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テレエデュケーション

 職場でコンピューターを使った授業の方法を実践するための講習がありました。主にビデオを使った授業運営ですが、いくつかの問題点がありました。

 生徒の発達段階や、いたずらすることに対する対策が不十分だということです。多くのソフトは利用者が対等な立場にあると想定されており、教育現場のような立場の差があるような場面に対応していません。

 後は使いようだとは思うのですが、これを使いこなすためには経験が必要だと痛感しました。図らずもIT化に迫られる事態になってしまいました。

教員として

 なんとか新学期は始められそうな状況になってきました。しかし、ウイルス流行の峠が見えない現状ではいつまた中断するのかわかりません。たとえば関係者に陽性反応が認められた時点でおそらくまた数週間の学校閉鎖という措置になることは十分に考えられます。すると、これを機にこのような事態でも効果を失わない教育方法を考えていく必要があります。

 大前提として、発送の大転換をしなくてはなりません。教員は情報を伝達するのではなく、学習の仕方を教える存在にならなくてはいけないということです。自ら教えることができない事態が起きるということは今回の件で痛感しています。生徒が一人になってもどうやって学習すればいいのかをはっきりと示すことができることが教員の大きな役割になっているといえます。

 学習の方法論を示せばいいというわけでもありません。もっと大切なのは学ぶ意味をはっきりと伝えられるということです。今の子供達にとって学びは将来の自分の人生を大きく左右する知識とスキルの蓄積の機会です。私自身の人生におけるそれよりも今の生徒世代の方が学びの有無による人生の差は大きく出てしまいそうな気がします。もちろん格差社会は避けなくてはならないですが、現状が格差拡大に向かっている以上、獲得できるスキルや経験は若いうちに積んで置くべきでしょう。そのことを危機感を持って、しかもいたずらに恐怖を煽ることなく伝えることは教員の重大な責務であると感じています。

 根気ややり抜く力も大切であることも伝えなくてはなりません。誰もが効率よく目的を達成できるはずはない。むしろ多くの人は失敗の繰り返しです。そのなかでも挫折することなく、何度でも立ち上がる力を育てることはこれからの日本社会にとってはもっとも重要なスキルであると感じています。これを伝えることも重要です。

 仲間と協力することの大切さも伝えなくてはなりません。一人の力では如何ともしがたい現実が若い世代には待ち受けています。その中で必要なのはともに考える力です。小異を捨てて大同につく力です。小さなことにとらわれて死活問題的な大問題を見失わないようにさせることがなによりも大切です。

 こうしたことを新学期には生徒に伝えていこうと思います。いつ学校が中断しても自ら学びを続け、向上することをやめないい人材を一人でも作ることができたなら、私の存在価値があるというものです。

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日本語のパソコン

 日本のパソコンメーカーがほとんど壊滅状態であることは素人でもわかります。日本独自の企画で作られているコンピューターはほとんど皆無といってもいい現状です。低価格のパソコンは特別な設備もいらないようで完全にコモディティが進んでいる分野です。

 ただ、今後ぜひ頑張ってほしいのが教育用の分野の国産パソコンのハード・ソフトの国産化です。生徒がつかっても壊れにくく、修理がしやすく、さらに低価格なパソコンと、日本の教育にあった教育ソフトの開発は至急行っていただきたい課題です。

 教学用のパソコンといえばChromebookがあります。安価で管理もしやすい学校用のPCとして日本でも次第に広まりつつあります。ただ、このPCはアメリカ発のものらしい側面が随所に見られます。日本の教育場面にあった工夫がもっと取り込まれなくてはそのままでは使いにくい。日本の縦書きやルビなどの特殊な書式にも対応できていません。

 コンピューターを使うことが言語技術に大きく関係している以上、日本語の言語環境と親和性が低いパソコンを使うことは、根幹から言語の優位性を下げてしまうことにもつながります。これはWindowsでもiOSでも同じであり、日本語にあったパソコンを作ることにはもっと関心を持っていいのではないでしょうか。いままでは外国産のコンピューターを模倣して作り、それに合わせた操作性に自分が慣れていくという方法でしたが、次の段階があってもいい。日本語の環境にあったかたちのコンピューターを日本語話者が造る時代にはいったのではないでしょうか。

 教育現場でつかわれるパソコンは日本語にあったものであるべきだというのが私の持論です。それならば日本のメーカーが参加するチャンスはある。というより日本のメーカーに活躍してもらわなくてはこの国の知的生活の未来は怪しくなるといえるのではないでしょうか。

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不安軽減

 東日本大震災のときにも学校を開けずに自宅待機をさせたことを思い出しました。その際、ごく一部ではありますが極度の不安症に襲われてしまった生徒がいました。今回もそうならないか懸念されます。

 震災のときは全般的な物資不足に加え計画停電などのライフライン断絶の状況が起きたことが生々しい恐怖としてありました。対して今回はマスクや消毒液などの不足と、デマによるトイレットペーパー不足を除けば物流はほぼ保たれています。加えて震災時よりソーシャルメディアが普及し、孤立感は低くなっている可能性があります。 

 ただ、直接語り合い安否を確かめ合えない状態が続けばやはり不安に思う人は増えるはずです。家族が支えですが、日中は子どもが一人になる可能性が大きいことや、同じ人物だけのコミュニケーションでは自然と閉塞感が出てしまうのを考えなくてはなりません。

 そこでやらなくてはならないのは定期的な発信だと考えました。幸い生徒諸君は個人用の情報端末を持っていますので。毎日メールやサイト更新などをすることで少しでも気持ちをつないでいきたい。あくまで急場しのぎの策ですがやらないよりはいいと考えます。

 この災難は学校の役割を再考する機会でもあります。

一斉休校はやり過ぎ

 安倍総理が全国の公立学校に休校を要請したことには賛否両論があります。私は行き過ぎであると考えます。

 今のところ学校は感染源ではなく、低年齢層の重篤者は少ない中で、すべての学校業務を止めることはデメリットの方が多い。女性活躍を目指す政権が休校になった家庭の子どもがどうなるのかも考慮すべきです。

 教育関連産業への直接間接の影響を考えると一斉休校は意味があるのか疑問です。この効果については検証が困難というのが為政者の判断の背景にあります。感染を予防する効果の有無は確かめられない。万一、学校での集団感染が起きたら無策と難じられる。そのバランスで決定されたのでしょう。

 学校を止めることによる社会への精神的な影響の方が懸念されます。行き過ぎた自粛ムードに拍車がかかることは間違いありません。

どのように考えさせるか

 一問一答式の問題への対応ではなく、予め答えが用意されていない課題に対応する能力が求められています。中等教育では従来の基礎教育が引き続き必要であるのとともに、知識を応用し自主的に考える方法を教えることも求められることになります。

 大学共通テストの記述問題は、採点を公平に行うという問題を乗り越えることができず頓挫してしまいました。解答の方向性を決めるためにさまざまな制約をつけて出題すれば、形を変えた選択問題と等しくなり、記述型でみたい思考力は十分に測定できません。いろいろ補助線を引けば解決すると考えられた採点作業も結局、公平性を保つほどの精度が期待できないということになってしまいました。大学受験者が一斉に受ける試験にこういうタイプの問題はもともとあっていなかったというのが私の意見です。やるならば各大学の個別試験でやればいい。求める文章力や論理の立て方が学部ごとに違ってもいいし、各大学ごとに個別の基準があってもいい。それが記述型試験の本来のあるべき姿であると考えるのです。

 さて、それは大学の入り口の件ですが、その影響を受ける中等教育では自分の考えをまとめ表現することに対してどのような教育を行うべきなのでしょうか。まずは問題意識を喚起させることから始めなくてはなりません。今の生徒、すくなくとも私の関わっている生徒は、教員から与えられた課題に対して答える努力をする才能はかなり高度なものがあります。その反面、自分なりの疑問点をもつことや、それを表現することはかなり苦手であり、結果として常に受動的な学習をしていることになります。

 生徒に自由な課題を選択させて論文のようなものを書かせようとすると、ネットで検索すればすぐに解決してしまうような問題をあげる者が大半です。また、どうしても解決しようもない大問題をあげる生徒もまれにはいますが、むしろそれは歓迎すべきです。答えが出そうもないことは考えないという判断停止の習慣は大人も含めて日常化しています。それを変えていかなくてはならない。

 学校は知識の伝達の場という印象があまりにも強いために、知の創生ということがおろそかになりすぎた。中高生は発展途上でインプットが中心だという考えも強すぎた。いまやらなくてはならないのは知識を伝達しながらも、いかに出力をする方法を教えていくか。そして大学教育にそれをどのようにつなげていくのかを考えていなくてはなりません。

 まずは自分が興味を持ったことを記録させることをやっていこうと考えています。いきなり自分が取り組むテーマを見つけようといっても無理があります。自分がどのようなことに関心をもち、何に疑問をもっているのかを形にしていくことが大事ではないか。少しずつ形にしていくことが大事なのではないかと考えています。

察し悪く

 生徒の作文を読んでいて論理的ではないと考えながらも見逃してしまうことがあります。それは読者である私が推測という行動を多めにはさんでしまっているからなのです。言葉を教える教員としては察してはならない。文章に関しては「忖度」は禁物という話です。

 今後の国語教育の課題として自己表現力を高めるというものがあります。読解に偏重していた教育のあり方を表現に変えていくのは実はそう簡単ではありません。その方法、手順、そして評価方法などが確立していないからです。これについてはこれからも考えていきたい。このブログでもその一端を紹介することがあるでしょう。ただ国語教師としてやらなくてはならない大前提は物分かりのわるい人になる必要があるということです。

 私たちがコミュニケーションをするときには、実際には言葉だけではなく身振り手振り、テンポ、間、声の調子などのノンバーバルな側面を総合的にとらえて相手の意思を判断しています。それが円滑なコミュニケーションの基本であり、特に口頭表現の技能においてはこの側面をもっと教えていくべきでしょう。ただ、文章表現に関してはあくまで文章の記述をとおして自己の意思をつたえるのが基本です。その作文のなかでは曖昧さは許されない時もあるのです。

 生徒の作文で最近目立つのは表現の不十分さです。会話では前後関係から察することができるので敢えていわないということも、文章化するときには書かなければ誤解されるということがあります。特に目立つのは体言止めなどの最後まで言い切らない表現です。それが何なのか。何を言いたいのかを最後まで書かなければ誤解を生みます。日本語は打消し表現が最後に来ますので、最後にどんでん返しが可能です。文章で説明する時には断定の助動詞を使うまで言い切らなくてはならない。

 教員が添削するときにそれを会話を聞くかのように読者側で想像してしまうのは作文教育に限ってはやめた方がいいのでしょう。誤解を生むあらゆる可能性を防ぐために物分かりの悪い読者になるべきなのです。まずはこれが生徒に表現教育をする大前提と考えています。

後生畏るべし

 私の最近の座右の銘は「後生畏るべし」なのかもしれません。あいまいな表現になっているのは結果的にそう考えているというものであるからです。次世代リーダーの輩出こそが責務と考えているのです。

 生徒諸君は多くが未完成で成長段階にあります。しかしそれは発達段階上の現象であり、自分より劣っているということではありません。昔より今の子どもは様々な点で恵まれている。だから苦労を知らない。苦労していないから自分より劣っているなどいう思考回路は私たちの陥穽にあたります。どうして自分より劣った世代が次の世界を担えるでしょうか。少なくとも自分たちよりは困難な状況が予測される将来を担う人材はもっと優秀であらねばならないし、現にそういう人材が生まれつつあるのです。

 だから生徒に接するととき、今は教員と生徒という立場にありますが、時間が経てばそれが逆転するかもしれない。いや、なるべく早く逆転できるように接していかなくてはならないと考えます。自分を超えた存在をいかにしたら生み出せるのか。教育の根本理念をもっと考えていかなくてはならないと考えています。

 そのために最低限必要なのは生徒に敬意をもって接することではないでしょうか。自分より劣った自分以下の存在を教化するのではなく、自分を超える存在が成長するのを手助けするという考え方こそ今の教育界に必要な考え方なのです。

付き合って考える時間を

 英語の4技能をいかに育成するかという議論が、大学共通テストの運営の問題でおかしな方向にそれつつあります。そしてそれ以前に母国語の4技能も怪しいのではないかという危惧も生まれています。

 PISAの試験結果によれば日本人の読解力の低下が懸念されるという結果が出たとのことです。国際比較試験はその測定方法に問題点も感じるので、その結果そのものが事実を反映しているのか否かについては慎重であるべきです。ただ、実感としても若年層のみならず、大人世代以降についても読解力の低下がもたらす弊害が随所で出てきている気がしてなりません。大きな原因は文章をしっかりと読む習慣が減りつつあることに相違ありません。

 日本の産業界の悪習として無駄な説明書を作りすぎるということがありました。その反省からいまは直観的に操作できる機械とか、説明なしに始めてしまう社会システムが優先されています。それはそれで素晴らしいことなのですが、個々人が説明を理解することなくなんとなく始めてしまうということが増えています。またその方法について話し合うとか教え合うということもあまりなされず、個々人の試行錯誤に任せるという風潮にあります。こうした中では文章を読んで理解したり、互いにコミュニケーションをして答えにたどり着くということが行われなくなります。自然と読解力、理解力の育成される場がなくなっていく状況にあります。そして、この方法を大人たちは子どもにもそのまま当てはめてしまっています。

 子どもたちの読解力低下をスマートフォンなどの情報機器のせいにするのは簡単ですが、それ以前に子どもにものを考えさせる機会を奪っている大人たちの責任も考えるべきではないでしょうか。情報さえ与えれば子どもはそれを勝手に理解できると勝手に考えている。そして、子どもの疑問に付き合い、ともに考え、答えのヒントを出していく過程を今の大人たちはほとんど放棄している。それが読解力とか話の内容を理解する力を身につける機会を奪っているのです。

 将来のこの国のあり方を真剣に考えるのならば、大人は子どもの置かれている学習環境にもっと関心を持つべきです。そして特にコミュニケーションの分野においては学校任せにせず、もちろんそれ以前に機械任せにせず、家族とか社会全体で将来の世界を担う人物を育てるという視点を持たなければならないでしょう。子どもたちに考えさせる時間・場所をそれぞれの立場で考えなくてはなりません。

廃棄を防ぐ

 大量消費、大量廃棄が当たり前だった時代は終わろうとしています。環境の維持は至急の命題ですが、経営的にもいかに無駄なコストを下げるかが重要になっています。そのために各業界でいろいろな試みがなされています。

 教育業界では紙面の無駄遣いを考えなくてはならないと思います。何でもデジタル化すればよいというものではありませんが、必要ではないものは印刷しなくてもよいと考えます。小テストなどはいわゆる裏紙利用も積極的にしていこうと考えています。また、ちょっとしたメモなども再利用の紙でできます。再利用するためにはサイズを揃えて、しかもすぐに取り出せるようにしておくことが必要です。

 生徒が落とした筆記用具などの文房具などもなるべく取りに来させるようにさせなくてはなりません。身近なものを大切に使わせることは大切な教育です。どうしても引き取り手のないものは、必要な人に使わせることや寄付できるものがあれば積極的に行うことも重要です。

 コンビニ業界では恵方巻などを注文販売にしたり、賞味期限の近いものを値引きすることなどの工夫がなされると聞きますが、学校でそうした試みをすることは教育的な効果もあるはずです。色々と工夫をしていきたいと考えています。