って振込する役をやっていた。小銭といっても集まれば結構重い。端数を自分で足した額を札で振り込んで、実際の小銭を自分で使うことにしたことがある。金銭的には間違っていない。自分からの寄付も少しだけやったので、それなりの自己満足も得られる。

 ところが今これをやってしまうと大変だ。コインをそのまま窓口に持っていくと枚数によって手数料がとられる。たとえばゆうちょ銀行の場合、500枚のコインを預けようとすると手数料が825円だ。もしすべて1円玉だとすれば、預けるだけ赤字になる。これはどう考えてもおかしい。ゆうちょ銀行はそれでも安いほうで、同じことをみずほ銀行やりそな銀行でやると手数料は1320円で大赤字になる。

 手数料の安いコインスターなどの自動両替サービスの利用で切り抜けるしかないが、募金などの善意にも手数料がかかるというのは何とも理不尽な気がする。これからの街頭募金ではスマホをかざすことになるのだろうか。キャッシュレスの世界に向かうのは時流というものだが、募金のような日常の経済活動とは異なるものに関しての対応は別に考えなくてはならない。

2022年のおさらい(4月~6月)

 4月から成人年齢が引き下げられ18歳が成人となった。商取引の契約が18歳から可能になるため、詐欺被害などが増えることが懸念されてた。特に成人映画出演契約が理解されないまま行われるのではないかと懸念されていた。その後はどうなっているのだろう。

 知床観光船沈没の事故が起きたのもこの月だった。多くの方が犠牲になった。運航会社の危機管理の甘さが問題になった。被害者の人間模様が報じられるたびに悲しい気持ちになり、経営者の杜撰さが報道されるたびに怒りが湧いた。こうした経営上の問題はほかの観光業者にも必ずあるはずだ。見直しは進んでいるのだろうか。

 この月は教員にとっては年度の始めであり、いろいろなことが変わる。気持ちを入れ替えて仕事に臨むという月なのである。私も急速に進む教室のデジタル化に対して、いかに対処するかを悩んでいた。今も同じだが。

 5月は沖縄の本土復帰50年ということで大きく報じられた。戦争という区切りからいろいろな物が遠ざかっていく。繰り返してはならない教訓もそれを直接知る世代が減ると説得力が失われてしまう危険性がある。沖縄が抱えていた苦難はこれからも伝えるべきである。そして現状でもある格差は見逃してはなるまい。

 このころからマスクをつけずに街を歩く人を見かけるようになってきた。といってもごく少数である。政府が十分に距離が保てる場合はマスクの着用はしなくてもいいという見解をだしたことによる。これは以前から出ていたのだが、日本人は人と異なる行動をするときにはかなりの勇気がいる。一斉に変わらない限り、行動を改めることはできない。おまけにこの後再びコロナ感染が拡大し始めたこともありマスク姿は12月のいまでも標準スタイルだ。

 6月は異常な暑さになった。非常に短い梅雨と異常な暑さだった。日本は四季ではなく二季になるのではないかと冗談ではなく思ったものである。

 北海道日本ハムファイターズのチアガールの躍るきつねダンスが人気を集めていた。その歌はノルウェイのコメディアンのイルヴィスが過去にヒットさせた曲を使用した。後に本人たちが札幌ドームで歌うことになる。この成功によりファイターズガールと称するチアガールは人気を上げ、日本においてもチアガールという職業が注目されるきっかけとなったと言える。私は狐の鳴き声のオノマトペの方が気になっていた。

 半年が過ぎただけなのに実にいろいろなことがあり、多くは解決できず先送りされている感じであった。私もこのころから疲労感との戦いになっていたが、何とか乗り切れ来たのは良くも悪くもいい加減さのおかげであったといえるだろう。

2022年のおさらい(1月~3月)

 今年も残り少なくなった。この際、今年あったことを振り返ることにする。

 1月は共通テストの会場で受験生を切りつけるという衝撃的な事件があった。東京大学会場というのも象徴的だったが、大学の試験の在り方が問題視される中で起きたことであった。一回きりの試験で人生の大半がきまるという制度はすでに時代にあっていない。また現実としても学歴だけが基準にはならなくなっている。それを教育関係者も企業の人々も考え直してほしい。私もそのころはこんなことを書いていた。

 トンガ近くの海底火山の大噴火も大きな話題となった。津波も発生し、日本でも観測されている。幸い大きな被害はなかったようだが、東日本大震災を知る私たちには大いなる脅威であった。

 2月は北京オリンピックでの日本勢の活躍が報じられた。過去最多の18個のメダルを受賞したという。なかでもカーリング女子のロコソラーレの再びの活躍や、最後の出場となった羽生結弦の無念の演技などが話題になった。私はオリンピックが相変わらず政治や商業に振り回されていることから、国家対抗という形式以外を模索するべきではないかなどと考えていた。

 そして何よりも残念だったのが、ロシアのウクライナ侵攻が始まったことである。オリンピックを機に中止されるかという淡い期待は裏切られ、閉会式後には本格的な戦闘が始まってしまった。そして、今も継続しているというのは何とも残念だ。戦争は互いに疲弊するだけで、しかも怨恨を残すだけだ。権力者や一部の利権者の思惑に惑わされてはならない。

 3月は下旬に電力需給が逼迫し、節電が呼びかけられた。東日本大震災のあった月だけに過去の計画停電が一瞬脳裏をよぎった人は多いだろう。この後も時折電力の不足がニュースになったことがある。原子力発電を再開できない現状では、エネルギー供給の問題が焦眉の急である。発電量を増やすことと、使う電力を減らすことの両方を実現しなくてはならない。

 この月には韓国の大統領が尹錫悦氏になり日韓外交にようやく変化が期待される時代がくると期待された。文前大統領が反日を利用して政権を維持していたため、日韓関係は戦後最悪と言われる状況になり、安全保障上も問題になっていた。いわゆる日本製品不買運動も先進国とは思えない方法であったため、韓国の国際評価を下げてしまっていた。過去の歴史に関する論争は継続してよいと考えるが、そのために現在の政治経済を不安にする方策は両国ともとるべきではない。世界地図を広げれば誰でもわかるように日韓と台湾は自由主義を標榜する国家としては辺境にある。協力こそすべきであり、不要な争いはいけない。離間の計にはまっていはならない。

 3月になればコロナの問題は終わるだろうと思っていたが、そうはいかなかった。

あえて日本らしさで

 人口減少が著しい日本は、経済政策の失敗もあって縮小傾向から逃れられない。でも、それはいわば長期的な展望であり、短期的もしくは中期的な方策でいくらでも変わりうる。そのことを考えなくてはならない。

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 ひところガラパゴス化ということばがはやった。従来型の携帯電話をガラケーなどといったが、今考えるとかなり優秀な機械であった。あれだけの筐体にインターネット機能やそのほかいろいろなものが詰め込まれ、なおかつバッテリーの持ちがよかったではないか。そのまま発展していれば、現在のアメリカ型のハイスペック志向の発展とは違ったものがあった可能性がある。

 ガラパゴス化という言い方は国際的な動向と反するものに対して称されたものだが、いいかえれば独自性であった。独自性は国際的な基準に合わないため国際競争では不利になると言われる。たしかにその面はあるが、見方を変えればほかのどこにもない方法を維持することには意味があったのではないかということになる。

 技術的な話にすれば数日前に考えたように電気自動車の開発技術の問題がある。国際的なトレンドは電気自動車に流れているが、日本では電気で走ることにはそれほどのメリットはない。むしろ全面停止の危険性を秘めている。ならば、日本的なハイブリッド形式とか、水素由来のエネルギー開発とか、再生可能エネルギーの開発だとかをやめるべきではない。資源のない島国なりの生き残り方を考えるべきなのだ。

 文化的な戦略もそうだ。アニメの文化は日本のものだとよく言われるが、作画技術でいうならばCGを使った海外作品の方が優れているかもしれない。日本作品の細部へのこだわり、メッセージ性などのユニークさが評価の源であることを考えて発信するべきだ。音楽も海外には通用しないと思い込んでいるが、日本のポップスは様々な国や地域の音楽の要素を複合して独自なものになっているという。これもセールスポイントと考えるべきなのだろう。伝統文化といわれているものも、見せ方を工夫すればもっと高い評価が得られるはずだ。

 国際標準で競うことだけが正しいのではない。独自性を維持することも大事な方法であることを確認しておきたい。

排除の罠

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 残念ながら見えない差別が広がりつつあるのを感じる。これが杞憂であればいいと思うが結構根深いものを感じるのだ。

 多数派が正義という図式は民主主義の悪い側面である。本当に正しいかを検証せずに、多くの人がなんとなく支持する考えを正義と考えてしまう。これは根本的な間違いにつながる。しかし、日常の生活においていちいち検証という工程などするはずはない。なんとなく時流と判断する各自の判断(というより印象)で是非を決めてしまう。

 最近、困るのはこの自分とは異なる考えに対する寛容性のなさである。多くの人はそう考えているが、別の考え方もあるというときに、これが排除につながることがある。排他性が発揮されるのはいくつかの条件がそろった時だが、これがいま起こりやすい条件がそろっている。

 ソーシャルメディアのような似非世論を見せるものが手元にあると、ネットの発言を基準にして物事を考えてしまう。よく考えればわかる。ネットに書き込むのは特定の条件の人だけであり、それ以外の人はROM(読むだけ)の状態だ。だから、書き込まれていることは世論ではなく、極端な意見の集合体に過ぎない。それを世論と勘違いする人が一定数存在することでおかしな事態になる。

 日本人は元来同調圧力の強い環境に置かれているが、それを増強するのが自由な発言の場であるはずのソーシャルメディアである。これを克服するためには各自のメディアリテラシーを向上するほかには方法はなさそうだ。TwitterやFacebookに書かれていたとしてもそれは少数意見であり、従う必要はない。そういう根本的なことをもう一度考えるべきだ。

海辺の町

 北陸の小さな町に住んでいたとき楽しみの一つに漁港の周りを歩くことがあった。多くの漁船が並ぶ中で、カモメがいくつも並んでいたのを思い出す。波けしブロックにあたる波は夏は穏やかで、冬は激しかった。海辺にある魚屋は高級な魚種の販売を中心として、結構いい値段のものが並んでいたが、そのわきに切れ端のようなもんが詰め込まれていた。私はそれを買って帰って味噌汁の具にしたものだ。これが結構うまいもので、小骨に気をつけさえすればいい料理になる。パックは当時、かなり入っても100円だった。懐かしい。

 浜辺の方では時々地引網を引いていた。引き上げるとたくさんの魚が入っている。それを子供たちが興味深く見に来る。漁師たちは不愛想に金になりそうな魚をえり分け、そのほかのいわゆる雑魚は見に来た子供たちに分け与えていた。雑魚といっても十分な大きさと味もなかなかと聞いた。

 私は比較的時間に縛られない仕事をしていたので、昼間から漁港に出かけていた。漁師たちはそれを不思議に考えていたはずだ。残念ながら一度も話しかけたことはなかったし、話しかけられたこともない。今から思えばちょっと残念である。

アニメソングは永遠

 アニメの主題歌の世界では第一人者の水木一郎さんが亡くなった。肺がんだったという。その歌声は子供のころから聴いており、誰もが代表作と考えるであろうマジンガーZのほかにも宇宙海賊キャプテンハーロックなどの歌唱も印象的だった。仮面ライダーやウルトラマンシリーズなどいろいろな曲でその歌声を残されている。

 子どものころに繰り返し聞いた曲はなぜか忘れない。簡単でドラマティックなメロディーラインということもあるのだろうが、それ以上に感情をこめて歌っていたこと、つまり歌の世界にのめりこむことができたことが大きく関係しているようだ。

 アニメソングはその意味で私たちの世代の底層にある何かであり、それはこれからも変わることがない。若者の曲を聴いているときもこのメロディラインはどこかで聞いたことがあると思うとき、それがアニメソングであったりする。ならば、日本のポップ音楽の典型を示す何かが含まれているのかもしれない。

 水木さんのご冥福をお祈りいたします。夢と勇気をありがとうございました。