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10年後の余震

 昨夜、東北地方で大きな地震があった。最大震度は6強という。かつてなら歴史的な大地震とされただろうが、東日本大震災以来、各地で発生した大きな地震にすっかり慣れてしまった。今回はその大きな数値とは裏腹に被害は大きくはないようだ。津波も発生しなかったのは幸いと言える。

 関係者の報道によるとこれは2011年の東日本大震災の余震という。まもなく10年目を迎える大地震はまだ幕を閉じていないことになる。震源地を見ると仙台沖であり、これも先の大地震のそれと近い場所だ。これより南北に離れたところで地震が発生するとされているので、まだ地震発生のエネルギーは解消されていないことになる。

 昨夜はかなり疲れていたこともあり、東京も大きく揺れたが結局そのまま寝てしまった。よくも悪しくも地震には慣れてしまっている。危機に対する私の(もしかしたら日本人の)特性なのだろう。これだけ多くの地震が続いてもすぐに忘れることができるのは、考えてみれば恐ろしい。たくましいとか、したたかとかいろいろな言い方ができるかもしれない。

 10年たって何が変わったのか。防災意識はたしかに高まった。しかし、実行に移していることは少ない。一つだけ言えるのは慌てなくなったということだ。何とかなくと割り切ってしまうことが増えた。収穫なのだろうか、退化なのだろうか。

時間はかかる

 オリンピック組織委員会の森喜朗会長の不適切発言に端を発し、それを擁護する自民党の長老が的外れな発言をしたことや後任として指名した川淵三郎氏がメディア等から密室人事の指摘を受けたことを機に辞退したことなどから事態は混乱している。これは日本社会の体質を象徴化したものとも評されている。

 女性が多い委員会は時間がかかるとの指摘はまったく根拠がないばかりか性差別とも捉えられる発言だが、問題はそれだけではない。時間がかかることを非とする考え方が不適切なのだと考える。民主主義は決定までの手続きにやたらと時間がかかる。面倒でもやらなくてはならないことは飛ばせない。川淵氏は日本のプロスポーツを営業ベースで成功させたリーダーであり、オリンピックの指揮者としてもふさわしい。ただ今回の件で大事な人材の活躍の場は損なわれた。

 時間をかければいいというものでもない。日本社会が衰退している原因の一つに決定の遅さがあるといわれている。いつまでも決めないのはかつては美徳であったが、場合によってはそうではない。今回のようにオリンピック開催が危ぶまれている事態においては早くリーダーを決めなくてはならない。待ってはいられない。そこでどのように誰がなるのかを公開し、それに乗っ取って決めるべきなのだ。多くの人に納得がいく方法で。そこに時間をかけるのは仕方がないのだ。

 次のリーダーは女性にすべきだという意見もある。ふさわしい人もいるはずだ。ぜひ次は手続きを踏んでほしい。大切なのは皆に納得させる手順を踏んでおくことだ。それがあれば性別も年齢も限定すべきではない。

建国

 建国記念の日という日本の祝日は不思議な日である。日本の国家としての歴史は長く天皇制という軸で考えれば有史以前にさかのぼるのかもしれない。だから建国は伝説の世界にあり、特定の日に位置づけるのは本当は無理なのだ。初代天皇とされる神武天皇の即位日を現在の暦に換算したところ2月11日だというのが一応の理由だが、そもそも実在したか不明の人物のことは根拠にはできない。

 今日は国とは何かを考える日であろう。利益が共通する周囲の人物と共同体を立ち上げ、公共の福祉を優先しつつ、他国と協調し、時に争い集団を形成する。それが国家の始まりならば、今のような形態はどこまで続くのだろう。人が知り合える限界を様々なテクノロジーが飛躍的に拡張した。時空を超えて知り合える機会を創出できている。でも、真の意味で理解し合える人の数の限界はそれほど簡単には増えない。ソーシャルメディアで「友達」になるとは意味が違うのだ。

 国とは何なのか友達集団よりもはるかに大きい。でもイデオロギーなり文化なりを共有していると幻想できる人々の集団だ。そこには愛国心のような感情も現れる。オリンピックで自国の選手が活躍するとわがことのように喜んでしまうこともある。一方で国より自己の利益を優先することも多い。自国の業者がいくらコストダウンしても、海外製品には価格面で全く太刀打ちできない。だから安い海外製品を買う。それが自国経済に打撃を与えることを知っていても。

 国とは何かを考え直す一日にしてみたい。

人材の活用

 人材の活用をどのようにするのか。それは少子高齢社会ではもっとも大切な問題だ。私自身がすでに若者と同じ仕事量がこなせないことを自覚しているので、こういう話をするのは気が乗らない。しかし、避けて通れない話なのだろう。

 日本には人を大切にするという伝統がある。少なくともそういう建前がある。だから、年功序列が成り立つしそれでうまくいくことも多い。ただ、能力のある若者が活躍できる機会を阻害しているとも言える。能力の高い若者は新機軸を生み出すことができる。足りないのは経験だ。だから、これからは上司に若者を、補助に年配を配すのがよいのだろう。ケース・バイ・ケースではあるが。

 完全な能力主義を良しとする時代もあったが、日本でそれをやるとうまく行かないようだ。あまり成功例を聞かない。むしろ従来の経験蓄積型に裏打ちされたタレント尊重主義をやっていくのが良いと思う。

延長

 日本の大都市で出されている緊急事態宣言はまだ延長されそうだ。海外からこのブログをご覧になっている方もいらっしゃるので、一住民の感想としてお読みいただきたいが、日本人のこの事態に対する感覚はかなり緩い。たしかに感染者数や重症者数は増えているが身近な問題として捉えている人は少ない。

 言えることはマスクをせずに外出する人はほとんどいないこと、店の外に設置された消毒液を使う人が圧倒的多数であることだ。同調性の強い日本人は法的な規制がなくても一度風潮が生まれてしまうと多くが従う。それが今回の事態を深刻にしてこなかった原因だろう。

 ただ、新たな局面が見られるのも確かだ。政治的な強制力が少しずつ検討されつつある。緩い防衛ラインを保てるのかどうかは今後の状況次第であると感じている。規制はされているものの不自由さはまだない。国民からの反対運動も表面化していない。ただ、それを維持できるかどうかは分からない。

制約の中で

 日本文化を語る際に制約を前提とするという思考の枠組みがあることを思いだす。自由に表現するというより、型に当てはめてその中で創作するということが伝統になっている。

 文学で言えば短歌や俳句のような定型詩、絵画で言えば構図や配色などの型がそれに当たる。無形のものにもそれはある。芸事や武道などにも型があり、まずそこから教えられる。

 こうした制約下の創作という方法は昨今の生活体系にも活用されるのかもしれない。できることを組み合わせて何とかしてしまう。そこに価値観を見い出し、新たな価値を創出するのである。私たちはこの国の伝統に学ぶべきではないか。 

月額定額

 いわゆるサブスクリプションに相当するサービスを無印良品が家具の分野で始めるという。商品を買い取るのではなく、定額料金を払って借りる方法である。消費者側からすれば低額で商品を導入できることや、一定期間の終了後に処分する費用を節約することができる。また企業側からすれば顧客とのつながりを保つことができることや、安定収入を得られるというメリットがある。

 実は福祉の分野などでは家具の定額レンタルは存在している。介護ベッドなどのレンタルは一般的だ。それが一般家財にも及ぶと生活の体系は変化していく可能性がある。かつては花嫁道具として箪笥や長持ちなどが使われ、生涯に渡って使い続ける財産として家具は考えられていた。それが借りたい時に定額で借りることができれば、モノへの執着はなくならざるを得ない。自分のものであっても所有権はないという感覚は当初は馴染みにくいだろう。

 しかし、現代人の多くは住居さえも定借制であり、サブスクはもはや完全に市民権を得ている。モノに執着し、モノとの関係性で築き上げて来た日本の文化が大きな転換点にあることは確かであろう。不景気で購買力が低下している日本人にとってこのビジネススタイルは案外早く定着していくかもしれない。

初詣

 日本には1月のはじめに神社や寺院に行き参拝する習慣がある。これを初詣というが、この習慣は宗教に関して独特の考え方をもつ日本人の思考様式を考える上で重要だ。

 初詣は神社でも寺でも良い。参拝の仕方は一応違って神社では柏手という拍手をしてから拝むが、寺院では手を合わせるだけだ。神社は神道という宗教で、寺は仏教の宗教施設だ。そういうことは日本人の大半は了解しているが、中には混同している人もいる。実はこの区分は明治維新後に区別されるようになったもので、それ以前は寺と神社はさほど峻別されてはいなかった。その証に境内に神社と寺が同居しているところは多い。また今は神社と称しているが歴史を遡ると寺であったという箇所も少なからずある。仏性が日本の神の姿を借りて化身しているという本地垂迹説のようなものもある。日本人にとって人智を超えるものは神であり、その神は様々な姿である。多神教の思想ではそれらは矛盾しない。

 今年はコロナウイルスの第3波の影響などで初詣を控える家庭も増えているという。また賽銭から感染することを避けるため、電子マネーで賽銭をするというシステムまで用意している。形はどうであれ、日本人の神頼みの思いは強い。その意味で宗教的な民族である我々にとって初詣も満足に行けない現状はなんとも苦しい。それを超えるための何かが求められている。

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文化の日

 日本では今日は祝日だ。文化の日という。この祝日は1948年に制定されているが、それ以前にも明治天皇の誕生日として祝日だったことがある。それが文化の日となったのは1946年11月3日が日本国憲法公布の日であったことと関係している。

 文化とは何かについては様々な定義がある。芸術のような高度に洗練されたものももちろん文化的なものであるが、本来人が集まって何かをするとき、そのやり方に一定の方向性があればそれが文化ということになるのだろう。何気ない行動や、日々のルーティンも文化の一つだ。

 文化とはその意味でいえば無自覚で繰り返されているものと言えるのかもしれない。だからその価値も気づかれにくい。気がつくのは自分たちとは異なる文化に出会ったときの違和感がきっかけだ。こんなやり方もあったのかという発見が文化を知るきっかけになる。

 日本人には周囲と同調しようとする心性があるとはよく言われる。周りに合わせることを幼いころから叩き込まれている。だから大きな変動は好まない。これが日本の現状打破を阻む大きな阻害要因だとい指摘も繰り返されている。特に産業界の人はそう言いたがる。ただ、その多くは印象批評的な言い方で本来のあり方を見ているのか分からない。日本の文化が必ずしも同調圧力の中だけでできているとはみなしがたいのだ。

 自国文化を考えるのは自分を見つめなおすいいきっかけになる。

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運び屋

 今年特に活躍が目立つ職場にテイクアウトの食べ物を運ぶ仕事がある。その大半が個人営業の自転車による運搬である、外出自粛期間を含めて彼らが果たした役割は大きい。

 歩合制といえる彼らの仕事は過酷であり、個人営業扱いなので保障などは個人負担になるらしい。健康であれば場合によってはかなりの稼ぎになるが、仕事が激減することもあるらしい。自己責任という諸刃の剣が振り回される。

 これまでになかった仕事が生まれた一例であろう。ただあまりにも設定がラフ過ぎる。人間としての労働のあり方を考えさせられる。もっとも、そんなことを論じているうちに、自動運転と配達ロボットがせっかく作った仕事を奪い取ってしまうかもしれないが。