旧友の訃報に接した。大学で知り合った彼は京都出身で多くの京都人がそうであるように東京の大学に来てからも方言を改めることはなかった。日常に京都方言に接していると、なぜか多数派であるはずの関東者が、一人のために方言に巻き込まれてしまう。
彼の変わっていたのは大の歌舞伎好きだということだった。時々奇声を発したかと思えば歌舞伎役者の所作を演じていた。こんなことをする人はそれまでの私の周りにはいなかったので最初は驚いた。大学では歌舞伎研究会というサークルに入っていた。彼のほかに歌舞伎の身ぶりをする同級生をその後知ることになった。
私とは色々な意味では正反対の彼だがなぜか気はあった。週に一度か二度あった大学付近での安い居酒屋の飲み会でしばしば一緒になった。今の学生は酒を飲まないそうだが、私の頃は居酒屋こそが交流の場であった。
卒業後、彼は趣味をそのまま職業にして国立劇場の職員になった。本物であったのだ。大学院に何となく進んでしまった私はあてもなく図書館の住人というか地縛霊のような者に成り果てていたが、ある時彼が現れて調べて欲しいことがあるという。それは国立劇場で仮名手本忠臣蔵を通しで演ることになったが、暫く演じられなかった建長寺の場に掛かっている掛軸に何と書いてあるのか調べて欲しいというのだ。そして前回の公演の舞台写真を見せてくれた。
これが不鮮明なモノクロ写真で掛軸の字も癖のある草仮名だった。何とか部分的に読み取って、国歌大観などで検索しても一向に出てこない。当時の私は根気もあったし、何よりも時間が十分にあった。恐らく和歌だろうと見当をつけ、しかも歌舞伎の舞台にかかるくらいだから有名人の作であろうと当てをつけ探し続けたところ、一休宗純の作という和歌に極めて似ていることが分かった。そこで彼にそのことを伝えたらありがとうと言って、それが正解だったのか否かを教えてもらえなかった。代わりに国立劇場の忠臣蔵公演の招待券を貰った。調べた場面ではなかったので私の努力が報われたのか、大間違いだったのかはついに分からない。鬼籍に入ってしまったのなら、答え合わせはこちらからその世界に入るまで分からない。
彼は気さくな変わり者だったが、礼儀正しく常識もあった。京都に行くときの一泊500円という超破格な宿を教えてくれたのも彼だ。その後ソーシャルメディアで彼の情報に接することもあったが何もせずに過ごしてしまった。残念でならない。