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新人教員諸君

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 今年初めて教壇に立つ新人教員に申し上げたいことがある。私は何事も続かない不出来な人間だが何の因果か教員だけは続いている。男子校、女子高、共学校、中学、高校、短大、大学で教えたことがあるという変な教員だ。あなたの身近にいる先輩に比べると大したことはないが、年配者の戯言につきある勇気があれば以下の文章を読んでいただきたい。

 教員というのは基本的にはサービス業だ。ただ、お客様は神様ではない。後で神様になるかもしれない人材を育てる役割だ。この辺を間違っている先輩は多い。生徒や保護者の言いなりになっている。私はそれは違うと思う。基本的にずるい性格なので、それとわからないように小出しに、本人や親にあなたは神様ではないということを言っている。こういうことが堂々と言えるのは教員だけかもしれない。

 それでもサービス業である限り、自分が頂点であると決して思ってはいけない。あくまでも生徒やその保護者をレベルアップさせるための触媒の役割を果たすべきだ。私はこのことを悟るまでにかなり時間がかかった。教員はそこに喜びを見出すべきであり、安易な自己満足をするべきではない。

 今の日本の教育システムはご存じの通りかなりの矛盾をはらんでいる。多くの生徒を平均的に扱うことを前提としながら、個性の重視などと言われる。これは初歩的な矛盾だ。個性を重視するならば一律に生徒を扱うことは間違っているのかもしれない。私は矛盾の多い社会への適応の機会を与えるのが学校であり、その矛盾の権化が教員だと考えている。制服の着方、髪の色、言葉遣いなど個性を生かせば他人に合わせなくてもいいだろう。でも現状の日本社会ではそれではうまくいかない。国際社会においても決めるべき時に外してしまうと取り返しのつかないことになるようだ。

 自分と気のあう仲間だけで暮らせる世界があればいい。しかし、現実には正反対の価値観を持つ者たちとの共生を強いられるのが社会というものだ。国際社会ではその差異のぶれがとても大きくなる。それでもそこに対応する必要がある。自分が常識と思うもの、正義と信じるものが、他者にとっては非常識な悪徳であったりする。それを教えるのが、正確には体験させるのが学校だ。教員はその現場に常に立ち会う存在だ。

 教員は理想ばかり語るという批判は伝統的なものだ。自分はできないくせに理想ばかり言うのだ。それはかなり当たっている。でも諸君も躊躇なく理想を語るべきだ。今の時代、損得勘定なく理想を言える存在がどれだけいるだろう。教員はその意味では自信家であっていい。

 ただし、自分の理想が必ずしも世間の常識とあっているとは限らない。また間違っていることも多いと心得るべきだ。これは生徒にも伝えるべきことだが、教員に限らず誰のいうことでも正解ばかりだとは言えない。むしろ常に間違い続けていると言える。間違った時には素直に認め訂正すべきだ。それができるのも教員の特権である。

 教室を一人で任されるとつい自分がルールになりやすい。しかし、自分の存在は既述したとおり一個人の意見にすぎないことを忘れてはならない。自分とは違う立場の人間はいるし、その方がいいかもしれない。矛盾しているようだが、理想は語るべきだが、その理想は常に吟味すべきだ。そのためにも同僚とは常に意見交換をした方がいい。話が通じそうもない上司がいれば、積極的に接触すべきだ。異業種の人と話す機会があればもっといい。きっとあたらな価値観を教えてくれるはずだから。

 新人教員の皆さんには長く教員を続けてほしい。昨今は全く人気のない職種となってしまったが、これほど面白い仕事はない。職場環境の改善は少しずつ進むはずだ。あきらめずに続けていけば職員ではなく職人としての教員になれるかもしれない。私もそれを目指している。

教室に映写する教材は

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 勤務校ではここ数年、教室のデジタル化が進んでいる。すでに黒板はなく、ホワイトボードはプロジェクターから映写されるスクリーンにもなる。数年前とは雲泥の差だ。ただ、これまでやってきていくつかの注意点があることに気づいた。

 これまで黒板に書いてきたさまざまな情報、これを教員用語では板書というが、これをスライドであらかじめ作成することができる。よいことはあらかじめ仕込むことになるので、授業計画がより綿密に行えることだ。授業の展開を見越してスライドを作るからである。図解や写真なども簡単に行える。例えば夏目漱石の作品にはこのようなものがあって…などと説明するときはこれまでは副教材を開かせたり、プリントを作成して配布したりしていた。それがスライドでできるのだから、時間的にも資源の節約という観点からもいい。

 しかし、悪いこともある。私は縦書きの表示をする手前、パワーポイントなどのソフトを使ってスライドを作る。やったことがある方はわかると思うが、手書きよりはるかに多くの情報が入る。それは素晴らしいのだが、中等教育の現場においては詳細情報は選ぶ必要がある。なんでも載せていると生徒はそのどれが大切なのか分からず、ひたすら写そうとする。写さなくていいというと今度は注意力が散漫になる。電子教材ならでは問題点が発生してしまう。

 手書きのもっている微妙なニュアンスも電子化すると伝わりにくくなる。便利さと、教育効果は必ずしも相関しない。最近の研究によれば電子書籍よりも紙の本の方が、キーボードで入力するよりは手書きの方が学習効果が上がるという。長年人類が培ってきた学びの習慣はそう簡単に変えられるものではない。長谷川嘉哉「脳機能の低下を防ぐには「手書き」が有効だ」(東洋経済オンライン2019/11/19)

 教育現場においては単純にデジタル化をまんべんなく押し広げるのではなく、従来の紙の教科書、手書きノートの要素をうまく活用していくことが求められている。生徒にとってのインプットの局面では、核となる情報は紙面のテキストを使い、書き込みなどをさせて読みを教えるべきだろう。そのほかの補助的情報はデジタルで見せ、メモをとらせるのは最低限にすればいい。

 アウトプットにおいては手書きノートを充実させるべきだろう。板書の「写経」は最低限にして、自分の感想や疑問点を書かせる。また、授業後のまとめや感想を書くことを習慣化させるのがいい。あくまで手書きにこだわらせる。国語科である私にとってはここは譲れないところだ。一方で記号で答えられる小テストなどはGoogle Classroomにあるフォーム機能などを使って答えさせると即時に解答の傾向が分かり、指導の助けになる。添削を要する作文も時にはデジタル入力させると添削や返却が簡単になる。

 要するに、アナログとデジタルの使い分けが必要だということだ。世間的にはデジタル化の遅れが日本社会の停滞の主因だという論調が多いが、中等教育の現場においてはそれをそのまま適応してはいけない。

「正しいけれど間違っている」から

間違っているように見えて

 世間には一見正義に見えながら、実は多大な損害をもたらすことはいくらでもある。そもそも幸福の追求を善として発展してきた近代社会がさまざまな問題を発生している。環境問題はそのもっとも顕在化したものだ。それだけではない。私たちは「正しいけれど間違っている」という事実を見つけ、再考する必要がある。

 ただその逆もあるのではないか。一見間違っているかのように見えて、実は多くの利益をもたらし、人々を幸福に導くというものもあるかもしれない。これまでの考えでは不正解とされてきたものが、実は改善策であったということもあるはずなのだ。こうした現状の打開には、多くの失敗がつきものだが、それを許容する考え方が必要なのだろう。間違いだ、非効率だ、生産性が低いなどと即断せずに、可能性のあるものは追求するという余裕がいる。結果としてやはりだめということも想定しつつも、やってみることに意味があるのではないか。

 教員としてこの件に寄与できるとしたら、生徒の失敗を失敗と決めつけないことだろう。教えるのは現今の多数派の意見に過ぎない。最適解は実は別のところにあり、まだ発見されていないだけなのかもしれないという考え方を持ち続けることが必要であると感じている。

 それをどのように現場で実現するのか。それを考えていきたい。限られた時間内で情報伝達をし、それが確実に行われたのかをテストによって確認するというシステムの中ではなかなか難しい。それを止めることは間違いだろう。知識伝達は最低限の責務だ。その上をいく方法を模索していく必要を感じている。いつの発達段階から可能なのかは考察する必要があるが、現状の知識の伝達と、未来の可能性という局面の違いを生徒にも明確に意識させ、個別の評価方法を考える必要がある。

復習コラム

ノートは思考の跡を残すもの

 授業ノートを書かせる方法をいろいろと考えてきたが、最近思うのは受け取ったことを言語化する過程が重要だということだ。数年前からは「復習コラム」を書くことを指示してきたが、あまり効果に自信がなかったため控えめに行ってきた。最近様々な知見に接してどうも効果はありそうだと考えるに至り、新年度からはもっと積極的に打ち出していこうと考えた。

 授業のノートをとらせると板書したことをただ写すだけで、そこにはつながりがない。短文の羅列であり、単語しかないこともある。それでは理解は深まらない。ノートの意味はほとんどない。

 大切なのはノートを思考の後を残すものとして活用させることだろう。どのように問題点を見つけ、どのように考え、結論を出すに至ったのかを可視化することがその役割なのだ。国語の授業はそれを行うことを中心にするべきだという考えに至った。特に中等教育ではやるべきだ。

 そのためには授業の最後に振り返りの時間を設け、今日の授業の要点を短文でまとめさせるのがいい。いろいろな話題があったが、その中で一番大切なのはなんであったのかをまとめるのだ。国語の場合はそれを2、3行の文でまとめさせたい。さらに余裕があれば、感想を付け足すことを求める。それは、疑問点や批判的な内容であればなおさら良い。自分で考えたことの足跡を残すのだ。書いた部分の周囲を囲み、「復習コラム」と私は名づけることにした。

 これを国語だけではなくすべての教科でできれば、確実に理解度は上がるに違いない。多くのビジネス書のノート術と称するものを読むと、このまとめにあたる部分、つまり講師の話を受け身でとらえた部分以外の、より自発的なものを書く行為が成功の要因であるという。これを中高生時代からやらせれば、将来の有望人材を育成できるのではないだろうか。

教員の礼装

 教員は何度か礼装をする日がある。式と呼ばれる日だ。なんのために? 自分のためでもあるが大切な一日を演出するために形を作ることも大切な仕事なのだ。

 私たちの仕事の大半はこのように特別な時間を演出することにあるとも言える。

楽しく学ぶ

勉強は楽しくなくては

 脳科学者の発言は教育現場の従事者としていつも注目している。学問レベルと現実のそれとは噛み合わないところもあるが、参考にすべきことは多い。

 学習効果にドーパミンなどの快樂物質が関与していることは色々な知見がある。経験上も好きなことや興味のあることはかなりよく知っており、なかなか忘れることがない。好きなアーティストの何年も前の歌の歌詞を覚えているのはこの効果があるという。逆に意味を感じない情報の記憶はエビングハウス博士の統計通りにあっさり消えていく。

 ならば、現場の効率を上げるためにはこの要素が不可欠だ。学習は楽しくなくてはならない。ここまでは何度も考えてきた。

 ここで私は教える側の話に限定して話を進める必要を感じる。楽しく学ぶというのは学習者側の問題であり、様々な可能性を想定できる。学問は苦行ではないと理解することが突破口なのだろう。これが教える立場の問題となると話が変わる。とりわけ学校のような一斉教育をする場面においてはなおさらだ。

 教室にいる生徒の興味や関心は多様であり、何に対して反応するのかは分からない。自分が生徒だった頃、世界史の先生の話は面白かった。講談を聞いているような感覚となり、興味が湧いた。ただ、同級生に聞くと無駄話が多く、教科書に書いてあることの説明がほとんどないので無意味に感じたというのだ。彼はその後理系の大学に進学している。

 関心のある人だけに作用する話をすればいいというのが、長年教員をやってきた私の基層にある考え方だった。特に高等教育機関で教えていた頃はそう考えてきた。しかし、中等教育に身を移し、さらに昨今の現状を鑑みるにそれだけでは立ち行かないと痛感している。目指すべきは国民の教養の底上げだ。

 何かを教える際に何が引っかかりになるのかを想定して置くことが今できる最低限のことだろう。先に述べた歌に関心があるのか、デザインに関心があるのか、人間関係か、金銭的価値か、物質的な何かか。人によってそれが違う。そのフックのようなものをたくさん用意しておくことがドーパミン発生の要因となるのなら、それを意識して教えることで一定の効果を期待できそうだ。

 できればその試みの挑戦者の一人として私も加わりたい。試みに進めている「国語の再学習」のサイトをこのブログにリンクすることで第一歩を踏み出したいと考えている。

人材育成

何のための教育

 教育を社会に貢献する人物の育成と考えるならば割り切らなくてはならないことが出てくる。それだけではない何かを考えていかなくては危うい。

 社会の役に立つという言葉の裏には、現在の社会システムの維持のためにはという意味が張り付いている。現行の秩序を維持したいのは現在利権を得ている人々であり、そこには意識の有無に関わらず私利私欲が絡む。

 社会的弱者にとっては現状は打破すべきものであり、継続してはならない状態だ。そう思ってもどうしようもできない。だから弱者として次の世代にもその立場を引き継がざるを得ない。格差が生まれていく。

 教育は社会のためになることをするのとともに個人の幸福追求の手段の獲得に寄与しなくてはならないだろう。その社会と個人との目的のバランスを考えなくてはなるまい。

 この国の最後して最大の力でもある人材の豊富さが危うくなっていると言われる。昔の人より今の人のほうが劣っているとは考えられない。人材育成の方法はもっと考えていかなくてはならない。

教員の知り合い

知り合いに先生はいますか

 我が国では教員の知り合いを持つ人の割合が国際比較で低めであるというニュースを読んだ。自身が教員なのでこの記事の信憑性には疑問を持つが案外そうなのかも知れない。

 教員の数自体は少なくない。ただ、教員が多忙のあまり異業種の人との関わりを持たないことが、先のデータの理由の一つだと記事はまとめている。

 そう言われると同窓会にもしばらく行けていないし、保護者を除けば教育関係者以外の方と話す機会は限られている。労働時間が長めなのもあるが、そもそも異業種交流の場が少ない。

 もちろんこれは教員に限らないはずだ。コロナ禍に見舞われてからはさらにその傾向は強くなってしまった。これは教員にとってはかなり問題である。

 学校は社会のあり方を教える機関だ。その現場にいる人が社会を知らないのは自己矛盾そのものではないか。長期的に見て大きな損失といえる。

 ならば教員に研修に行かせようという発想は役人が考えて来たことだ。そしてそれは進まない。参加者にも中長期的な効果が出ない。単発のイベントでは多忙に拍車をかける残業に過ぎないからだ。

 教員の業務的な軽減を図るとか、異業種体験を業務の中に取り込むといったことをやってもいいと考える。私のような世間知らずではなく、いま何が必要とされているのか分かっている人が教えれば、授業はおもしろくなるはずだから。

理想的な第2の職

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 そろそろ第2の人生を考えなくてはならない。私の場合すでに大きな転職を経験しているので実際には第3の職かもしれないが。

 私はもし経済的な支えが担保されているならば、地方に住み、才能があるが経済的な困難を抱えている子どもに希望を与える職に就きたいと思っている。志を同じくする人がいればその配下になることも厭わない。日本は教育立国であり、それがなくなればすぐに滅びていく。現在の「先進国」気取りはすべて先輩たちの努力の賜であり、その恩恵で我々はかりそめの優越感に浸っている。

 お客様気取りでサービスばかりを要求するようになってしまったいまの日本人には教育が最後の砦だ。もちろんエリート教育も大切だ。しかし、恵まれた環境になくても学問さえ積めば現状を打開できる。利他的に生きることでみなが幸せになれる。そのリーダーを養成するということは何よりも大切ではないか。

 現在の自分は日々の生活に追われ、夢や希望を大切にせよと他者には語りながらも、自身は挫折感に日々苛まれている。まずはこれを変えたい。私には資金もないし、若くもない。これから何かを始めるにはあまりにも条件が悪い。だが、それでもできることはあるはずだ。

 そういうことを実践している方がいれば、お話をお聞きしたいと思っている。そろそろ次のことを真剣に考えなくてはならない。まだできる挑戦はある。

熟考する力

深く考える余裕がないのか

おそらく多くの人が考えているのではないか。今の教育は情報処理能力にあまりに傾きすぎているのではないかと。私もその一人だ。

例えば先日の大学共通テストはさまざまな改革の末に生まれたといいながら、センター試験以来の問題数の多さを保ち、それ以上に増えた科目もある。試されているのは時間内にいかに多くの問題を処理するかということであり、反射神経や要領のよさが測定されている。

一方で、果たしてこれが正解でいいのだろうかと思う設問もある。他の選択肢が不正解であるから問題としては成立しているのだが、その正解が絶対正しいのかと考えると疑問があるものもあった。これも過去の問題と同じだ。受験生は消去式という情報処理の方法を活用すればよいのだ。なにか腑に落ちない。

ほかの局面でもよく考えずにとりあえずの正解を見出すことに終始することが多い。忙しい現代を生き抜くには必要なスキルであることは確かだ。しかし、この方面はむしろコンピューターが得意とする分野である。人間はもっと深く考えることや、いままでにない一見間違っていると思われるものを再検討する思考力の方を鍛えるべきではないだろうか。

熟考する力をどのように育成するのかは決まったノウハウはない。個人の資質に負うところが多いとされ、一斉教育の場では省略されていると考えられる。だが、もしかしたら今後もっとも大切にされる能力になるかもしれない熟考力を中等教育で教えないのは根本的な間違いではないか。せめて時間をかけても、結果が出なくてもよく考えることには意味があるということだけでも伝える機会はあったほうがいい。