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知らない島の風景

 Googleマップのストリートビュー機能で訪れる場所のイメージを掴んでおくことがある。車で初めて訪ねる場所などはこれをやっておくとかなり安心である。 逆に何も用意せずに訪ねるのは少し不安である。 Google マップの使い方として これは 標準的なものであろう。

 もう一つ楽しみとして ストリートビューを使うことがある。 それは、おそらくこの先一度も訪れることがないはずの場所に仮想的に訪れてみるという経験を持つことである。 知らない島のストリートビューをしてみると、そこには人気のない海岸に1軒だけ建つ小屋を見つけたりすることがある。こんなところにも人の営みがあるということに素朴に驚いてしまう。

 すると、他の島にも訪れたくなり、Google マップをあちらこちらに移動させて、島のあちこちを疑似散策する。この楽しみは半年に一度くらいの割合でマイブームとなり、旅情を掻き立てられる。しかし、現実の波がそれを砂の城のようにたちまちに崩してしまうのだ。

 本当の旅に飢えているのかもしれない。本当に知らない場所を訪ねて、素直に感動してみたい。そんな気持ちにこのところずっと取り憑かれている気がする。

旅の意味

 先日、「旅と日々」という映画を観てきた。つげ義春の漫画を原作とする作品だが、原作の再現というより、その世界観を利用して独自の映像世界を作り出していた。

 主役のシム・ウンギョンは韓国人ながら日本の映画の脚本家として登場するが、外国人ゆえの客観性が自然に演じられており、全体的に虚構性が強いこの作品にリアルな雰囲気をうまく表出していた。

 ストーリーは前半の離島を思わせる海のシーンと、後半の雪深い辺境の宿のシーンとに分かれる。どちらもゆっくりとした時間が流れ、しかしその中にはさまざまな人間模様がある。旅の途中で出会うかもしれない一時がうまく描かれていた。

 いつもとは違う時間の流れに身を置くこと。それが旅の意味だと考える。最近は観光地に行っても効率よく観光スポットを巡ることばかりに関心が行き、結局非日常の時空に身を置くことができていない。効率性とか費用対効果とか、そういうものから解放されるために旅はあるのではないか。

 どこそこに行きましたが、有名な場所には何処にも行けませんでした。ただ、ゆっくりとのんびりと過ごすことができました。そして普段の生活を振り返ることができました。そういう経験が本当の旅なのだろう。

 最近はそういう旅の仕方をしていない。観光スポットをどれだけ踏破するのか、そこをどれだけ短時間で、安価に巡って来たのかということばかりに気を取られすぎだ。

 もっと余裕のある旅をしてみたい。そう思いながら毎日を過ごしている。

青春18きっぷが変わる

 青春18きっぷはかつて一日有効の5枚つづりの回数券で、普通電車なら何度でも乗れるというありがたいものだった。学生時代はこれを使って旅をしたこともある。期間内ならばいつでも使えたので、夏に二回の旅をしたこともあった。とにかく時間がかかったが、今のように時間的な制約がなかった学生時代にはありがたいものだった。

 今年の冬期切符からは制度が変わり、連続する3日、もしくは5日間だけ使えるようになり、分割ができなくなるらしい。その期間に使い切らなければならないとなるとかなり用途は絞られてしまう。自動改札を通過できるようになったので、乗り換えのときの手間はかなり減るが、それよりも使い勝手が悪くなることの方が大きく、改悪と考える人が多い。

 青春18とは面白い命名だが実は利用者の多くは元青春の世代であり、リタイア世代も利用する人が多いらしい。私も連続する5日が自由に使える日が来たら普通電車の旅に出てみたいとも思う。逆に言えばそういう人でなければ使いにくい。奇数の切符だから3角形、もしくは5角形の旅をすることになる。そういうことをいちいち考えられるのが青春ということなのだろう。

手持ちの道具で

 旅行者の視点というものをこれまで何度も考えてきた。日常生活の風景は次第に新鮮味がなくなり、それを語る意欲を失わせる。それが旅人の視点になると、同じものが感動の原点になることもある。

 文学でも絵画でも音楽でも、異邦人が切り拓いた作品は数多い。非日常の風景に感動することが作品を生み出す原動力になるからだ。私はこの旅人の視点こそが文化を動かしてきたと考える。

 異国にたどり着いた創作者が持っているのは、自分が使い古した表現のための道具である。それが言葉なのか画法なのか、はたして音階なのかは表現手段によって異なるだろう。でもいずれにしても手持ちの道具で表現するしかない。その対象を表現するのに最適な方法はまだわからない。ただ描くしかないのだ。

 自分の知っているやり方で、いままで扱ったこともないものを描くのは難しい。だが、それでも表現したいという気分が勝れば新しい表現が生まれる芽が出るのだ。持っている道具は同じなのに、その使い方に革命が起きる。

 この意味において旅することには効用が大きいと言える。本当に身体をどこかに移動する旅でも、精神的に非日常の空間に身をおくのでもよい。旅することには大切だと考えるのである。

行ったことがない県

 これまで47都道府県の中で1時間以上滞在したことがない県を考えてみた。私の場合は秋田と徳島だ。どちらも魅力的な県なのに今まで縁がなかった。逆に言うと他の県は仕事や個人的な旅行で訪れたことがある。

 徳島の祖谷渓や大歩危峡には行ってみたいと前々から思っていた。また秋田の男鹿半島や田沢湖なども写真を見て憧れるばかりだ。この先何かのきっかけで訪れることはあるのだろうか。恐らく待っていても機会は来ないのかもしれない。

 いつかは訪問したい。

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海の色

 旅先の海の色はやはり少し違う。水温とか海流とか、その他のさまざまな要素で違って見えるのだろう。おそらくそれだけでもあるまい。

 海を見る自分自身がいつもと違う。普段は気づかない光を感じ、色を見つけるのだろう。写真に撮ると旅の思い出が少し色褪せて見えるのはそのせいだ。被写体だけではなく、カメラも違うということだ。

 いつもと違う風景を見て、いつもと違う自分を知る。旅の意味はこんなところにある。

旅の記憶

 新幹線に乗ると昔の自分を思い出すことがある。富山で仕事を始めた頃、新幹線は長岡で乗り換えるしかなく、乗り換えたあとの北陸本線が結構長かった。今は一本で富山、東京間を行き来できるのでとても便利になった。

 まだ富山が謎の地であった頃、帰京は息抜きであった。よる8時にほとんどの店が閉まり、ファーストフード店もコンビニもなかった町で暮らすのは抵抗があった。順応するために始めたジョギングはやがて本格的になっていった。やることが他になかった。

 新幹線で高崎を過ぎるあたりで世界は一変した。特に冬は雪景色と乾燥した晴天の別世界だった。はじめの頃は日本海側に行くのが心重く感じ、後半は関東の天気が怖かった。

 ある程度、時間を重ね、今の状況を俯瞰できるようになると、どちらでも抵抗はなくなった。要するにどんな場所でもやるしかないと思い知らされたのだ。ただ気持ちの切り替えをするのが新幹線であったことは変わりない

 今でも北陸新幹線は別世界に移るときの乗り物なのである。

旅日記

 私にとっては明日からが連休期間になる。感染者数が上がり続けていく中で旅行は取りやめることにした。残念だが仕方ない。

 近隣の史跡や公園。博物館、美術館に行くのも精神的な旅と考えることにした。KOKUYOの野帳という小さなノートにその印象を書いておくことにしている。チケットなどを貼ると旅日記風になっていい。

 このブログでも書いてはいるが、手書きの気安さと自由度は何ものにも代えがたい。誰にも見られないのもいい。みなさんにもおすすめしたい。