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機械化した分、面談に

 提出物をバーコードで管理することにした。完成しているプログラムをお借りし、試したところ使用に耐えることが分かった。少々カスタマイズが必要だが、これで数十分から一時間程度の業務時間短縮ができそうだ。

 浮いた時間で何をするか。それは個別面接の機会を増やすことだろう。私が業務を機械化したように、生徒も学習活動の一部もしくは大半をコンピューターで行っている。活用の仕方が間違っている場合は、思考の過程を飛ばして答えだけを書いてきてしまう。

 教員として心がけたいのは結果より過程ということだ。何をどう考えたのか、それをどのように説明するのかを指導しなくてはなるまい。テストやレポートの採点結果より、重視すべきなのは解答の作成過程である。

 ただそれを評価することは難しい。学習の場面に立ち合うことはできない。できたとしても学習者の妨害にしかなるまい。だから、次善の策として提出後に面談を行い。どのように学んだのか、学んだことは何かを自分の言葉で語らせるようにすればいい。

 いままでは業務時間内に事務的な仕事を終わらせるので精一杯で、面談にかけられる時間は限られていた。人間が不要な部分は思い切って機械化し、対人指導に注力しよう。生徒には煙たがれるが、今はそれがもっとも効果的な気がしている。

組み合わせ

 新しいものを作り出すことは容易ではありません。ゼロから作ったという表現には明らかな誇張があります。創造神でもない限り無から有を生み出すことは不可能です。

 私たちが新しいものと感じているのは大抵の場合、既存のものの組み合わせです。今までにない取り合わせ、意外な連係が新しいものとして現れるのでしょう。私たちはもっとミックスとかブレンドとかに興味を持つべきなのです。

 これは有形物のみならず、無形の概念、社会の仕組みなどにも共通します。新しい何かを考えるときには現状の分析と大胆な組み合わせとが肝要なのです。

集中できる場所

 自室では仕事ができないという人の気持ちはよく分かります。生活のための空間という位置づけができてしまうとそれを変えるのは難しいのです。

 仕事をする上で図書館やカフェにわざわざ出かけてやった方が能率が上がるという人がいます。私もそうでうるさくて仕方がないはずのコーヒーショップの方が読書が捗ります。恐らくいまはこれをやるときという割り切りが場所の移動によって自覚できるからでしょう。場所と意志とは連動するのです。

 わざわざ金をかけて他人の空間を借りるよりも、遥かに高い家賃を払っている自宅の方が使用されるべきであることは理屈では分かっているのです。しかし、気分というものは簡単ではありません。

 自分が集中できる場所を探すことが何かを成し遂げるには不可欠であるとつくづく考えているのです。

すべて一期一会

 自らの体内組織が刻々と変化している現実を考えるならば、感知した現実もまたその時限りのものということになります。すべてのものが一期一会なのです。

 自分という視点が不動の座標軸の原点であると考えることができれば、かなり単純な数式で世界が捉えられるかもしれません。また日常的にはそのように考えています。時空を目盛において起きた現実を同一の平面に投影しようとします。大体のことはこれで事足りるのです。

 ところが実際は原点自体が常に移動しており、揺れながら対象を見ているのです。手ブレを補正するカメラのように巧みに対象を見続けてもその限度を超えるともはや同じものを見ているともいえなくなる。私たちの見ている世界はこのように変動的なのです。

 変わってしまうことを前提として物事を捉える視点を私たちは常に忘れてはなりません。昨日そうだと確信しても明日は違うかもしれません。そういう心の余裕と、世界観はこれからの現実を生きる上でかなり重要だと感じるのです。

仕事始め

 私の職場は今日が仕事始めです。今年は仕事の仕方を本格的に変えていかなくてはならなくなる事態に至ります。

 効率もしくは生産性を下げることなく時間を削ることが焦眉の急である現実の中で必ず取らなくてはならないのが同僚とのコミュニケーションです。自分だけうまくやっても集団としての力が生まれなくては生産性は上がりません。連絡の時間を確保しながら、互いの時間を阻害しないことを第一の計画目標としなくてはなりません。

 私のような職の場合、相手に合わせて業務内容を変えることも重要です。すると自分のやりたいことだけをしていても無意味です。場合によっては計画変更が大きく起こることもあります。それでも対応できるように余裕と、常時計画の見直しとをしていく必要があるのです。

 これらを行なうための道具として、ノートとスマートフォン、さらにこのブログを使っていきます。ノートは思考の整理のために、スマートフォンは計画を持ち歩いて参照するため、そしてブログは反省と決意を示す手段として。もちろんそれだけではないのですが。少ない時間を活用するためにできることから始めていきます。

考え方次第

 まったく同じものを見ていても感じ取るものが違う人がいるということはよくある経験です。自分の感性がすべてだとは決していえないのです。

 たとえばあるものを手にするときに、右手で扱うか左手にするかでその後の成り行きは変わります。その人の利き腕が違えばまた異なる結果になる。身長の差だけでも世界は別の姿になるし、それをどう捉えるかも人それぞれです。同じものを見ていると言えるのかどうかもあやしくなる。

 だから、始めから同じものを見ているとは思わない方がいい。また自分が感受したものは他者には説明しなくてはならないときがあることを意識しておかなくてはならないのです。

 このことを分かっているつもりでいながら、いざというときにあっさりと忘れてしまう。それが私たちの宿命であり、欠点でもあります。悲観的になりすぎないための本能かもしれませんが。

時間の平面化

 手帳を更新する季節になりました。かつては歴史手帳を愛用し、その後産能の手帳を使うようになっていた私ですが、いまはただのリングノートと、ネット上のグーグルカレンダーとを利用しています。どのような形であれ、私がやろうとしているのは形なきものの可視化です。

 時間の流れを可視化するのは手帳の大きな役割といえます。実は切れ目なく流れていくだけの時間に切れ目を入れ、価値を見出していくのは人間の叡智です。それを実際に紙面に記号化していくのが手帳の役割といえます。

 丸印や矢印には時間に価値を与える意味が込められています。略図を付けたり色づけすることでその意味は一層顕著になります。複雑な現実を極力単純にするのが手帳の役割であり、その中で整理がなされる訳です。手帳をつける理由は時間の平面化という変換にあるわけです。

 ただ、手帳を書くという行為自体が時間の流れの中で行われるために、その行為自体がエントロピーの増大に晒されてしまう。単純化が目的だったことを忘れて次々につけたしを始めてしまうのです。手帳をつけることは常に時間軸から抜け出そうとする行為なのかもしれません。

ノートの誘惑

 このブログも含めて最近はキーボードやスマートフォンのスクリーンを使って字を書くことが大半になっています。でも、定期的に手書きノートの魅力に誘われることもあります。

 私は仕事では万年筆を使うことが多いのですが、それも採点や添削など一部の業務に限られています。普通の文章を書く場合はどうしてもデジタルで行ってしまいます。書き直せることと、保存、検索が可能であるという魅力はどうしても捨てがたい。

 ただ直感的に字が書けることや、レイアウト、図などの自由性からやはり手書きの利点は大きい。いわゆるバレットノートの方法を知ってからは、日々の記録と思い付きノートは一冊にして時系列順にどんどん書きこむというスタイルにしてます。あまり整理しようと考えないことで、かえって思い付きの蓄積が保てるようになりました。何よりもパソコンで仕事をしているといろいろな業務がマルチで同時多発的に襲い掛かってきて、さらにいろいろな誘惑も一画面上で行えるため分裂的な精神状態になってしまう。紙面だと書くことに集中できるという利点があります。

 デジタルとアナログと用途によって使い分けることが大切なのは分かっています。しかし、私の場合はしばらくするとエントロピーの増大が現れ、やり方がごっちゃになり始めます。自分で決めた方針がなかなか守られない。それこそが問題なのです。時に現れる手書きノートの誘惑は、記録と思考という原点回帰を促すものとして私なり貴重なものだと勝手に考えています。