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会うこと

学校をどのように再開するのか対応に迫られています。分散登校が一つの選択肢ですが、それならば工夫が必要です。

 学校を再開することは教育を止めないためには不可欠です。社会的距離の確保が目標となり、各種産業活動が停止している中で、子どもを動かすことがそれに反する行動になることも必至です。このバランスをとらなくてはならない。

 分散登校で教育的効果がどれほど確保できるのかはきわめて怪しい。大切なのは孤立している生徒諸君に仲間の存在、社会の存在を意識させることでしょう。ならば目的は非接触でも仲間を意識させる時間を確保することです。

感染予防のために隔離することは大事ですがそれだけではなく、心の距離を縮める工夫も大切なのです。

書かずに覚えられるのか

 漢字のテストをフォームで出題しているうちに、この方法で果たして覚えられるのか極めて疑わしくなっています。

 字は書いて覚えるものであり、画像の中から選ぶだけでは限界があります。手書きの意味は他にもいくつもあげることができますが、それを封じ手にすることは様々な問題点を抱え込むことになります。

 リモートでもできることとできないことは切り分けて、できないことは次善の方法で効果を狙うということは様々な分野で必要になりそうです。

学校が嫌いな人たち

 コロナウイルス感染予防のための自宅待機推奨がなされる中で、学校閉鎖が続いています。この事態で学力低下を懸念する人がいる一方で、むしろこの事態を歓迎している人もいます。

 日本の学校には一定数の不登校もしくはそれに類する人がいます。その原因は一律ではないために単純に語ることはできません。そのなかに集団生活への不適合が原因という生徒がかなり多く含まれていることは確かです。彼らはクラスに溶け込めず、自らの居場所を作り出せないために学校に行くことができません。彼らの中には学力的には問題がなく、学ぶ機会さえ与えられるならば好成績を上げることが期待できる生徒もいます。

 現在はいわば全員が不登校の状況にあります。生徒は分断され、不要な同調圧力に悩まされることはありません。時間の制約もなく、狭い空間に動きを制限されることもない。こういう状況の方が能力を発揮できる人はかなりいるはずです。学校閉鎖がかえってチャンスになったということになります。

 私は教員としてこの状況を大いに反省し、考え方を変えていかなくてはならないと感じています。学校には学力とともに社会性を涵養する役割もあります。異質なものに対する寛容性や思いやりの気持ちを育てる役割もあります。学力だけならばもしかしたらパソコンを使った遠隔授業でもある程度ならばできる。しかし、それならば学校はもはやいらないのではないか。学校ができるのは何なのか。それを考え直す機会を与えられているのではないかと痛感しているのです。

疲れ目

 リモート授業が始まって生徒にとってはパソコンの画面を見続ける日が続いています。早くも疲れ目の症状を訴える者もいます。

 授業の代替としてネット配信の授業を始めています。実際の始業時間通りに課題を配信し、フィードバックも要求するという方法です。学校で購入したChromebookを活用しているのですが、早速眼精疲労を訴える生徒が出ています。この授業はあくまで代替手段として行っています。疲労感が強い時は中断しても構わないことにしています。

 いつまでこのような形の教育が続くのか分かりません。早く通常の授業が始まることを祈るばかりです。

スキルアップ

 同僚たちのスキルがここ数日で急に上がりました。必要性が結果を生み出します。

学校閉鎖の中、何とか授業を成立させるためにインターネットを使った遠隔授業を始めることになりました。そのために必要なG-Suiteの操作技能が高まったのです。特にClassroomという教育用のサービスについてはかなりできるようになりました。

 ネット授業があくまで急場しのぎであるという考え方は変わりません。ただ、今回、件でやれることが増えたのは事実であり、通常大勢に復帰した後でも活用できることが増えたことはよかったと感じます。

 そう考えないとやっていけないというのが事実ですが。

遅延する予約投稿

 遠隔授業の際に使う手に教材の予約投稿という手があります。ただ、時間帯によっては思い通りにならないこともあるようです。

 実際の授業時間に合わせて教材に取り組ませる手段として、時間割通りに予約投稿する方法を考えています。ところが、朝8時台に設定すると数分遅れて投稿されることが分かりました。おそらく通信回線の混雑が原因と考えられます。

 当面は5分前投稿で切り抜けようと考えています。リモートワークが増えている中で通信の問題は新たな悩みです。

遠隔授業開始

 私の学校では今日からインターネットを使った授業を開始します。すべてが初めての試みなので不安ばかりが募ります。やるしかありません。

 今のところは教員の出勤が許されているので学校から授業の資料や動画などを配信することができます。比較的デジタルに詳しい教員も多いので配信する作業それ自体はできそうです。

 ただ、対面なし反応なしのブロードキャストは教員にとっては苦手な分野です。対話型の授業を推進してきた昨今の状況なので余計に難しく感じるのかもしれません。もちろんビデオを使った双方向通信も可能なのですが、それには生徒の通信環境やプライバシー保護の問題があります。

 慣れていないからできないという言い訳が許されない現状ではすべてが見切り発車です。立ち止まることができないときは走りながら考えるしかありません。波乱の新学期の始まりです。

俳句でも

 俳句は有季定型の文学であり、情ではなく景を描くことによって、結果的に作者の感情を表現する文学です。ある景物にどのような感情を抱くかは民族性や地域性があり、それがこの文学のローカルな一面を作り出しています。

 俳句という言葉自体はグローバル化しており、haikuは世界語となっています。極めて短い形式の中で行なわれる文学表現という行為は民族を越えて広がっていることになります。

 俳句の楽しみ方の基本は句会ですが、この句会システムはデジタルとの親和性があります。無記名で提示された作品の中から気に入った作を選び、最後の披講で作者がわかるというのはとても分かりやすい。これをたとえばG-Suiteを通して生徒諸君との間でデジタル句会を行うことも可能かもしれません。

 俳句には吟行という楽しみもあるのですが、集まれない近づけないいまではせめてデジタルで句会でもなどと考えてしまうのです。

乱世型

 人にはいわゆる乱世に強いタイプがあるようです。ルールが固まる前の混沌とした時勢に台頭する人材です。問題が多いですが魅力的でもある乱世型の人物こそ、いまの社会に求められているのかもしれません。

 価値観やその評価法が固定すると、社会は安定します。無駄な活動の少ない効率的な社会組織が理想とされます。平時はこれが理想なのですが、システム自体が機能不全に陥ると、社会全体が危機的状況に没入してしまうのです。その救世主になる可能性を持つのが乱世型人材です。

 救世主待望論は独裁者などの誕生を助長した歴史もあり、慎重にならなくてはなりませんが、それでもやはりなんとかしたいという気持ちがあります。時代にあった人材を育成するのが教育に携わる者の使命なのかもしれません。

始まるのか

 東京都立高等学校ではウイルス感染予防のための休校を5月の連休まで伸ばすことを検討しているとのこと。実施されると2ヶ月以上の休校となる生徒も出ることになります。

 東京都で新型コロナウイルス感染者が増えているのに対して都知事は週末や夜間の不要不急の外出の自粛を要請しています。周辺の自治体も追随しています。海外のような法的拘束力はありませんが、それでも人の流れは大きく変わりました。

 学校もそのクラスタにならないためという大義名分はたちやすく、おそらく休校措置は容易に実行されるでしょう。防疫の観点からすれば妥当な措置かもしれません。

 しかし、教育を中断することの弊害は計り知れないものがあります。遠隔教育については検討価値が高いものの、ハード、ソフトの両面において無理があります。それよりも学びの習慣が崩れてしまうことの虞の方が深刻です。

 自宅での学習意欲を高める社会的風潮や、再開後のプログラムについて考えていく必要を痛感しています。