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万博とカラーテレビ

 大阪で関西万博が始まった。大阪での万博といえば1970年の大阪万博が思い出される。私自身はまだ子供であり、親にも経済的な余裕がなかったのだろうか、連れて行ってはもらえなかった。父は仕事で訪れたらしくソ連館の記念メダルを土産として買って帰った(はずだ)。どうもこのあたりのいきさつはよく分からない。

 1970年の時点では多くの家庭がモノクロのテレビを所有していた。カラーは高価であったし、放送そのものも完全にカラー化していなかったので切り替える家庭は少なかったのだろう。ただ、万博の中継を見るためにカラーテレビを買おうという動きはあった。我が家にもそんな話題が出ていたはずだが、おそらくすぐにはできなかったのだろう。ウルトラマンもウルトラセブンもモノクロテレビで見ていたことになる。再放送をカラーテレビで見たため記憶が更新されてしまってその当時の印象は分からない。

 1972年の札幌オリンピックの頃にカラーテレビが我が家にやってきたのではないかと考えらえる。でも、覚えているのはダイヤルを回して色調整をしてみるというもので、今から考えるとかなりぼやけた感じのものだった。しかし、それでもリアルさが増して驚いたことをわずかに覚えている。高度経済成長期に入って、モノの価格があがり、人々の生活が派手になり、公害などの社会問題が取りざたされた。それらをカラーテレビで見ていたことになるが、子どもの自分にはよく分からないことばかりだった。

 今回の万博でもさまざまな新技術が紹介されているらしい。また、これを機に民間に普及するものもあるのかもしれない。かつてのような勢いのない日本にSociety5.0は来るのか。行事の成否はもちろん、今後の生活について考えさせられている。

学校で使うデジタルデバイスはレンタルでいいのではないか

 一人一台のパソコンなりタブレットを小学校や中高生に使わせる教育方法の推進は、昨今の主流であるが、様々な障害を抱えていることも確かだ。その一つが購入させたデバイスの故障が多く、授業で使えなかったり、保護者の負担が増えたりすることがある。故障については機器そのものの問題もあるが、子どもの機器の扱い方の問題もある。子どもの中には機器を乱暴に扱ったり、意図しなくても落としたり水没させたりして故障させてしまう事例が多いと思われる。もともと使いたくて買ったのではないし、子どもが使うにはあまりにもやわなのである。

 そこで私はいくつかの提案をしたい。まずは機器のメーカーについてである。デジタルデバイスはすっかり海外勢に席巻されて、日本の個人向けコンピュータは風前の灯といってもよい。安価でそこそこの性能がある中国などのパソコンは個人で使うのには十分な性能がある。かつては高級品であったがいまは家電としてコモディティとなっている。ただ、教育用に特化した機器があるのかといえば十分ではないと考えている。最高のスペックや突出した処理能力はいらない。求められるのは第一に堅牢性であり、故障の少なさだ。バッテリーも6時間程度持てば良い。後述するように私案ではモバイルとしての軽さや、特殊なインタフェースもいらない。壊れにくく、授業のある時間は充電が不要ということが満たされていれば十分だ。

 次に流通業者に提言したい。学校に絞ったビジネスプランを提示し、安定的かつ恒常的な契約を取り付けるべきだ。学校へは機器をレンタルするかたちとし、故障機は交換できるようにする。学校には保証費を提示し、故障時に一部負担をしてもらえるようにしておく。これを年度更新していくことで、安定した収入を確保できる。少子化が進んでいるとはいえ、学校はなくなることはない。契約を取り付けられれば心強い収入源になるはずだ。

 学校関係者へは次のように言いたい。デジタルデバイスは学校でレンタルし、家に持って帰らせないようにすべきだ。デジタル機器による授業やその他の学習は確かにいろいろな利便性があるが、子どもの学習成果を阻害することも多い。家庭学習はデジタル機器ではなく、紙と鉛筆でおこなわせることをおすすめしたい。

 学校には生徒個々人のデジタル機器を保管でき、充電もできるラックのようなものを用意することを提言したい。家庭学習の宿題はデジタル機器を使わなくてもいいものにすべきだ。生徒が登校したら決められたデジタル棚から取り出して授業で使用し、放課後はまた同じ棚にもどす。充電にかかるコストなどはあらかじめ保護者に示し、負担をお願いする。

 保護者にお願いしたいのはデジタル機器はあくまで学習の道具であるという理解をしていただきたいということに尽きる。レンタル料ばかりを請求され、家庭では使えないとなると負担を渋る家庭もあるはずだ。

 授業でのみ使うレンタル制のデジタル機器ならば故障のリスクも家庭への負担も減らせる。日本の学校の実態に合わせ、教育的効果を配慮した使用制度を確立すれば、当初の理想に近づける。

プロンプトも書けなくなったら

 ChatGPTなどの生成型AIではプロンプトをどのように書くかが重要な問題である。いわゆるプログラミング言語とは異なる通常の言語で指示を出すことが求められている。コンピューター言語を覚えるよりはるかにハードルが低くなったはずだが、そこには大きな落とし穴がある。

 生成型AIは今のところ言葉の意味を理解してはいない。もっとも可能性の高い言語のつながりを高速で検索し組み合わせているだけであり、書かれていないことや暗黙の了解といったたぐいのものは察することができない。プロンプトを書く場合は、コンピューターが何を検索して何を合成すべきなのかがわかるように指示しなくてはならない。これはこれで結構な国語力が必要だ。ちょっと大げさな邪推をしてみる。このまま文書などの作成をAIに任せていたら、将来の人間はまともな文章を自分で作成することができなくなるのではないだろうか。そしてAIにさえも指示が出せなくなるのではないか。

 別のものに例えてみる。車が普及する前、特権階級を除いて多くの人は自分の足で歩いて旅をした。時間はかかったが、自分の身体だけで目的地まで移動しえたことは現代人との大きな違いだ。そのため昔の人は持久力に優れていたともいえる。自動車に乗るようになった私たちは持久力を失った。原因はそれだけではないが、便利な道具ができると失う能力もある。これが足腰の筋肉ではなく、頭脳の話になると話は複雑になる。

 脳が様々な指令を出している人間にとって、言語の能力はその指令を効率よく伝えられるかどうかにかかわる。生成型AIはそのことを実に簡潔に顕在化させたといえるのだ。ならばこれからの教育の目的はAIにもわかる日本語を使えるスキルを教えるということになるかもしない。もしこれができなくなったなら、人間はAIという道具の持ち方が分からなくなるということだ。もし、そのような事態になったなら、それがシンギュラリティにあたるのかもしれない。コンピュータに追い越されるというより、人間の方が衰えていく。そういうシナリオが浮かんでしまうのだ。

 プロンプトの書き方をChatGPTに尋ねる人もいる。杞憂とは言っていられない状況がすでにある。

 

太陽の力

 ソーラー電波時計の一つが止まってしまっていた。もう一つのソーラー時計に浮気をしている間に電力を消費してしまったらしい。私の本当の書斎(ということにしている部屋)は北向きで極めて日当たりがよくない。だから陽光にあたることなく電池が消耗してしまったのだ。

 もうだめかとも思ったがしばらく日に当てること数日、無事に復帰した。しかも電波を受信して秒単位でのほぼ正確な時計に復活したのである。太陽の力は偉大だ。また、安物時計などと侮ってはならなかった。再び私の仕事用の時計として使うことにしよう。冬場になるとコートを着る関係で腕時計がその下に隠れてしまい。腕時計が自然露光する機会が減る。だから、意識的に太陽にさらすようにしなければならないのだ。

 この種の時計は私が何よりも愛用するものである。自動巻きももちろん魅力的だが、陽光だけで動き続ける仕組みは魅力的ではないか。

自動運転車待望

 高齢者が起こす自動車事故が増えている。若い世代には分からないかもしれないが運動神経の衰えは自覚しにくい。だから、いつまでも大丈夫だと思って運転すると思わぬ事故を引き起こす。

 こういう事故の後、必ずどうして高齢者なのに運転するのか分からないという批判が出る。しかし、多くの場合わがままとか自己本位などではなく、運転しなくてはならない事情があるのだ。

 高齢者が運転しなくてもいい社会を作るのがこの国の一番の目標だ。例えばコミュニティバスや相乗りできるタクシーなどは実現しやすい。法整備を急ぐべきだ。テクノロジーの発達も期待したい。完全自動運転の自動車はいつになったらできるのだろう。

 自動車事故が過去の記憶の中だけになるような社会を実現するのはそれほど遠い未来ではないだろう。超高齢社会でかつ複雑な国土をもつこの国が自動運転システムを開発することで世界に希望を与えよう。目的を持てば実現は可能になる。

軍艦

 子どものころ、軍艦のプラモデルをたくさん作った。単純に機械としての魅力が大きかった。それがかつて多くの人を殺害し、多くの人がそこで死んだ場所であることを知っても、実感できるまでには時間がかかった。

 子どものころと同じようにいままた分からなくなりつつある。機械はただ目的に沿って動くだけであり、それをどのように解釈するのかは人間の側にある。人間の心のあり方で機械はどのようにも見える。いかなる役割も果たす。

 軍艦はその代表であり、そんなに大きなものではなくても、殺人兵器でなくても同じだ。何ために道具は作られ、作られた道具が結果的に何をもたらすのかは、何歳なっても予測できない。何らかの悩みを解決するために作られたものが、新たな悩みを生み出す。

 作られたものはある意味で人の願望の理想形であり、その外見は魅力的だ。それゆえにまた人を惑わす。道具を作ったつもりがいつのまにかに使われているということになりそうだ。

IT産業の苦境

 アメリカのハイテク産業が不景気の波に飲まれている。アルファベットやマイクロソフトなどが大規模な人員削減を行うというニュースが流れている。私は強い違和感を覚えている。

 ITを牽引している技術者の皆さんは省力化のために新しいシステムを立ち上げ、実現してきた。少ない人数でも経営できるための手段を切り拓いているのだ。しかし、他ならぬその成果のために、自分の職が奪われている。100人で動かせる会社を10人で運営可能にすれば、90人は不要になるのだ。

話を単純化しすぎているが、一面の真実は捉えているはずだ。人を幸せにするための科学技術が人を疎外する。何か理不尽を感じるのだ。

機械に話そう

 AIの発達により、人間の言語に近いコミュニケーションができるシステムが完成しつつある。日常会話ならば機械に話しかけると自然に感じる程度の返事をする。映像やロボットなどと連動させれば、あたかも機械と会話しているかのような気分になれるらしい。

 規則性のあるものや、パターンが決まっている文章作成能力はあるようで、ビジネス定型文章や分析を中心とする文章は得意で、論文も書けるとの報告まである。

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 無料で試せるオープンチャットを試してみた。これはテキストでのチャットの形で行われている。英語版だったので、拙い英語で問いかけてみた。すると長めの答えをしてくる。例えば、AIは人類にとって有益なのかと聞けば、多くの利点があるが、場合によっては人間に危害を与える危険性も含んでいると答える。また日本の文化について知っているかと聞けば、歌舞伎や寿司、漫画とアニメなどがあるなどと答える。検索して答えるのと違うのは、AIが選んできた答えを、話しかけられるような形で得られるということだろう。

 このシステムは従来の検索システムを凌駕するともいわれている。資料がただ提示されるのではなく、AIのアレンジが加わっているからだ。利用する側からすれば便利である。一層、考えなくてもよくなるからだ。

 ただ問題点も大きい。現時点ではAIは意味の世界まで踏み込んではいない。聞かれた質問に対してもっとも可能性の高い回答を多数の検索データの中から抽出しているのに過ぎない。だから、表面的には整っていても根本的な間違いを犯していたり、正解であっても人道的道義的には許されないといった不文律のようなものは反映できないのだ。

 機械に話しかけるというと実に寂しい人間のようだが、これからはそれが当たり前になる。そのうちの脳波を読んで先回りして答えてくれるような技術が生まれるのかもしれない。ただし、意味とか価値観といったものをどのように機械が獲得していくのか。今後に注目したい。

アナログスマートウォッチ

 私が使っているスマートウオッチはAppleでもGoogleでもない。CITIZEN時計なのだ。しかも充電の必要がないソーラー式だ。Eco-Drive Riiverという変な名前だ。

 この時計はいわゆるスマートウォッチの部類に入るが、アップルウォッチのように多機能ではない。できるのはスマートフォンと連携して秒単位の時計合わせや、位置情報の記録、万歩計、さらには自分で作ったプログラムを3種登録できる。

 2019年ごろに発売され、当時は話題になったが今はほとんど顧みられない。それはスマートという割にはできることが限られているからだ。今のスマートウォッチがほぼカバーしているバイタル情報の記録や、決済機能などはない。メール着信をリアルタイムで知らせる機能もない。その意味ではあまりスマートではない。

 ただ、すべての情報を3つの針と補助針の4つで済ませようとするアナログ感や短針と言いながら、長針と同じ長さであるという不思議さや、機能ボタンを押すと一斉に4つの針が動き出す機械としての動きなどが面白い。おそらく多くの人には使いにくさしか感じられないだろう。私のようなアナログ人間にはこの一生懸命針が動く姿が面白く愛おしく感じるのだ。

 何よりもいいのはエコドライブで充電が要らないことだろう。これはかなり助かる。一方でスマートフォンと連携するとBluetoothで常時接続することになり、スマホの方で結構電池消耗がある。といっても私のスマホの場合は一日一回の充電で乗り切れる。もともと毎日、充電しているので特に困ってはいない。

 このスマートウォッチの設計がいかにも日本的なのが気に入っている。一生懸命デジタルの技術を追求しましたが、結局表現はアナログですという中途半端さも魅力だ。まだ売っているのだろうか。私はお勧めしたい。ただし機械好きの人でないと喜ばないかもしれない。

サクラ

充電設備が鍵

 日産自動車の電気自動車サクラは価格が抑えられたこともあって、普及が考えられる。課題は充電用のインフラが十分でないことだ。

 電気自動車が環境対策の最適解なのかという疑問は消えないが、少なくともヨーロッパからはガソリン車はなくなっていく。日本も時代の流れにはついていく必要がある。水素エネルギーの開発などの次世代技術を進めながらも、近未来的にはEVの時代を通過することは間違いない。トヨタも大胆な電気自動車化を発表しているが、日産の動きは速い。LEAFは先駆的だが、価格が高すぎる。中国の格安の電気自動車や韓国の比較的高性能な電気自動車は日本の先を行っている。

 日本の電気自動車といえば三菱のアイミーブという先駆的存在がある。これも軽自動車の車体であった。三菱を傘下に置く日産に技術者が合流したこともこの流れに何か関係しているのだろうか。日本の風土には軽車両があっており、一定の需要がある。今回のサクラは軽といっても大きめの車両である。安全性とエネルギー系のインフラが確保できれば普及も考えられる。