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人工知能に勝つ

 現時点でもAIの能力はかなり高い。自然な言語で文章を生成する能力を持つ。最近注目されているチャット式のシステムを体験すると、その感がかなり揺るぎないものになる。海外ではこの技術を使って論文を書いたり、絵画のデザインをする人も増え、大学で使用禁止を通達した事例もあるという。

 AIに勝つためにはどうしたらいいのだろう。あっさりシンギュラリティを認めていいものだろうか。

 私のようなものにとってはこの事実は許しがたい。人間には無限の能力があり、機械が模倣しても追いつけない何かがあると考えてしまう。これはほとんど夢に近いものなのかも知れない。

 でも、学校で教えていることはまるで機械と同じだ。もっともこの言い方は間違っている、これまでの教え方をコピーしたのがAIなのだから。ならば、奴らに勝つためにはもっと他の方法を取るべきではないか。

 人間の思考の根本には言葉の意味を考えるということがある。たとえば愛なら愛という言葉の非常に重層的な意味を瞬時に理解し、それらを組み合わせる。また、常に同じ組み合わせではなく、時々間違えていつもと違う取り合わせにする。その中にはこれまでにはない新しい発見が含まれることがある。こんな生物の進化のような非論理的偶然性こそ、人間の思考の大きな特徴ではないか。

 この方面では機械学習は役に立たない。最適解を短時間で出すことを求められているのだから。人間は人間のペースを保たなくてはなるまい。それは間違いを許容し、新しい組み合わせを認める審美眼である。学校ではこれを教えなくてはならない。

 今の敎育がAIの手下になることばかりを推進していることに深い危惧を覚えるのだ。もっと間違えよう。新しいものに敬意を持とう。実はそう教えたい。

解答時間

 想定する解答の時間を超える出題をすることがますます増えていきそうな気がする。つまり出題者は満点を取ることを始めから想定せず、どうしたら効率よく得点できるのかを試す。問題を絞って解答するのである。

 この方法は問題点が多い。熟読熟考するのではなく、いわばヤマをかけることで高得点を取ることを公認しているようなものだ。臨機応変の対応と情報処理の能力を問うといえば聞こえがいい。私には浅薄な思考を推奨する方法としかとれない。

 熟考する力を問う方法はないのか。また問題解決の方法自体を試す問題はできないのか。それを考えるべきだろう。

国語の関守

 語彙の貧困化について同僚と話していく中で、やはり国語の教員が使う言葉を意識して、時流に流されないようにすることが大事だということになった。言葉は時代とともに変化するものではあるが、それを堰く存在も必要だ。

 「やばい」「めっちゃ」「オワタ」などの流行語は汎用性が大きいのが特徴である。他の表現を駆逐してしまう毒性もある。善くも悪しくも急激に心が動き、印象深いときにやばいと言い、それを強めるときはめっちゃをつける。どの程度どうなのかは「めっちゃやばい」からは分からない。

 教員仲間でもこのような表現は普通に行われており、曖昧な言葉を使っているという自覚もない。生徒諸君にとっては繊細な感情表現の方法を学ぶ機会が限られていることになる。だから、国語科の教員はせめてもの言語表現の伝統の保守的伝達者になるべきだと言うことになる。

 そもそも人間の心の動きは複雑で名状しがたい。嬉しさも悲しみも様々あって、実は厳密に言えば一回限りのものである。それを限られた言葉で切り分けるのは無理というものだ。だが、そう思っても言葉の力を諦めないことが人間の叡智と言うべきものだろう。

 切なく震えるような心の動きを何というか。言葉探しを忘れてはならない。流行語に逃げ込んでしまうことは容易だか、まずは自ら言葉を探し思いを言い当てていく面倒な試みをさせるべきなのだ。その役を国語科の教員はかって出るべきなのだろう。

なんでも写すな

 学生の頃、指導教授の講義を徹底的にノートしたことがある。それこそ速記のようだった。一部に記号を使い、時間短縮した。細かい言い回しや余談までもれなく書いた。こういう方法は今の学生諸君には勧めない。

 ノートを写すのに熱中しすぎるとかえって大切なことを聞き逃すことになる。私が速記方式にしたのは先生の学説というより、お人柄、人間性、さらにはそこから滲み出る表現方法に心酔していたからであり、必要な情報を受容したいのなら、こういうノートは取るべきではない。どうしても記録したいのならボイスレコーダなりを潜ませればいい。きっと再生することは稀だろうが。

 おすすめするのは要点のみ箇条書きでメモし、その後に自分の感想や疑問点を書くことである。人の話を聞きながら、自分の考えを書くということになる。質疑応答の時間があればその場で質問し疑問を解消できる可能性がある。なくても授業や講演のあと、調査するきっかけができる。

 なんでも写すな。自分の考えを書けというのが最近の私のノートの取り方だ。

不合格

 受験シーズンである。少子化が進んでいるとはいえ、人気のある学校への進学はやはり難しい。試験があれば当然不合格もある。

 私も不合格の経験は何度もある。苦い思い出だ。ただその中には合格しなくてよかったのではないかと思うこともある。万一合格してしまっていたら、いまとはまったく異なる人生を送っているはずだ。でもそれがかならずしもいいものとは思えないのだ。

 教育関係者としてはっきり言えるのは、今の入試の方法は理想とは程遠いということだ。短時間に説得力を伴った選抜をするならば今の方法は合理的だ。しかし、これは手際よさや無批判に物事を受け入れる気質には向くがそれ以外には不利なやり方だ。本人の能力を測りきれてはいない。

 不合格になった皆さんには声を大にして言いたい。試験はあくまで能力の一部を測るものであり、それかあなたの本質とは言えない。自分の良さを理解し得ない学校や組織はあなたから見切りをつけ、もつとあなたを評価してくれる場所を見つけるべきだと。

 これは私自身もいつも考えていることだ。自分は選ばれるだけではなく、自分が選ぶべきだと。

退職教員を活用せよ

 ポジショントークとの批難を恐れずに言えば、退職教員をもつと活用すべきだと思う。やる気があり、能力もある教員を使わないのは社会的損失であろう。

 多くの教員は定年後教育関係の仕事に就けない。経験と実績があるのに仕事ができないのだ。そこで、退職教員を活用する方法を考えたい。

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 教壇に立つことが最もいいが、それ以外にも「使い道」はある。後輩の指導員として、もしくは補助としての役割を与えることだ。この場合、あくまで主役は現役の教員であり、退職教員は前面に出てはならない。この心得のないものは教育現場から離れた方がいい。管理職経験者は適任のように思えるが、管理することに関心が強すぎる人にはこの役は向かない。

 事務補助もできる。多忙な教員の事務的な面をサポートする仕事だ。機械にはできない配慮のいる作業を請け負う。教員経験者ならばかゆいところに手が届く仕事ができそうだ。

 生徒の生活指導や悩み事の相談相手などの役割にも向いている。スクールカウンセラーが不足している現状では、教員の資格で生活指導に専念できる仕事を作ってもよい。

 部活動顧問や指導員をやることも彼らにとって適役だ。もともと技能を持ち指導ができる場合は申し分ないが、そうでなくても子どもの扱いや、保護者対応きなれた経験を活かしてマネージメントをすることができる。

 このように経験と実績を活かして退職教員を雇用すれば教育現場に利すること大である。現役教員は授業に集中でき、その完成度が上がる。人材不足の地域こそこの制度を検討すべきではないか。

充電は学校で

 子どもに電子端末を持たせる活動は時代の流れとしては止められないことだろう。ただこれは学校だけで完結するべきではないか。家ではノートに手書きで書かせるべきだし、検索して終わりという思考法に落とし込むことは避けるべきだ。

 そのためにも長期休業期間以外は生徒の端末を学校で預かり充電も済ませる設備を設けることを提案したい。中等教育まではこれでいいのではないか。

 デジタルの世界で活躍するためには非デジタルの分野でどれだけ頭を使ったかが肝要だ。大人になれば日々の作業に追われる。子どもの頃は脳を活用して考える力を養うべきだ。家でもパソコンやスマホに頼る小学生や中学生の未来は暗いのではないか。完璧にではなくともとにかく自分で考えたという実績を積むべきだろう。

 そのためにも家庭ではデジタルの呪縛から逃れるべきだ。それが結局本人のためになると思う。

本を読もう

 大学共通テストの国語の問題を解いていつも失望する。多すぎる問題数と無駄なテキストの洪水、この国は一体何を目指しているのだろう。

 問題は翌日の新聞に発表されたので是非ご覧いただきたい。小さな活字で新聞2面分ある。ここに評論、小説、古文、漢文がひしめく。ここで試されるのは要領よく出題者の要求に対応することだ。情報処理能力は鍛えられる。でもそれ以上でもそれ以下でもない。

 これを知った優秀な受験生はきっとこう思う。細かいことはどうでもいいんだ。とにかく正解できればいい。どうしてそんな答えになるのか。それは他よりマシだからだ。それ以上考える必要などない。

 国の作る試験は極論すれば考えないことを要求していると言える。考えてはいけない。とにかく短い時間で蓋然性の高い解答をすることだ。これはAIの振る舞いそのものではないか。

 その末にあるのはなにか。考えるのはやめて機械に任せよう。無駄な試行錯誤より生産性だ。誰かが操っている? そんなことはどうでもいい。明日のことより今が大事なのだから。そういうメッセージしか伝わらない。

 大学に行くのもいいがまず本を読もう。自分で考えることができてこそ、未来はあるのだ。私は心からそう伝えたい。

特別警戒

 大学共通テストの日になった。利用している路線では特別な警戒態勢を取るとアナウンスしている。奇妙な放送になったのは昨年の東大会場での障害事件があったからだろう。

 受験には大きな精神的圧力がかかる。それが引き金となり事件が起きることも考えられる。これを社会的問題として捉えるならば、一度もしくは一年度の試験ですべてが決まるようなやり方を変えるべきではないかという問題提起の機会と捉えるべきだろう。

 受験で必要とされる能力の大半は社会的リーダーになる素養に結びつく。大雑把にいうと言われたことを素直に受け入れる力、受信した内容を自分の言葉に変換し蓄積する力、そして問われたことに手短に答える情報処理能力だ。

 しかし、測れないものもある。新たな問題を考え、やり方が分からない問題を解決する力や、他者と協力して解決する力などである。実践経験や成功失敗体験の量も分からない。

 評価の方法を複数回設けることの意味を考えるべきなのだ。受験生諸君には全力を尽くしてほしい。ただ、その結果が全てではない。

セールスポイント

 採用試験の際に人格をみようとするのが日本のあり方だと思う。学歴フィルターである程度判断し、細かい能力は問わない。人柄をみようとする。この方法は今後は減っていくのかもしれない。

 ジョブ型の雇用にとって、協調性や親和性は重要ではない。仕事ができるかどうかが問われ、結果が出なければ解雇される。こういう社会を識者は推奨しているように思う。かなり極論したが要はそういうことだろう。

 企業が家族のような存在だと言われた時代が終わり、スポーツチームのように流動性の高い組織になる。会社に適した人は高い報酬が受けられる。存在感を示さないと地位を保てないのだ。

 そういう労働観に徐々に転換することをこれからの若い人たちは覚悟したほうがいい。この場合、必要なのは個人で生き抜く力だ。スキルはあったほうがいい。そのために学ぶことは止められない。

 それに加えて自己を売り込む表現力も必要だ。ただ資格を持っているだけなら、代替の人材はいくらでもいるということになるはずだ。大切なのは自分の可能性をある種のストーリーで説明できる能力なのだろう。セールスポイントはこれとこれとこれでそれらを結びつけるとこんなことができるといったように。

 そこで手前味噌になるがやはり国語の能力は欠かせない。STEAMばかり強調されているが大前提の表現力がなくては何もできまい。学生諸君には時流に乗って上辺でものをいう「知識人」に惑わされないようにしていただきたい。