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しゃべりすぎ

 授業の反省はいろいろあるが、しゃべりすぎたときは特に気をつけたい。説明しきると教員としては満足するが、生徒側の立場では意味が異なる。

 自分の知っていることと知らないことでは、同じ分量でも理解にかかる熱量が違う。知らないことを並べられたらどうだろう。それを処理するのにはかなりの労力を要することになる。このことを考えるべきだ。

 しゃべりすぎないこと。伝える目的を考えることが肝要だ。いつもそう思いながら忘れる。このブログにこんな話題を時々書くのは、私が反省しても実践できない証だ。自戒のためにもその都度書くことにする。

新クラス

 クラス替えのことを覚えているだろうか。最近は変える側の方ばかりなので生徒の思いを忘れつつある。

 後から思えば同じ学校で別の組になったからといって大きな変化はない。かえって変化があっていい。でも生徒の頃は一大事だった。狭い世界に住んでいたと思う。

 そのように思えるにはその後の様々な経験が裏打ちされなくてはならない。先を急いではなるまい。まずはクラス替えに悩む生徒諸君に寄り添うことにしよう。

哲学?

 哲学を身近なものにしようとする試みは学校でも行われている。答えのない問題を深く考えることの大切さは何ものにも変えがたいものがある。

 哲学的な境地をどこに求めるのかは議論の余地がある。賢哲の教えをある程度勉強しなければ哲学などできないという意見もある。これは間違いではない。ただ、そればかり気にしていると深い思考に至る前に人生は終わってしまうかもしれない。

 何も知らなくてもいい。難しい理論は後から学べはいいというのが正しいのだろう。深く学んでいるうちに気づくことがある。この方が大事だ。

待つ

 今年の授業のテーマは教え過ぎないことである。単なる情報伝達ならば人間以上に優れたものがある。教えなくてはならないのはそれらを駆使して運用する言語能力である。この方は助言がいる。

 自分が受けてきた授業では教員が一方的に情報を与え、生徒はそれをとにかく覚える。無批判に受け入れられる生徒ほど成績がいい。それで大学まで合格できてしまう。できないのは先天的な要素もあるが、それ以上に他人の価値観を素直に受け入れる能力だろう。

 そういう人材の中には、自分から新しいことを生み出したり工夫したりする能力がない人も多い。与えられたことは見事にやってのけるが前例のない事態に対しては弱い。それが日本のエリートの主流と考えられる。

 では自ら考える力を培う為には何をすればいいだろう。その一つの仮説として答えでなく答え方を教える方面へのシフトだ。教員ならばこの理想論は必ずどこかで聞いたことがあるはずだ。教育学者が理論として述べることも多い。でも具体的に何をすればいいのかを示す人は少ない。示してもおよそ実現不可能であったりする。それでは前に進まない。

 私はまず生徒諸君が考える時間を作ることが肝要と心得る。答えを次々に提示するより時間がかかる。伝えられる情報量は激減する。いろいろなことを割り切らなくてはならない。でも目的が考えることの方にあるならばそれを優先すべきなのだ。

 4月からはかなり違った授業になるのだろう。冒険であるが楽しみでもある。

経験と感触

 物事の本質を見るためには直感が必要なのだろう。ひらめきと言ってもいい。それはまさに天から降ってくるような感覚だ。

 その直感はどのように培われるのだろうか。天賦のものという表現もある。しかし、これは先天的な要素だけではうまくいかない。経験と感触の記憶のようなものが影響していると言われている。

 天才と言われる人は何もせずに能力を発揮できると信じられている。ただ、その才を表出する前に基盤となった経験をしていることが多いようだ。一見結びつかないような出来事から才能を開花する養分を得る。自分でも意識しないうちに準備ができているということになる。その組み合わせが起きる可能性が低いため、天才は希少なのだ。

 天才にならないまでも、私たちは一見結びつかないが経験やそこから得られた感触が知的活動の基盤になっていることに気づかなくてはなるまい。役に立つことだけをやろうとする昨今の風潮はその意味でかなり危険だ。シンギュラリティを恐れている人間が進んで機械の思考システムに近づこうとしている。

僕らの知らない道だけど

 仕事柄、いろいろなことに躓いている人に声をかけることが多い。そういうときに思うのは人それぞれのやり方があっていいということだ。

 同調圧力をかける側の仕事をしておりながら、自己矛盾も感じる。ただ、やるべきことは人によって違う。やり方も人それぞれという事実は忘れてはならない。他人と別のやり方では都合が悪いのは自己利益のために誰かが犠牲になることだ。それは避けるべきだろう。全く何も迷惑をかけないことは不可能だが、それにも節度がある。それを超えるものでなければよいのではないか。

 自分の歩いた道は人にも勧めやすい。少なくともその道でどう振る舞えばいいのかを心得ているからだ。対して自分が経験したことのない進み方をしている人にはついそれは間違っているからこちらに来いと言ってしまう。その人の適性など考えることなく。

 私はそのやり方は知らないが、でもそれがいいならやってみるといい。そういう余裕をもちたい。

時間のメリハリ

 学習するときの時間の使い方は区別すべきだ。目的が学ぶ過程にあるのか結果にあるのかをまず峻別しよう。

 一生懸命やれば結果が出るとは私たちが根拠なく信じてきたことだ。恐らくそれは間違っていない。ただこれには条件があって、制限時間が短く設定されていないことだ。長く根気強く続けていればてきるようになることがある。趣味のことやライフワークといったものはこれに属する。長く細くいつまでも続ける学習法が適している。

 対して時間制限があるもの、期限が限られているものは時間の使い方が異なる。結果を求められる場合、極論を言えば正解さえ分かればいいのだ。できるだけ効率的になおかつ再現性が高い方法が見つかればなおいい。こうした種の学習は学校で教えることの大半が含まれる。本当はそれではいけないと思うが現実がそうなのだ。

 結果が求められるものの学習方法は時間の割り切りが必要だ。普段からある程度の制限時間を設けその中で学ぶことが必要なのだろう。教員の役割はそれを個々人の理解度に応じて調節し提案することだろう。

 私自身もこの二つの時間の使い方を意識する必要を感じでいる。だが、しばしばこれを取り違える。

コメント

 通知表に何を書かれたか。それを覚えている人は少ないだろう。小学生の時の一言で性格を書かれたコメントは大概納得がいかなかった。親にはうなずかれても自分ではそうは思わなかった。そんなによくも悪くもないと思った。

 人の気質なりコンピテンシーなりをそんなに簡単に言い表せるはずはない。書けたとしてもそれは一人の視点から見たもので、神の視点によるものではない。もしあなたが親ならば、そのことを踏まえて子に助言すべきだ。

 逆にこんな見方もできるという可能性を示したものとして捉えるならば意味が出てくる。生徒自身の考える自分と、親が我が子に対する見方とは別に他人からはどのように見えているのかを知る一つの材料とすればいい。それは絶対的なものではない。人の評価など自身も含めて容易ではない。色々な視点を集めてようやく全体の中の一部分が照射される。そういうものだろう。

目的確認

 仕事のデジタル化が少しずつ進んでいる。その結果、これまで時間がかかったことがかなり短縮できるようになってきた。いまのところ採点が機械化したことで、小テストを行いやすくなったということがある。ただ、これが学習の効率に結びついているのかどうかはまだわからない。目的の確認が必要だ。

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 教員の仕事を少しだけ楽にすることに関しては成功した。ほんのわずかだが、過去に比べるとかなり楽だ。定時には帰れないが、理不尽なほど遅くはならない。ただ、教育のデジタル化が生徒の立場でどれほど意味があることなのかは常に検証していかなくてはならないだろう。テストはすぐに帰ってくるがどうもきちんと復習はできていない。テストもルーティンワークの一種と考え、知識を一過性のものにしてしまう。そもそも問題を解くことの喜びを感じられない。そういうことがないかということを考え直すべきなのだ。

 そのためには、省力化した分の余裕で何ができるのかを考えるべきだろう。いまのところ、私はそれを面談に費やすべきだと考えている。教員の最後にして最大の仕事は生徒諸君の学習意欲をあげることに他ならない。どんなに良い教え方をしても生徒が聞き流してしまえばそれまでだ。だから、自分で学べる工夫をしていくことにすべての叡智を傾けるべきなのだ。できることといえば学習方法への助言と、それよりも大きいのが個々の生徒に注目していることを伝えることだろう。

 生徒の数が多い中でどうやって面談を行うか。私の日程も結構詰まっており、不規則だ。それを解消するのはやはりスケジュール管理ソフトなどを活用するほかあるまい。それをどのように行うのか。この春休みの課題として考えていくことにしたい。

画像生成

 AIによる画像生成の技術は見るものを驚かす。最近はキーワードを入力するだけで絵画や写真のように見えるものをごく短時間で作り上げる。知らない人が見れば人が描いたものと見間違うほどだ。

 おそらく私たちの画像認識というものはある程度パターン化している。それをコンピューターは膨大な映像データベースから抜き出し、それに近いものを組み合わせてくるのだろう。組み合わせの仕方にもある程度の型があるから、それを使えば自然に見える絵になる。チャットするプログラムと基本的には同じなのだ。だから、ときには奇妙な絵になってしまうこともある。

 今のところは、絵画や動画生成を瞬時に行うことは難しいようだ。それが可能になれば、言語プログラムと作画プログラムを連動させ、ホログラムのような表現で投影すれば、リアルタイムで会話する疑似人間ができあがる。ロボットテクノロジーが追いつけば形而下の世界に現れることになるのだろう。

 言葉でも映像でも騙されやすい私たちがこうした事態にどのように対処すべきだろうか。そのためにも問題発見力とメタ認知の力を身に着けさせるべきだろう。これこそが教育のやるべきことなのだ。