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戦争文学

 戦争文学を読むときその目的が私の中でかなり変化してきていることに気づく。それは自分と戦争との距離が離れ続けていることと関係している。

 かつて戦争文学は史実の記録の一つとして読んでいた。いかに悲惨なことが行われていたかを参戦した人の実録として読んだ。史料や映像では伝えられない出来事や心情を残すものとして扱った。

 それがいつの間にかそうした史実に対する関心よりも、限界状況における人間のあり方を語る文学として捉えるようになっている。両者は似て非なる捉え方だ。戦争を限界状況を提示する設定の一つとしてしか捉えていないことになる。

 経験していないことを語るのは難しい。身近に戦争体験者がいれば少しずつその経験を共有することもできるかもしれない。ただそれも難しくなりつつある。

 戦争が単なる歴史上の事項として受け取られる時代に、何ができるのだろうか。私自身の問題としては若い頃に読んだ驚きや恐怖を読み取ることに遠慮をしないことだと考えている。

首相の言葉の意味

 広島と長崎の原爆記念日の首相の言葉がほとんど同じであったことが話題になっている。過去にさかのぼって調べた記事もあり、実はこれまでもあまり違いはなかったようだ。気を付けなくてはならないのはそのことではない。

 広島と長崎の被爆はアメリカの核による脅威を世界に見せつける目的があったという。形式の異なる原子爆弾を落としたもの実験的な意味があったと考えられている。降伏しない日本軍への決定打として、東進するソ連の共産勢力への威力誇示など様々な意味があったようだ。

 75年の歳月を経て被爆の歴史的意味が様々に解釈される中で、日本の首相の発言の意味は大きい。しかし、それがもはや類型化され紋切り型になりつつあるのは残念だ。被爆国として世界にメッセージを発信できる貴重な機会を無にしてほしくない。

 反戦運動もまたしかり。その精神が類型化してしまえば説得力は急速に失われる。戦争の加害者であり被害者でもあった頃の記憶を失えば、教科書の写真をみるのと同じようなものだ。首相にはそれをさせない行動をとってほしい。来年は誰がやるのかわからないが、期待できるだろうか。