タグ: 日常

離れる

 時々は少し離れたところに行ってみることが大事なのかもしれない。日常の枠組みの中にどっぷりとつかっていると、世界はどんどん狭くなり窮屈に思えてしまう。それは錯覚なのだろう。

 現実世界は窮屈でもなければ閑散としてもいない。ちょっと離れてみればそれが分かるかもしれないのだ。私たちはそのことを思い出す必要がある。当たり前だがすぐに忘れてしまう。

 離れるために何をすればいいのかを考えよう。ただ、戻ってくることも忘れてはなるまい。逃げるのではなく離れるのだ、

屋台で一杯

 最近屋台を見ない。私が学生の頃には駅前に怪しい屋台ができ、おでんを中心にちょっとしたつまみを出す店があった。私はその頃(も)金がなく、常連という訳にはいかなかったが何度かお世話になったことがある。

 サザエさんでは波平とマスオが屋台で飲んで帰るというシーンがあった。昭和世代にとっては気ままに立ち寄れる場所だった。衛生面でかなり気になることろはあったが酒が入ると気分が大きくなることで大抵は問題ならない。食中毒になったこともない。皆、焼いたか茹でたかしたものだったからだろう。

 学生(院生)の分際で飲むのは少々引け目もあった。ただ私の行った大学は比較的大きかったことや近隣の企業に先輩がいたことなどから、時々ごちそうになったこともあった。呑みニケーションがあった時代を懐かしんでいる。

 いま、見ず知らずの大学の後輩におごる度量もない自分をふがいなく思う。活気と猥雑なエネルギーとが混在した時代だった

土曜の混雑

 通勤電車の話である。土曜朝の電車が今朝はかなり混んでいる。在宅ワークを止めた企業が増えたのだろうか。日常が戻りつつあることを実感するとともに、また悪夢が再現されないか心配でもある。私はあいも変わらず儚い夢を実現するために職場に通い続ける。

田園風景

 田園の風景を描く作品には魅力がある。ただ、それが画家によって選ばれた空間であることには注意するべきだろう。絵画は偶然の産物ではない。写真だってそれが芸術として撮影されたとき、映像の選択はなされている。

 仮に私が画才を身につけ、田園風景を描くとしたなら何を対象とするだろうか。そびえ立つ高山や、小川のせせらぎ、田中の道を歩く人々などいろいろ思い浮かぶ。ただ、そのどれもがすでにどこかで見たことがある。絵になる風景というものは確かにあり、それ以外を描くことは難しい。

 コンクリートとアスファルトに囲まれた毎日を過ごしている私にとっては田園は憧れの場所だ。だが、もし生まれたときからその地に暮らし、かつ都会の喧騒を知らずに育ったとしたらここまでの感情を抱くだろうか。田園風景が描かれる心的要因はいろいろありそうだ。

手すり

 地下に続くスロープに手すりがついていることに気づいた。もう何年も通過しているのに今朝気がついたのである。

 恐らくいままで手すりの必要性がなかったために見過ごして来たのだろう。よく見ると高低二本の手すりが並行して取り付けられている。それぞれの身長に対応するためなのだろう。

 隠れた善意を見過ごしていたことに驚く。そしてこれからはここを通るたびにこのことを考えることになる。

密かに消えていく

 この時期だからかもしれないがテナントから消えていく店が最近目立っている。もともとあった景気停滞にコロナ禍という負担が加わり、インバウンドも期待できないとあれば小さな店ほど耐久力が及ばなくなるのかもしれない。

 密かに消えていく店の中には、個性的な品揃えや接客のうまい店員のいた店もあった。もう少し利用しておけばよかったのではなどと詮無きことを思う。私の消費だけでは何にもならなかったはずなのに。

 ただ思う。これからは単なる競争原理に任せていると割を食うのは自分たちだと。いい仕事をしている商店は日頃から支えていかなければなくなってしまう。残るのは可もなく不可もないものばかりになると。

休養ということで

 休養ということでなにもしないという方針を取ろうとしたのだがこれが意外と難しい。つい何かを始めてしまう。おそらく、連休後に休んだつけがまわってくると考えた瞬間に焦りが生じ、安心がなくなる。かといって仕事をしようとも思わないので困りものだ。

 今日は休養ということでネットも見ないと思ってもすでにこうしてブログを書き出している。もちろん他人のサイトをみたり、動画をみたりしている。おそらく本当に休むことができるのは一種の才能がいるのだろう。そういう人こそ、オンタイムには能力を発揮できるのだと思う。

Photo by Pixabay on Pexels.com

旅日記

 私にとっては明日からが連休期間になる。感染者数が上がり続けていく中で旅行は取りやめることにした。残念だが仕方ない。

 近隣の史跡や公園。博物館、美術館に行くのも精神的な旅と考えることにした。KOKUYOの野帳という小さなノートにその印象を書いておくことにしている。チケットなどを貼ると旅日記風になっていい。

 このブログでも書いてはいるが、手書きの気安さと自由度は何ものにも代えがたい。誰にも見られないのもいい。みなさんにもおすすめしたい。

気温上昇

 今日は最高気温がかなり上がるとのこと。大陸から黄砂が飛来する可能性も高いとかでアレルギー症状のある私にとっては辛い一日になりそうだ。

 気づけば朝部屋に差し込む光の状況が変わっている。少しずつ変化していたはずなのに、こういう認識はコマ送りだ。桜は満開を過ぎ、名前を知らない草花が次々に開花している。恐らく意識されない何かが終わり、知ることさえないかもしれない何かが始まっている。

 私の中の細胞もあるものは消え、あるものは生まれている。春にそれを感じるのは自然の風景が分かりやすく変わるからであって、実は不断の連続なのだろう。

 通勤電車の車窓から見えるまだ葉の出ていない木の梢に鳥の巣があるのを発見した。いつの間に作ったのだろうか。

もう一つの難敵

 このところ気温が上昇し、2月も半ばを過ぎたことを実感する。今朝も晴れて暖かく感じる。これから一つ難敵が現れる。スギ花粉である。

 日本人が花粉アレルギーになりやすいのにはいくつかの要因があるという。特に遺伝子レベルの問題についてはもうどうにもならない。森林に杉を植えすぎたのもその一つだ。

 私は小学生の頃にこのアレルギーを発症して随分長くつきあっている。これから4月半ばくらいまでは要警戒だ。ウイルス対策で日頃からマスクを着用していることから例年よりは軽く済むかもしれない。ただ、これからのくしゃみや鼻水は周囲の人に迷惑をかけることになる。いつものように対策薬から始めてみることにする。