タグ: 日本

保育と介護

Photo by Pixabay on Pexels.com

 最近、保育と介護の現場でのトラブルが大きく報じられている。虐待と考えられる行動をして問題となり、立件された例がある。ここにはももちろん保育士や介護士の個人の資質の問題もあるが、それにとどまらない諸問題があると考えられる。

 圧倒的な人材不足はその第1要因だ。厚生労働省のサイトにリンクされている「保育人材確保のための『魅力ある職場づくり』に向けて」という平成26年(2014)8月付のデータによれば平成29年末に7.4万人の保育士が不足すると予測されていた。現状がどうなのかは分からないが、求人に見合う希望者がいないのが課題とされている。その原因は給与の安さ、休日のとりにくさ、人間関係の複雑さなど仕事に関する魅力の低さが原因している。

 介護士の方も同様である予測では2025年には32万人、2030年には69万人の介護士が不足するという。少子高齢化に加えて、介護職の持つイメージ、実際の労働環境の悪さ、待遇の悪さなどが挙げられている。もちろん施設による差が大きいので一概には言えないが、これらが人材確保に悪影響を及ぼしているのは確かだ。

 このような背景がある中で、いい人材が確保しにくいという現実がある。私自身が介護される側に回りつつある中で、例えば退職者が施設のお世話になる前に職員として働くことはできないのかというプランを考えてみなくてはならない。体が丈夫であれば介護士として貢献することができるのではないかということだ。

 私は父が特養でお世話になったとき、時々訪問しその厳しい現実を見てきた。思い通りにならないからだと心を持つ高齢者は想像以上に大変なお相手だ。暴言に見えるその言い方、人による障害の度合いの差、排泄物のにおいなど思い出すだけで困難が想像できる。しかし、それを支えてくださった介護士の方々には感謝している。もし可能であれば少しでも恩返しがしたいとは思うのだ。

 話がそれたが、保育にしても介護にしても人生においては重要な仕事にも関わらず、その評価が低く、それゆえに人材が確保できない。そういう状況ではさまざまな社会問題が発生しやすい。まずはこの現状を知り、こうした仕事の魅力を高め、多くの方が志してもらえる仕事にしていくことが急務ではないか。

まず景気回復

 防衛費の増強などを目的として増税が論議されている。国債頼みにしないというのは一つの見識だとは思うが、このタイミングで増税など無理というものである。なぜそういう感覚がないのか。

 まず賃金をあげることを優先すべきだ。税収はそのあとで考えるべきである。金を循環させる方法を考えるならば、税金を上げるより、むしろ減税の方がいい。ただ、財源の確保が必要ならばそのあとの動向で判断していけばいいのだ。いまは何よりも景気回復と個人の賃金を上げ、消費者の気持ちを向上させる方が優先事項だろう。

 安物買いの銭失いの国民病にかかっていると思われる今、少し高くても長く使えるものを求める心の余裕がいる。そのためにも賃金を上げよう。給与を積極的に上げた企業に補助金を出すなどの方策も面白いのではないか。

放課後公民館

 公民館は非営利的な社会的文化的な活動の拠点としていまでも一定の役割を果たしている。文化教室や高齢者の集会所など多種多様な機能を持っているが、必ずしも十分に活用されていないのではないか。公立小中学校の校舎などを利用してもっと多くの市民が参加できる仕組みを作るべきだと考える。

 文化講座のようなものは、有名な講師を雇って行う企業の有料講座もいいが、ほぼ実費程度でできる公民館のサークルも大切だ。できれば地域の中から講師を出し、互いに教えあうような仕組みがあると理想である。それには公立の小中学校や、場所を無償もしくは安価で提供する企業などの協力を仰ぎたい。安全管理上の問題などの法整備を行えば、付加的な投資は少なくても実現できる。授業料は安く抑えたい。ただ、寄付は受け付けることとして満足度に合わせて、追加で払うという形にする。講師のやる気も変わるはずだ。もちろん、もっとハイレベルな内容を求める人は専門的な先生を擁したそういう講座に行けばよい。授業料を払う価値がきっとあるはずだ。

 学校の校舎を会場にすることの利点は子供から大人まで参加できる場所として提供できることだ。私は児童生徒のクラブ活動も地域社会との共同で行うべきだと考えているが、子供のころから世代の違う人との交流ができれば本人たちに益するはずだ。もちろん、種類や内容に応じなんでも混合というわけではない。民謡や踊りの教室など地域文化に関わるものは放課後公民館には向いている。

 地域住民が支えあうという仕組みを作れば様々な社会問題の解決、もしくは困難の緩和に結びつく。金儲けより社会に貢献したいという人はたくさんいるはずだ。彼らの活躍を応援する仕組みを作れないか。

ヨーヨーの名人

 子ども時代の思い出としてコカ・コーラが販促で展開していたヨーヨーをおまけにつけるキャンペーンがあった。福岡に転校したばかりの私はまだ友人が少なかった。コーラーの王冠の裏をめくり、あたりマークがあるとヨーヨーがもらえた。ヨーヨーはそれ以前からあったが、いろいろな技ができるのはこれしかないと信じていた。

これは当時はやったタイプではありません。

 ある日、ヨーヨーのチャンピオンが直々に演技をしてくれるという。記憶では学校の近くの広場だった。子供たちの人垣の中でチャンピオンのお兄さん(だったと思う)がいろいろな技を見せてくれた。「犬の散歩」という空回りしたヨーヨーを地面近くで滑らせながら犬に見立てる技は、手品を見ているような気がした。

 まんまと商略に乗っ取られた子供たちは(含む私)はコーラを飲み続け、ある日「あたり」を手にした。それで名人のようにやってみたがうまくいかない。私には向いていなかった。ヨーヨーを通してできた友人たちの中にはあの空回りができるようになったものもいた。それができれば様々な技が展開できたはずだが、なぜがそれ以上は進まなかった。

 いまの子供たちに同じ遊びを紹介しても喜んでもらえるだろうか。テレビゲームよりはできることは少ないが、できたときに達成感はビデオゲームには及ばないものがある。ただ、周囲に配慮しなくては少々危険であり、家具を壊して怒られないようにしなければならないが。

高齢者補助

 自分が馬齢を重ねたせいで分かることは、この世のシステムは当然ながら健常者がコントロールできるように作られているということである。逆に言えば何らかの障害を持つと途端にやりにくくなる。この後、高齢化を邁進する日本社会では様々な技術的な補助が生まれるはずだ。ただ、それが使えるくらいまでは体力なり、身体機能を維持しなくてはならないということを痛感している。

Photo by Ornu00e1n Rodru00edguez Velu00e1zquez on Pexels.com

 いつも書いているがコンピュータ入力はいつまでもできると思っていた。ところが、意外にも文字や鍵盤の小ささや配色によってはかなり見づらく、思ったようにできないことが増えている。ならば音声入力があるという異なる。最近の音声入力はかなり精度が高いので使ってみると大いに助かる。しかし、これも活舌が怪しくなると使えない。健常な大人が使うことを前提に設計されているものはそのままでは使えなくなる可能性が高いのだ。

 これについては今後、より高齢者に配慮したインターフェースがうまれることを期待するしかない。おそらく需要はいくらでもあるので実現化される日は近いだろう。社会の高齢化を補う手段は国家的な死活問題でもある。

 ハードで的な話ばかりになったが、より大切なのはセカンドライフの多様化を踏まえた社会を用意することに相違ない。体力的能力的(もしくはそのいずれか)が衰えていない人材は今後多数存在する(している)はずだ。彼らの活躍の場を与え、扶養者ではなく、社会への貢献者になっていただく方法を考えるべきだ。私自身もその仲間入りをすることになるが、これは今の若者にも当てはまる。将来の自分が歳をとっても社会に貢献できる場を作っていかなくてはならない。そのために最低限の生活保障、余裕のある人への就職奨励、雇用機会の創出などやるべきことは多い。

 若い世代の仕事を補助するような仕事が理想だ。何があるのか考え続けたい。

歩行禁止に

Photo by Felipe Cardoso on Pexels.com

 エスカレーターを歩行禁止にすることに関してはかなり前から多くの方が期待してきた。駅のホームを昇降するエスカレーターの場合、ほとんどが片側に人が立ち、開いた側を歩いて昇る、中には駆け上る人がいる。日本では東京付近と大阪付近ではその立つ側が異なり、一種の地域文化とでもいえるような様態をもっている。でも、そもそもエスカレーターは歩かない乗り物ではなかったのか。

 かくいう私もそうだが、エスカレーターの待機側(立って乗れる側)が満員で、歩行側(とでも呼んでおく)に押しだされたとき、不文律として意図に反しても歩き上ることをしている人は多い。こっちに並んだら歩かなくてはならないものという決まりなどどこにもないのにそうしてしまっている。仮に立ち止まったりすると、本気で非難する人もいるという。先日、エスカレーターは歩くべきではないと指摘した人にけがを負わせてそのまま逃げた実に残念な人が逮捕された。ここまでの悪人は少ないにしても、エスカレーターで立ち止まりでもしたら、激怒する「勘違い」な人はいくらでもいる。

 ならば条例で歩行禁止にしてしまえと考えたのが埼玉県だ。「埼玉県エスカレーターの安全な利用の促進に関する条例」と命名された条例は、利用者には「立ち止まった状態でエスカレーターを利用しなければならない。」と設置者には「利用者に対し、立ち止まった状態でエスカレーターを利用すべきことを周知しなければならない。」としている。ただし罰則に関する規定はない。努力目標に近い。

 法的な実効性はさほど高くはないが、エスカレーターは歩行すべきものではないという考えを周知させる役割は大きい。名古屋市でも来年の制定を目指しているという。罰則はないといっても、エスカレーター上でトラブルが起きたとき、時に相手がけがをしたときは賠償の対象になりやすくなった。精神的な被害に関しても認められるようになるのかもしれない。今までとは意識の改革がいる。

 考えてみれば、右なり左によって立てというのは無理があった。障害があってどちらかの脇にしか寄れない場合や、そもそも体調によっては重心が不安定で、隣をかすられるだけでも危険を感じる場合などがある。私も膝を痛めたとき、俊敏な動きができず、脇を通り過ぎる人にぶつかられて不快に思ったことがある。おそらく逆のことをしてしまった時もあったかもしれない。

 忙しくても走らない。公共の場所では他人を巻き込む危険性がある行動はしないということを考えていかなくてはならない。これには各エレベーターわきに注意喚起や動画を表示することや、企業の協力を得て啓蒙活動を徹底的に行うしかない。

タイヤ交換の思い出

Photo by Chris Peeters on Pexels.com

 雪国に住んでいたころ、11月の終わりにスタッドレスタイヤへの交換をした。ある年は暖冬といわれていたのに甘えて、12月までそのままにしていたところ、急にまとまった降雪の予報があり慌てて換えたこともある。現在の私の生活の中にはないものだ。

 雪国の方は知っているが、スタッドレスタイヤの交換自体は誰でもできる。タイヤを止めているねじを少し緩めてから、ジャッキで上げて、ねじを完全に回してタイヤを外し、新しいタイヤをはめてねじを仮止め、ジャッキを下げて着地したら、またねじをしっかり締める。これを4回繰り返す。最初にやったときはおそらく2時間近くかかったが、数年後には30分程度でできるようになった。ただとても面倒だ。寒い中での単純作業でやる気が湧かない。

 ガソリンスタンドなどに持ち込めば4本で5000円~8000円くらいで取り換えてくれていたようだ。私は利用したことがないが、ものすごく早くできるらしい。なにしろ車体ごともちあげて4本のタイヤを同時に交換する。ねじを回すのも、てこの原理でようやく回すようなちゃちなものではなく、電動であっという間に回しきるらしい。このことを聞いて私も頼もうと何度か思ったが、浮いた金でおいしいものでもと思って結局自分でやっていた。これを冬前と春前に行う。10000円以上の節約だと思って、かえって余計に買い物をしてしまった気もする。

 東京に来てタイヤを交換することはなくなった。ウォッシャー液を足すときくらいしかボンネットを開けることもない。雪国の生活はいろいろ困難もあったが、付属する思い出のなかには生活感のしみついた懐かしいものが多い。

ゴミの片づけ

Photo by Steve Johnson on Pexels.com

 今回のFIFAワールドカップでも日本人観客の清掃ボランティアが話題になり、賞賛されているという。この話は各種の国際大会があるたびにでるから、一種の伝統となりつつある。このこと自体は世界に誇るべきことなのかもしれない。

 一方、国家としての廃棄物の量という点において日本はかなり問題がある。狭い国土に多くの人口を抱える日本ではごみ処理問題は重大だが、償却か埋め立て、そして聞くところによれば海外業者へ委託して不法投棄をしているとも聞く。これは世界に恥じるべき行為だ。

 最近はコンビニのレジ袋を受け取るのをやめたり、簡易な包装で済ませようとする動きがある。その点では少しずつ意識は高まっているようだ。ただ、大量に出続けるプラスティックのリサイクルがあまり進んでいないことや、食品の投棄など知られたくない問題がいくつもある。

 ごみを片づける公共精神のある日本人故いつかは皆の福祉に役立つ方法を世界に広めてくれるだろう。そう期待するしかない。と言いながら、昨日はたくさんのペットボトルを買ってしまった。せめてリサイクルに出すことにしよう。

心に残るものとモノとして残るもの

 思い出を作りたいとき、それが最終的に物質的なモノとしてのこすか、無形のサービスなり出会いなり、いわゆるコトとして充実することを重視するか。そのあたりの価値観が変わってきているかもしれないという。どちらかを選べと言われたらあなたはどちらだろうか。

 もちろん両方とも充実していれば文句はない。ただ、どちらかといえば昭和世代の私にとってはモノ重視かもしれない。最初に土産を買うという発想は、モノとしての思い出を残したいということだし、やたらと写真を撮りまくるのは、デジタル化した今はいわゆるモノではないが、形を残そうという点において共通する発想である。

 もし、土産物はなく、写真撮影も禁止な場所があるとする。ただし、その場所に行くとサービスや雰囲気、接待などがすばらしく幸せになれるものとする。こういう場所はいかがだろう。最近の若い世代はモノにはこだわらない人も増えている。土産が大量生産されるものであり、限定品といっても似たようなものがたくさんある。それに実際の価値以上の金を払う必要はあるのかという発想があるらしい。もし、本当にものが欲しければネットで転売している。いつでも手に入る(かもしれない)という基本的な考えの構えができているからなのだ。

 彼らにとっては家に持って帰ればきっと色あせて見えるおみやげよりも、その場で味わえる体験の方に投資をしたいと思うのだろう。最近は私もその方に傾いてきている。土産物を分かち思い出を語る仲間が少なくなっているのも原因にあるかもしれない。同級生に先輩に後輩に上司になどと言い訳をいって買ってきた土産は受け取る人が少なくなっている可能性があるという仮説である。

 観光立国をめざすなら、この点を抑えておく必要があるだろう。そこにいなければできない体験を売りにすれば、安定的な集客が期待できるかもしれない。

化石賞

Photo by Alejandro Quintanar on Pexels.com

 今回も日本に化石賞が送られた。これは化石燃料から脱しようとする世界の情勢から取り残されていることを知らしめるための不名誉な賞である。批判であり皮肉だ。

 日本はこの賞の常連であり、不名誉な状態を続けているということになる。ただ、それにはいくつかの事情がある。日本はエネルギー資源の乏しい国でありながら、先進国としての立場を維持するための産業活動を続けるのにはエネルギーの確保が不可欠だ。二酸化炭素排出を抑えるために欧米の多くは原子力にシフトしている。それは日本はとれない選択肢なのだ。今回批判された事業の一つに石炭にアンモニアを融合して二酸化炭素の排出を抑えようとする技術が挙げられている。石炭の掘削を正当化する方法として認められないとされたのだ。

 日本には水素エネルギーなどの新技術の開発や、そのほかの基礎研究を続ける科学者がいる。彼らの成果が世界に貢献する日が来れば、化石の汚名は返上できるかもしれない。それまでの間、何ができるのかを考えるべきだ。