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「指示」と「誘導」

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 人に何かを教えるときにかつては学ぶ材料を提示することが大切といわれていた。提示の順番や方法などに工夫をすることが教える者の技能と考えられていた。この考え方は最近変わりつつある。知識の内容を伝えるよりも、学び方を教えるべきだという流れである。これにはいくつかの問題点がある。

 学び方を教えるという場合、次に何を読むか、どの問題を解くかという指示をすることは大切だ。何をやっていいのか分からないから知らないのであり、それを教えるのが学び方を教えるということだからだ。しかし、これにも程度がある。学びのスケジュールを完全に教師が行い、生徒がそれに従うのであれば結局従来の知識移動型の教育と同じになってしまう。まずは何をやるのかの大体の方向性を示しながらも、実際にそれを選択するのは学習者でなくてはならない。もっと巧妙な言い方をすれば学習者が選択したかのように見せかけなくてはならない。

 学びの達成感は自分の努力が報われ、結果になって表れたときに起きやすい。他人が用意した道筋をどれだけ進んだのかということになると、結局他人との比較になり、優越感を感じる一方でたいていの場合は劣等感にさいなまれる。それは他人が作った物差しの上にいるからだろう。

 本当は用意された道であっても、学習者自身が開拓したかの印象を持てれば結果は全く異なるだろう。学習者は自分のやったことに対して自信を持ち、次の挑戦に進むことができるはずだ。

 要するに教員は陰から誘導する役に徹する必要があるということになる。中等教育まではある程度、たどり着く目的地は分かっているものが多い。学習者がどのような経路をたどりどのように進むのかを予測して誘導することが教員の役目ということになるのだろう。こういう技術はこれまでの知識教育の方法とは異なるものである。これからの教員はそういった技能を学習していく必要がある。

放課後公民館

 公民館は非営利的な社会的文化的な活動の拠点としていまでも一定の役割を果たしている。文化教室や高齢者の集会所など多種多様な機能を持っているが、必ずしも十分に活用されていないのではないか。公立小中学校の校舎などを利用してもっと多くの市民が参加できる仕組みを作るべきだと考える。

 文化講座のようなものは、有名な講師を雇って行う企業の有料講座もいいが、ほぼ実費程度でできる公民館のサークルも大切だ。できれば地域の中から講師を出し、互いに教えあうような仕組みがあると理想である。それには公立の小中学校や、場所を無償もしくは安価で提供する企業などの協力を仰ぎたい。安全管理上の問題などの法整備を行えば、付加的な投資は少なくても実現できる。授業料は安く抑えたい。ただ、寄付は受け付けることとして満足度に合わせて、追加で払うという形にする。講師のやる気も変わるはずだ。もちろん、もっとハイレベルな内容を求める人は専門的な先生を擁したそういう講座に行けばよい。授業料を払う価値がきっとあるはずだ。

 学校の校舎を会場にすることの利点は子供から大人まで参加できる場所として提供できることだ。私は児童生徒のクラブ活動も地域社会との共同で行うべきだと考えているが、子供のころから世代の違う人との交流ができれば本人たちに益するはずだ。もちろん、種類や内容に応じなんでも混合というわけではない。民謡や踊りの教室など地域文化に関わるものは放課後公民館には向いている。

 地域住民が支えあうという仕組みを作れば様々な社会問題の解決、もしくは困難の緩和に結びつく。金儲けより社会に貢献したいという人はたくさんいるはずだ。彼らの活躍を応援する仕組みを作れないか。

教える学習法

 よく言われていることを私なりに述べる。効率的な学習法の一つに教えるということがあるということだ。

 何かを学習したとき最終的に習得したと言えるためには、知識を言語化し、さらには再現できることであろう。何を学んだのかを説明できて、それを人に伝えることができればほぼ習得したと言えるはずだ。これができない段階は分かったつもりになっているか、知識のエッセンスが分かっていない。

 それを達成するのが人に教えることだ。教えるためには知識を整理し、母語に組み立て、分かりやすく話す過程がある。意味が分からなければ相手の反応からそれと分かる。

 家庭での学習において保護者があれこれ口出しすると年齢によっては反発される。そういうときは何を学んだのかを教えてもらう形で確認すれば本人のためになる。この際、聞く方は生徒役に徹することだ。知っていても分からない立場で接すればいい。

好きなこと

 何かをするときに自分が好きだと思うことと嫌いだと思うことでは同じことをしても成果に違いが出る。嫌いだと思わないことが力を伸ばすコツということになる。

 それなのに日本の教育には勉強を嫌いにする要素が多い。成績で単純に評価したり、他人と比べることばかりさせる。大切なのはその時の成績ではない。学び続ける意欲を掻き立てることなのだろう。

 学びに向かわせるためには評価の方法を根本的に変えることだ。他人と比べるのではなく過去の自分と今の自分とを考えさせどれほど変化できているのかを褒めたほうがいい。そして学べばそれだけの実りがあることを実感させるのだ。

 今の現場では難しいが、それでもやってみたいことはある。

進路の複線化

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 日本の学校制度は様々な選択肢を用意してあるが、実際には大学を卒業したホワイトカラーが他を圧倒するという社会の在り方を維持するように設計されている。いわゆる「学力」で振り分けられた「エリート」が多くの利を得るというやり方だ。

 もちろんそういう方面のエリートは必要であろう。情報処理に長け、高度な判断力を持つ人材は必要だ。特にマクロ視点やメタ認知ができる人材はこれからますます必要になる。大学はもっと真剣に勉強をするところになるべきだし、そこを卒業できたものにはそれなりの報酬を用意するべきだろう。でも、それだけでいいのだろうか。

 人間の尺度は今の様な学力試験だけではないはずだ。人の価値はもっと多様に評価されるべきだということは多くの人が感じていることだろう。例えば職人といわれている人々はそれなりの評価を得るべき存在である。さまざまな技術を支えている人々にも評価すべき人がいる。そういう人が一般大学卒である必要はないし、大学を卒業することが社会的ステータスの基準になること自体が間違いなのではないか。

 もし、今までとは異なるタイプのエリートを尊重する方法を考えるならば、場合によっては職業高校の評価をもっと上げる必要があるのかもしれない。あるいは学校とは別組織の教育機関に社会的な評価を与えることが必要だろう。技術者や芸術家といった人材は大衆教育にはなじまないかもしれない。しかし、彼らの地位を上げることでそれを志す人は増え、結果的に技能の底上げができる。結果として社会全体の利益になる。

 このようなことは昔から言われている。私の独創ではない。しかし、これだけ情報化社会になり、グローバル化がすすんでも一向に人間の評価の多様化が起こらないのはなぜだろう。もしかしたら、こういうことからイノベーションは起こるのではないか。

問いを作る問題

 答えを示して、その答えになる問題を作れという変な問題を出してみた。柔軟な頭の働かせ方を鍛えようという試みだ。

 問題は単純だ。ある漢字を示し、その同じ文字が当てはまる熟語が含まれる例文を並べさせる。ただし、同じ意味で使われていない熟語にしなくてはならない。例えば「生」が答えになるように二つの例文を書けという具合である。

私は学( )だ。

このことは一( )忘れない。

 こんな感じでいい。問題を作るということはただ答えを出すのではなく、設問の狙いとか仕組みを知る必要がある。それが面白い。

 まだまだいろいろな実験をしてみたい。考えさせるための方法は多様である。

やる気を引き出す

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 すでに何度も記しているように私の仕事はやる気を引き出すことに尽きる。実際に学習するのは生徒諸君であり、教師が教えたつもりになったとしても、表面的な短期記憶を賑わすだけで賞味期限は短い。

 食べ物の譬えを続けるのなら、うまい料理を提供するのではなく、その料理の作り方を教えなくてはならない。自分で再現できなれば学習の効果は十分とは言えないのだ。料理をすることの楽しさを教え、上手にできたときの達成感を自覚させる。これがもっとも大事な任務なのであろう。

 言うは易し。実際に現場に立ってみると料理を提供することは簡単だが、厨房の外にいる生徒を呼び寄せ、いかに調理が楽しいかを伝えるのは難しい。面倒なことをせずに自分が結果を提供し、それを覚えされる方が楽だ。しかし、くりかえすが大切なのは提供された料理ではない。その料理を作る能力だ。

 私はやる気を引き出す方法をいろいろ考えている。テクニックはいろいろあるが、その根本は学ぶことの面白さと真剣にまた謙虚になることの快感を教えることなのだと考えている。自ら学び、その思いが純粋であるほど効率的に学習ができる。それを教えることが私の仕事と心得ている。

まねぶ

何を学ぶ?

 学ぶという言葉の語源説明に真似ぶから転じたという説がある。言語学的にどうなのかは検証する価値があるが、民間語源説としては有名であり、かなりの影響力を持っている。この考え方は再評価されるべきではないか。

 真似が単なるコピーというのなら、やはりもう時代には合わない。複製の技術は恐ろしく進歩した。知の分野においてもただ同じことを繰り返すだけならばコンピューターの方が完璧にこなす。どうも真似するのは内容ではないらしい。

 最近、成功体験者の学習法を紹介する書籍がよく読まれているようだ。あの大学に入学した人はこのようにふるまったとか、何を読んだとか、どうノートを作っているとか。そういうやり方への関心が高まっている。

 はっきり言ってこうすれば東大に入れるといったノウハウとしてその手の本を読むことには疑問を感じる。例えば、こんなにきれいにノートをとっていますよ、とか、レイアウトはこうするのが一流大学の方式ですといった類である。汚いノートでも優秀な人はいくらでもいるし、手帳の作り方も人それぞれでいい。

 大切なのは考える際に何を重視し、どのような手順で考えているかなのだろう。ノートに関して言えば書き方はどうであれ、自分なりのまとめや、何に使えるかといったメモを付加している人は概して優秀だ。自分の考えを言語化しているからだろう。

 こういう学習に対する態度は参考にすべきだろう。何をしたかではなく、何を意識しどう振る舞うかを真似るべきなのだ。ここで古典的な芸能や武芸に伝わる師弟の関係を再考したい。なんのためにそんなことをするのか理解しないまま、ひたすら師匠のまねをし、その意味がようやく分かったときには師匠の域に達していたり、超越していたりする。この説明不可能の行動の裏には学ぶことの奥義が隠されているのかもしれない。

 この考えを現代に置き換えるならば、学習とは決して情報の伝達でも、処理の手順でもなく、学びに対する意識や態度に関わるということになる。教育の方法もこれを踏まえたものにしなければなるまい。

筆記体

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 アメリカの若者は筆記体で書かれた文章を読むことができないという記事を読んだ。手書きの文字を書く機会が減った現代において、筆記体が衰退するのは当然の成り行きだ。私の知り合いの外国人も筆記体で文字書くのを見たことがない。ブロック体かその変形である。

 この現象に対してアメリカの一部の知識人は、過去の文献を直接読めなくなるのではないかと危惧の念を示している。歴史的な文化遺産を直接読み取ることができないのは文化的な損失が大きいというのである。一部の地域では学校教育のなかで筆記体の読み書きを復活することを検討しているという。

 これはよそ事ではない。日本語においても江戸時代以前の写本や版本を直接読むことはかなり難しい。私のような古典を学習したものでも江戸の版本までは何とか読めるが、写本となると怪しく、それ以前の時代のものになると字書なしでは読めない。読めるのは研究者に限られている。

 そんなに昔の本でなくとも、昭和の文章でも行書で書かれた文字が読めないという若者は増えている。草書はたしかに書道の心得がなければ読めないのは分かる。しかし、行書は読めるはずだと思うのは思い込みである。若い世代は活字(正確にはスクリーンに表示できる文字)を通して日本語を学ぶ。他人(同世代ではなく上の世代)の書いた手書きの文字を読む機会はほとんどない。だから、「令和」の「令」の字の最後の画が斜めになっているのと真直ぐなのは同じ文字なのかという疑問が生まれる。「葛」の字形もそうだ。英語より文字の種類が多い日本語において、過去の人が書いた文字が読めないという問題はより深刻であると考える。

 これに対しては、手書き文字の文化は切り捨てていいという考え方もできる。私はそうは思わないが、昔の人が書いた手紙や原稿を読むのは専門家だけだからそのほかの人は行書のようなくずした字は読めなくていいし、書かなくていいという考えだ。字が汚くて読めないという問題は、今後は誰もがコンピュータやスマートフォンで入力していくようになる。その中には音声入力もあるからもはや文字を書くことにこだわる必要はないというものである。

 一見未来志向で現実的な考え方と思われるのだが、いろいろな研究から手書きで文章を書く方がものを深く志向する際には効率がいいとされている。これからも「紙に」であるかどうかは怪しいが直に文字を書くことは当面続くはずだ。

 話は戻るが過去の人が書いた文字を読めなくなるということはやはり大きな損失である。その意味において、教育の場でもまた家庭の中でも手書きの文字を読み書きする機会をもっと増やしていった方がいいのではないか。デジタル化に反するようだが、教育効果や文化の継承という面を様々考えるとその方がいい。

人間としての評価

魅力的な人間とは

 よく言われることだがいわゆる知能指数だけでは人間は計れない。学校の試験のような出題者が予め想定する解答がある問題ならば知能がものをいうが、答えのない問題に関してはそれだけでは対応できない。

 最近、学校に行く意味がないという人がいる。一斉教育をしている日本の学校は無意味だという。学力が高い生徒にとっては退屈な授業であり、低い生徒にも逆の意味で無意味だという。

 確かに従来の講義形式の授業であればわざわざ学校で自分にあっていない授業を受けるより、自分にあった問題集を解く方がよほど有益だ。しかし、この考え方は測定可能な学力だけしか考えていない。

 学びには、自己を制御したり、周囲と調和したりする行動も含まれる。自他を学びに向かわせ、利益を共有する力がいるのだ。これを身につけるのは集団の中に身を置く必要がある。

 学校は知識だけではなく、感情や協同の涵養の場にしなくてはならない。知識の伝達ではなく、伝達される知識に意味があり、それを活用するためには一人ではできないことをしなくてはならない、ということに気づかせること。それが学校の存在意義だろう。

 そのためにはまずテストの点数だけで生徒や学生を評価してはならない。もう少し広範の人間性を視野に入れるべきだ。