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氷饅頭

 亡き父がかき氷のことを氷饅頭と呼んでいた。昭和のある時期、家庭でかき氷を作れる器具が流行し、我が家にもたこ焼き用の鉄板とともによく使われた時期があった。

 かき氷を氷饅頭と呼ぶのは戦前に少年時代を送った人の、主に西日本での共通体験なのだそうだ。削った氷を何と新聞紙に乗せて売っていたというから、おおらかな時代だ、そう言えば福岡市に住んでいた頃、街のたこ焼きやも新聞紙にくるんで渡してくれた。三個で三十円という破格な値段であったが、今考えると新聞紙にそのまま触れた食品を何の抵抗もなく食べていたことになる。高度経済成長が終わった頃の話だ。

 氷饅頭の話に戻る。父はその話になるととても嬉しそうだった。かき氷を目にするたびにあれは氷饅頭だと言った。変な話というと、微笑んでいた。こんなことが何度もあった。恐らく子どもの頃の思い出と結びついているのだろう。

 最近は喫茶店でかき氷を見ても食指は動かない。冷たいだけで何がいいのかと思ってしまう。氷に耐えられる身体ではなくなったのかもしれない。

釣りの付き添い

 亡き父の趣味は釣りだった。小学生の頃は無理やり連れて行かれた。恐らく母親の保育時間を軽減するための手段であったのだろう。そんなことは今になって分かったことで、当時としては日曜日は川か海ということが当たり前になっていた。

 父の釣りは粘り強いというタイプで決して巧妙とは言えなかった。釣り場を決めたらその場で粘り強く待つタイプであった。恐らく子連れであったために頻繁に場所を変えることができなかったのだろう。

 海の場合は防波堤の上で陽にさらされることになる。子供用に穴釣り風の仕掛けをわたしに作り、自分は目的の釣りをしていた。私はフグが釣れるたびに外れだと言われ、ベラのときはいいねと褒められ、カサゴのときはとても褒められた。でも、何がいいのか全く分からず、すぐに飽きてしまった。

川の時はそれよりはマシだった。釣れるのはハヤと呼ばれたウグイの類で、ヤマベという魚がよく連れた。鮎も狙っていたはずだが、それは滅多に掛からない。私は川釣りはすぐに飽きて、近くの田んぼにゲンゴロウやタガメを見に行くことに熱中した。

子供にとってはそれで十分楽しめた。父の付き合いは退屈であったが、自然と向き合いゲームなどなくても満足できる時間の使い方を学ぶきっかけをもらったのかもしれない。

一人暮らしを始めたころ

 富山県黒部市に住んでいたころは今から考えると最も不安定な時期だった。初めて就職した場所が暮らしたことがない地方都市であったことから、この地での生活を始めたのだが、直前に住んでいた渋谷とは全く違う環境に驚いた。

 それでも何とか順応できたのは、小学生のころ転校を繰り返した転勤族の息子として経験が生かされたのではないだろうか。つまり、住まいとは移ろうものであり、周囲にいる人もまた同じ。その場その場で適応することこそが大事なのだという学びである。

 一人暮らしは気楽であったが、単調になりやすかった。自炊したり、自分なりに楽しみを見つけたりすることは前から得意であったので、不完全ではあったが何でも自分でやるようにしていた。スーパーで魚を買い、自分でさばいて煮たり焼いたりして食べた。炊飯は機械に任せればよいが、味噌汁はしばらくは思い通りにはできなかった。それでも何とかなるものだ。それなりにできるようにはなっていった。

 掃除は駄目だった。毎日やらなくてはならないものを週に1度になり、月に1度になり、さらに頻度が減ると耐えがたいものになっていった。しかし、劣悪な環境も慣れてしまうと何も感じなくなってしまう。ある時、これではだめだと思って掃除を始めたが、これは最後まで苦手だった。

 この時期に始めたのがジョギングだ。一日7,8キロは走っていた。休みの日は朝と夕に二回走った。住まいから生地の港までの真っすぐな道をただ走った。港でしばらく海を見て、また宿まで走る。それを雨や雪の日以外は毎日行った。この経験は功罪がある。よいことは基礎体力ができたこと。少々のことにへこたれなくなったこと。悪いことはおそらくこれが原因で5年周期くらいで膝に水がたまるようになったことである。

 黒部市での生活は3年余りだったが、人生においてとても大切な時期であったのは間違いない。いつかまた生地の港を訪ねてみたいとは思うが少し躊躇もしている。

ソ連館のメダル

 1970年の大阪万博には連れて行ってもらえなかった。当時の親の収入では家族を大阪まで連れて行く余裕はなかったのだろう。でも、父は仕事で出張したついでに行ったらしく、お土産としてソ連館のメダルをくれた。ソ連が当時は敵対する国としての印象が強かったことから、もらってもあまり嬉しくなかった。

 いま行われている関西大阪万博にはかなり関心はあるが、訪問は躊躇している。その一つが経済的な要因にあることは確かだ。この歳になってそんなことを言っているのだから、親のことを悪くは言えない。

 もし行けたとしたら、何を土産にするのだろう。キャラクターグッズよりは、その時にしか得られない何かを求めた方が価値がある。いつでもどこでも買えるのもよりはその時、その場所でしか手に入らないものの方が価値がある。

 ソ連館のメダルを買って来た父はその意味で素晴らしい土産をもたらしたのだった。残念ながらどこかに埋もれてすぐには見つけられないのだが。

あの時の表情

 昔の友人か見せた何気ない表情がふと脳裏に浮かぶことがある。日常の風景の中で時々見せた表情は、何かを訴えるのでもなく、ごく普通の状況で出会った。

 ずっと忘れていたのだが、なぜか急に思い出してしばらく低徊している。もう二度と会うことのない表情、それがあった時代、その周辺の世界、といったふうに感傷的な気分が広がる。

 もう少ししたらその表情の意味が分かるのだろうか、故人の面影を追うことにブレーキをかけてしまう私の安全装置を解除したら何が起きるのだろう。そんなことを瞬時思っては、取り下げることが続いている。

Words

 懐かしく思う楽曲に偶然接することがある。F. R. Davidが歌うWordsには最近出会った。誰もが共感しやすい純粋な気持ちを、透明感のあるボーカルで歌うこの曲は学生時代によく聴いた。当時、流行っていたギター関係の雑誌に楽譜が掲載されたのでコードも分かったので歌ってみたこともある。

 最近までこの曲の作者がユダヤ系フランス人であることを知らなかった。歌詞が分かりやすい英語であるのは母語ではなかったからなのか。分かりやすい歌詞は語学力のない私にも何とか理解できるのもだった。Words don’t come easy to me. How can l find a way to make you see I love you. Words don’t come easy. は繰り返されるフレーズだが若いころには切なさを実感できた。

 1982年のリリースというからもうかなり昔の曲だ。その頃は自分自身が歌詞のような思いにとらわれる瞬間が何度もあったが、いまはそれを懐かしく思い出すばかりだ。なんでも言語化して効率を上げるべきだと繰り返す言説を少々煩く感じることさえある。

大学に入る前

 はるか昔のこと、大学合格が決まって入学式までの間は私にとってかなり危険な期間だった。受験勉強しかしていなかった数ヶ月の期間にすっかりと世間知らずとなり、さまざまなものが弱くなった私を標的にしてきた。

 新興宗教の勧誘はさすがに避けることができたが、英会話教室の巧みな勧誘はあと少しで騙されそうになった。大学に入れば受験英語は役に立たない。大切なのは会話力だと力説されるとそうかなと考えてしまうものだ。いまだに英語は苦手だが、会話ができなくても大学では少しも困らなかった。もちろん、同じ教室に英語が堪能な人がいたのは確かだが。

 私の高校の男の同級生の大半は浪人していたから彼らを誘うのも何となく気が引けた。かといって女子の同級生と気軽に遊べるような高校生ではなかったので、結果的に空白のときを送ることになった。

 何をしたのかは実はあまり覚えていない。でも、いまより一日一日が濃い印象だけは残っている。大学に入って暫く経っていろいろな出会いがある。人生に大きな変化が起きたが、その変化を経験するとそれ以前のことが急におぼろげになった気がする。

 卒業というのはそういうものなのだろう。間もなく私も違う意味での学校を卒業することになるが、きっといまの生活の感覚はその後忘れていしまうはずだ。ならばいまの生活のあれこれを味わっておくのも大事なのだろう。

記憶はいつか

 記憶はいつか消えていく。歳をとるとその速度が速くなっていくのを実感する。さまざまな媒体に記録しても、それはすでに自分の記憶ではなく、何かが省略され、何かが誇張された現実に似て非なるものである。

 ならば現実は直ぐに消え去る儚いものなのだろうか。私たちはその問いを全力で打ち消そうとする。記憶が消えても、いかに現実を過ごしたのか。それが周囲の他者にいかなる利益をもたらしたのかという尺度を持ち出して有意義なものであることを死守しようとする。これは実はとても大事なことだ。

 人生を一人の視点からしか見なければ、人の死は全ての終わりだが、人類という単位で見れば、個々人がそれぞれ積み重ねてきたまとまりのようなものである。それぞれ皆違いながら、多くの共通点を持つ。記憶を組みあわせれば人間としての共通経験が形成される。その意味では人間の記憶は意外にも長い。

 いずれ忘れることであってもそれを考えることにはやはり意味がある。

 

タイヤ交換

 降雪地域に住んでいた頃はこの頃にタイヤ交換をした。実際はもう少し早い方がよかったと思うが、師走に入ってようやく手をつけたという年が多かった。スタッドレスと呼ばれる冬用タイヤは雪道や凍結した路面を走行するのに不可欠であり、私のような雪国ネイティブでない者にとっては命綱のようなものだった。

 ガソリンスタンドでも交換してもらえるが、その手間賃を払うのもケチっていた私は自分で取り替えた。最初の数年は時間がかかったが、その後は要領を得て速くできるようになった。そうは言っても寒空の中で白い息を吐きながら行う作業には抵抗があってなかなか着手しなかったのはそれが原因だった。遅くなるほど寒くなるのだが。

 本格的な降雪は数日のことで大抵は融雪装置で半ば解かされたシャーベット状の路面を走った。通勤の必要性からとは言え、よくもあのような不安定な道を走ったものだ。

 いまでもたまに運転はしているが雪道走行はできればしたくない。そんなことが言えるのは関東に住んでいるからだろうが。この時期になるとタイヤ交換のことをふと思い出す。

歌舞伎が好きだった旧友の訃報に接して

 旧友の訃報に接した。大学で知り合った彼は京都出身で多くの京都人がそうであるように東京の大学に来てからも方言を改めることはなかった。日常に京都方言に接していると、なぜか多数派であるはずの関東者が、一人のために方言に巻き込まれてしまう。

 彼の変わっていたのは大の歌舞伎好きだということだった。時々奇声を発したかと思えば歌舞伎役者の所作を演じていた。こんなことをする人はそれまでの私の周りにはいなかったので最初は驚いた。大学では歌舞伎研究会というサークルに入っていた。彼のほかに歌舞伎の身ぶりをする同級生をその後知ることになった。

 私とは色々な意味では正反対の彼だがなぜか気はあった。週に一度か二度あった大学付近での安い居酒屋の飲み会でしばしば一緒になった。今の学生は酒を飲まないそうだが、私の頃は居酒屋こそが交流の場であった。

 卒業後、彼は趣味をそのまま職業にして国立劇場の職員になった。本物であったのだ。大学院に何となく進んでしまった私はあてもなく図書館の住人というか地縛霊のような者に成り果てていたが、ある時彼が現れて調べて欲しいことがあるという。それは国立劇場で仮名手本忠臣蔵を通しで演ることになったが、暫く演じられなかった建長寺の場に掛かっている掛軸に何と書いてあるのか調べて欲しいというのだ。そして前回の公演の舞台写真を見せてくれた。

 これが不鮮明なモノクロ写真で掛軸の字も癖のある草仮名だった。何とか部分的に読み取って、国歌大観などで検索しても一向に出てこない。当時の私は根気もあったし、何よりも時間が十分にあった。恐らく和歌だろうと見当をつけ、しかも歌舞伎の舞台にかかるくらいだから有名人の作であろうと当てをつけ探し続けたところ、一休宗純の作という和歌に極めて似ていることが分かった。そこで彼にそのことを伝えたらありがとうと言って、それが正解だったのか否かを教えてもらえなかった。代わりに国立劇場の忠臣蔵公演の招待券を貰った。調べた場面ではなかったので私の努力が報われたのか、大間違いだったのかはついに分からない。鬼籍に入ってしまったのなら、答え合わせはこちらからその世界に入るまで分からない。

 彼は気さくな変わり者だったが、礼儀正しく常識もあった。京都に行くときの一泊500円という超破格な宿を教えてくれたのも彼だ。その後ソーシャルメディアで彼の情報に接することもあったが何もせずに過ごしてしまった。残念でならない。