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考える過程を示す

手順が大事

 国語、とりわけ現代文の授業では考える過程を学ぶことが最重要の目的だ。これを示すのは案外難しい。言葉の運用の能力は人それぞれであり、示し方に工夫が必要だ。

 文章を型で教えるという方法がある。これはいつもやっている方法だ。段落には言いたいことをいう文と、それを支える文とがある。トピックセンテンスの考え方を教える。大半の生徒はこれで納得するか分かったふりをする。しかし、そもそも何が意見であり、何が例証であるのか区別がつかないものにとってはこの説明は効果がない。

 段落と段落の関係についても同様だ。それぞれの段落の役割を把握するのは実は高次元の概念ではないか。掴むことのできたものには当たり前でもそこに至るまでには時間がかかることがある。

 考え方を多様な方法で示すことが教員の付けるべき技能なのかもしれない。答えを教えるのではなく答え方を教えるのが国語の特徴である。

素読、速読

耳と手を動かす

 古典文学の入門者への教え方を模索している。結果として伝統的な方法がよいのではないかということに至った。

 まずは古典文学を身近に感じることができることが肝要である。文語調の文章や漢文訓読に接する機会が激減している中で、まずは多くの文章に触れる必要がある。

 角川文庫のビギナーズ・クラシックスなどを読ませるのが手っ取り早い。だが、読書自体があまり行われていない中で、読んでおけは読まないというのと同じだ。そこで、15分程度で読みと解説を完結する年間を通してのの取り組みが必要だろう。文法事項はこの時間帯には最小限に止める。やることはひたすら音読もしくは筆写である。意味は後回し。耳と手で覚える。

 とにかく古典に親しむという戦略だ。この時代にいまさら古典などということなかれ。日本文化や中韓の文化を知っていることがこの先いかに役立つかはすぐに答えがでるはずだ。

読解力

真剣に読む

 これまでも何度か話題にしてきたが、読解力の低下にいかに対処するのかは大きな課題の一つである。かくいう私もこの力が漸減しているのを感じている。社会的要因があると考える。

 私個人の問題としてはもちろん老化といった身体的要因がまずある。残念なことだが短期長期の記憶力の低下は大きな影響がある。それよりも実は深刻なのが真剣にテキストに向き合う機会が減っていることではないだろうか。

 日々の生活の中で読解力の有無が致命的な影響を及ぼす機会は減っている。これを読まなかったために大きな損失を被ったという実感を得る機会が少ない。もちろん本当はかなり死活的問題をもたらしているはずだ。それに気づかない。

 現代社会は説明過剰である。効率的なやり方が予め示される。だから自分で状況判断して最適解を模索するという機会が少ない。なくても十分なのだ。これは便利で一見優しい仕組みだが、読解力の養成には向いていない。

 真剣に文章を読む機会がないのなら、意図的に作るしかあるまい。それが現代国語教育の役割の一つだ。こういうと契約書の読み方を教えるといった実用文を扱えはいいという話になる。しかし、実用文はもともと分かりやすく書かれており、最終目標にすべきものではない。

 様々な話題、筆者の評論文や、文学作品、古典文学などを学ぶのは死活的な状況で読む読解力の養成に相応しい。内容から学ぶ叡智はさることながら、難解な文に向き合い読み通すことが大切なのだ。

表現力

やってみたい授業

 時間があればやりたい授業というものがある。大抵の場合、決められた学力(数値で測定可能な)の向上には向かないという理由でできない。

 考えたことを発表するという授業はぜひやりたいことだ。一人でやるのとグループ発表の両方がいい。また、発表を評価することもいいと思う。

 とりあえずブックトークを考えている。好きな本を自由に選ばせたり、テーマを決めて読ませたりするのもいい。まずは互選させて代表を決める。代表はチームリーダーとなってグループ発表する。

 他にもいろいろなアイデアがある。それを試す時間があるといい。表現力プラスアルファを狙いたいのだ。

短くても面白い話を

どうしたら古典文学に関する関心が高められるのかを考えている。それはやはり読んで面白いという体験が不可欠のように思う。そしてそれをどのように提供するのかが鍵のようだ。

古典が好きになれないという生徒の大半は学ぶ意味がわからないということにある。こんなことをやって何になるのだという人もいる。その分をコンピューターのプログラミングに当てたほうがいいとまことしやかにいう人もいる。そういう人の多くは大切なことを飛躍して考えている。言葉に対する興味や、文化への関心がないままプログラミングができるのだろうか。できたものが他者に受け入れられるレベルになるのだろうか。

私がその方面に疎いから説得力がないのかもしれないが、プログラミングを少しだけ学んでみてそこで説明されている言葉の未熟さに驚くことがある。説明の仕方を少し変えるだけで簡単になるのに、易しいことを難しく言っている。プログラミングはできるのにどうして説明が下手なのだろうか。

言葉はつながっている

言葉に対する関心は日常語だけから生まれるのではない。現在私たちが使っている言葉が基盤としている言語的な財産というか遺産というべき古典の世界から受け継いだものも大切だ。例えば「思う」という動詞の抱える守備範囲は”think” や”想”とは異なるが、それをたとえば和歌の中にある「思ふ」の用例と比較すると、その違いが見えてくることがあるのだ。

ただ、私もいまの古典の教育があまりにも解読(あえてこう言いたい)にこだわりすぎているのは問題だと考えている。文法も語彙の習得も大切だがそのレベルのことは今後はコンピューターがやってくれるのではないだろうか。大事なのはそこで何が述べられているのかを数多く知ることにあるのではないかと考えているのだ。

そのためには何をすればいいのか。まずは、さまざまな内容の短く読みやすい古典作品を提供することにあると考える。たとえば先程とりあげた日本語の「思う」の持つ歴史をさまざまなエピソードをあげて読み流すようなテキストがあるといい。短くて読みやすく、しかも面白い話を集めること。それを体系的に並べること。それが私の当面の課題となりそうだ。

共通体験の担保

 世代による共通の体験というべきものを探すことが難しくなっている。こんなことを見た聞いたやったという共通の経験は少ない。その意味ではここ数年、マスク生活になったことは稀有なことかも知れない。

同じ本を読む経験も必要だ

 もちろんこれはある意味喜ばしいことでもある。生活が多様化し、様々な価値観が並列する時代にあるといえるからだ。選択肢が多数あるからこそ、共通の経験を持つ者の数が減るわけだ。

 読書経験についても同様のことが言える。同じ本を読む経験が減るのは、読書以外の楽しみがあるからだということだ。

 ただ、ある程度は共通の教養がなければ様々な困難が発生する。同じ思考の根本にある読書経験がバラバラだと共感したり協調したりすることが難しくなってしまう。あの話のように、という比喩は使えなくなる。それは結構困ることだ。

 学校の国語の授業で全員に同じ話を読ませるのはその意味では共通体験の担保をしているのだとも言える。それがどんなに退屈な経験であっても、それに触れたと言う経験は一定の意味を持つ。

 よく、無理やり同じ話を皆に読ませても無意味だとか、関心のわかない読書をさせるべきではないという人がいる。一理あるが別の見方をすれば、それなりの役割を果たしていることに気づくはずである。

古典の教え方

古典は暗号解読ではない

 ここ数年、古典を中等教育の段階でどのように教えるのか悩んでいる。単語や文法の知識を習得するのは大切であるがそれを目的とするのでは本来の古典教育の目標に届かない。

 古典を通して古人の価値観や行動様式を知り、それを現代社会と比較することによって新しい知見を得ることは古典学習の本道と考える。決して暗号解読ではあるまい。ならば、そのようなことを学ぶ機会が学校に用意されているのか。私は不十分と考える。

 文化史的な視点をもっと取り入れてもいい。そのためには入試問題をただの解釈だけを問うものではなくしていただきたい。具体的な方策は今後述べていきたい。

主旨を掴む練習

 今後の国語教育に必要な力であり、目標とすべきなのは要約力であることはほぼ間違いない。要するに何が言いたいのかを簡潔にまとめ、それを言語化する能力が求められている。

 言葉の知識や漢字力の大切さは揺るぐことはない。傍線部の意味を説明する問題も大切だ。ただ、かつてとは異なり、語彙は検索すればすぐに分かるし、テクニックで答えが出るような問題はやがて人工知能に任せることができるだろう。大切なのは主旨を掴む力である。

 大量の情報を受け取ることができるようになっても、そこに価値の濃淡を見いだせなければ理解はできない。そのためには短文をなるべくたくさん読み、言いたいことは何かをまとめる力を身につける必要がある。

 そのための方法を考えてみたい。要約文を書かせるのがいいと思うが、これには手間と採点時間の長さという課題がある。自己採点できる方法を考案すればいいのだろう。すでにその目的で作られている問題集があるのになぜ普及しないのかも考察したい。

読解の教え方

 国語の教員として現代文の読解の方法を型で示すことがある。よく、現代文は勉強の仕方が分からないと言われるが、型を意識する読み方を学習すればある程度の成績の向上が見込める。だからこれは二項対立だとか、弁証法だとかいろいろな名前をつけて説明する。

 しかし、本当に大切なことは筆者は何かを訴えたいと思って文章を書いているということを意識することに尽きる。文章でもスピーチでもそれが実のあるものならば必ず言いたいことがある。言いたいことの大半は今まで他の人が考えていなかったことや、内容が他と同じだとしても表現の方法にオリジナリティがあると筆者が信じているものだ。だから、よほどの独りよがりの文章でない限り、言いたいことの説明をしようとする。だから、主張なのかその説明なのかという区別さえつけばたいていの文章は読める。用語が難解であったり、文が長すぎたりすると骨が折れるのは確かだが。

 だから、型で読むことを教えるのは、主張部分と、それを成立させるための説明部分との関係をおさえることと同義だろう。難しく考えすぎないように、単純化した方がいい。特に本を読むのが苦手な人には「いいたいこと」と「そのための説明」を分け、それらがどういう順番で出てくるのかをその都度意識させるのがいいようだ。フリクションなどの修正可能な色ペンでそれらを分けさせる方法は効果があるだろう。本文のコピーを取って配るのもいいし、デジタル環境があるならば、ハイライト機能などを使わせて提出させるのもいいだろう。

 読解力が低下していると嘆く識者は多い。読書量が減っているのも事実だ。ただ、読み方の教え方についてもっと研究をしなくてはならないことも事実だろう。

感情的な描写を論理的に考える

 小説の読解の方法の基本は、登場人物の心理の変化を正確にたどることである。これができれば小説の世界を深く理解できる。現実の人間の世界はかなり複雑な構造をとる。人間の心理というのは数式に表せるほど単純ではない。いろいろなことを同時に考えており、局面においてその感情の一部分が顔を出してくる。だから人間というのは実に複雑である。

 小説の世界は作者によって一定の世界観を付与されており、その登場人物も設定上の制約の中で活動する。かわいい女の子はいつまでたっても無邪気なままだし、おんぼろの世界の中で何とか自己実現をしようとしている。現実とは似て非なる世界の中である。その造形の中で私たちは人間について考えることになる。

 小説は筆者の仕込んだ構図の中に一度没入し、さらにそこから浮き上がって俯瞰することで深い味わいを受け取ることができる。私が教室で教えたいのはその点であり、いつもそれを目指しては失敗している。