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数学的思考

 ある人のインタビュー記事を読んでいたら、多くの人には数学的思考がなさすぎるという。そのために事実誤認が生まれ、さまざまな悪影響に繋がるというのだ。

 確かに私は物事を経験的な感覚でしか捉えていない。そしてその多くは間違っている。だか、私以外の人も同じような間違いをおかしているので困らないのだろう。

 日常些事ならばそれで済む。ただしこれが累積し、継続性を持つようになると大きな問題になる。科学的思考がとれなくなると、思い違いで酷い結果が増幅してしまう。それは損失以外の何者でもない。

 不利益を受けるのが自分だけならば自業自得だ。それが他者に影響するとなると問題は別次元になる。後生に課題を残すならばさらに問題だ。SDGsよりも大切なのはまずは思い込みによるエラーを減らすことにあるのかもしれない。

 数学の理論を学び直すのは容易ではない。ただ、単純な算術でもよいから、理をもって考える癖をつけなくてはならないと痛感する。

考え方次第

 抽象的な話になるが私たちの生きる世界は実に多様な側面を持っているようである。自分が目にしていることですらそれは多くの別の見方と同列の一つに過ぎない。絶対にこれしかないとは思っても、別の視点では異なっているものなのだ。

 世界は考え方次第でいくらでも変わってしまう。その不安定さを避けるために何かの規範に身を置こうとするのだろう。規範を壊すものは不安定の闇に人々を突き落とす行為だ。だから、私たちは破壊者を憎むのだろう。

変身願望

 仮装ではなく本当に別人になってしまいたい気持ちになることがある。おそらく多くの人がそのように考えたことがあるのではないだろうか。そしてそれは不可能な願いなのだ。

 もっとも細胞レベルでは生物は常に新陳代謝をしており、一定期間で置き換わっているのだという。だからその意味では常に変身を繰り返しているともいえる。

 しかし、実感としてそれは変身願望には答えられない。それは自分の生の延長上にある加齢というものだからだ。変身するためには別の身体がいる。見た目も行動も全く別の者にならないと変身したことにはならない。

 年齢が変わったり、性別が変わったり、性格が変わったり、その組み合わせだったりするのが変身願望の理想的な完成形だ。現実には外見を変えることはある程度できるようだが、時間軸を往還することや、生命の神秘の領域となるとできることは限られる。

 擬似的に他人になりきることは文学や芸術の力でできることもある。昨今ならば仮想現実の中で他人になりきることもできるかもしれない。漫画やゲームがその役割を果たすこともある。でもこれはどこまでもバーチャルのことであり、少しも自分は変わらない。

 私はしないが化粧することは自分を他者からどのように見られたいのかを示すメッセージだろう。服の選び方とか着こなしの方法も実は変身願望の端緒に当たるのかもしれない。

 結局、自力では他の誰にもなれないことになる。よく考えれば自分の存在は他者の目によって認識されるのだから、変身などしなくても人によって自分は様々に変化しているとも言える。なんとも不思議なものだ。

自分以外にはなれない

There are times when I feel like I really want to be someone else, not in disguise. Many of us have probably thought about it. And it’s an impossible wish.

However, at the cellular level, living things are constantly metabolizing and being replaced over a period of time. So, in that sense, we can say that we are always transforming.

However, in reality, this is not an answer to the desire for transformation. This is because aging is an extension of one’s own life. In order to transform, you need a different body. You have to look and act like a completely different person to be considered transformed.

A change in age, gender, personality, or a combination of the three is the ideal completion of the desire to transform. In reality, it is possible to change one’s appearance to a certain extent, but the ability to travel back and forth through time and the mystical realm of life is limited.

In reality, we can change our appearance to some extent, but when it comes to time travel and the mystical realm of life, we can only do so much. Nowadays, it may be possible to become someone else in virtual reality. Comics and games may play a role in this. But this is all virtual, and it doesn’t change you in the slightest.

Wearing make-up, which I don’t do, is a message of how you want to be seen by others. The way you choose your clothes and the way you dress may actually be the beginning of your desire for transformation.

After all, you can’t become anyone else on your own. When I think about it, my existence is recognized by the eyes of others, so I can say that I change in various ways depending on others, even if I do not transform. How strange life is!

危険な作業

 たとえば放射線が多くて生命に差し支えるような場所にAIを搭載したロボットを送り込んて作業させることは容易に想像可能だ。人的被害がでないのだから理想的な解決策のように考えられる。

 外部からは観測し得ない状況にあり、通信もままならないとしたなら、現場のAIは自律的なプログラムによって任務を継続することになる。それが致命的な爆発に至る可能性があるとしたとき、私たちは人工知能に命運を委ねることができるのだろうか。

 これはSFの話ではない。人生の重要な選択をどれだけ機械に任せられるのかはあらゆる場面で問われることになるはずだ。人間よりはるかに精度が高い判断をする人工知能だが、それに究極の選択を任せられるのかは哲学的問題に属するだろう。

本当の風景

 はてして自分は本当の風景を見ているのだろうか。自分が目にしていることは事実なのか。そんな根本的な疑問を捨てきらずにいる。

 百聞は一見にしかずとは古人の教えである。ただ、見てもやはり分からないことがある。また、目にしている映像が真の姿なのか確証はない。脳は映像を都合よく集成することは錯視の芸術などで明らかだ。

 目にしているものが真実だと思いこむことだけは止しておきたい。私という屈折したレンズの存在を認識して置くことにする。

名付け

 無形の現象になんと名前をつけるか。それが新しい考え方を生み出す原点のようだ。社会現象などの連続的な出来事は実は全てが異なり、同じものなどない。しかし、似たようなことは何度も起こることも事実である。それにどのような名前をつけるかが物事を把握する出発点になるということだ。

 名前がつけられるまでは経験しても記憶されない。正確に言えば記憶しようと思っても手がかりがない。思い止めようとしても手ですくった水が滴り落ちるようにいつかは消えてしまう。それが一旦名前がつくと掌握できるようになる。小異は気にならなくなり、共通する要素を見出していく。それだけに名付けは大切だ。

 でも名前をつけるのは簡単ではない。パターンとして把握するにはそれなりの経験と大胆な推論が必要だ。多くの人はそれを持ち合わせない。だから、ある人が適切なネーミングをすることで初めて見えてくることがあるのだ。私達はそれを学習として把握している。いろいろな本を読むとき、人の話を聞くとき、その名付けられた概念を組み合わせで考えをまとめているのだ。

 では、名付けることは専門家に任せればいいのか。そうではないと思う。私のような一般人でも積極的に名付けを行っていくことが、世界の把握には欠かせない。少なくとも名付けをする意欲だけはいつまでも失ってはいけないと思う。

文化の日

 日本では今日は祝日だ。文化の日という。この祝日は1948年に制定されているが、それ以前にも明治天皇の誕生日として祝日だったことがある。それが文化の日となったのは1946年11月3日が日本国憲法公布の日であったことと関係している。

 文化とは何かについては様々な定義がある。芸術のような高度に洗練されたものももちろん文化的なものであるが、本来人が集まって何かをするとき、そのやり方に一定の方向性があればそれが文化ということになるのだろう。何気ない行動や、日々のルーティンも文化の一つだ。

 文化とはその意味でいえば無自覚で繰り返されているものと言えるのかもしれない。だからその価値も気づかれにくい。気がつくのは自分たちとは異なる文化に出会ったときの違和感がきっかけだ。こんなやり方もあったのかという発見が文化を知るきっかけになる。

 日本人には周囲と同調しようとする心性があるとはよく言われる。周りに合わせることを幼いころから叩き込まれている。だから大きな変動は好まない。これが日本の現状打破を阻む大きな阻害要因だとい指摘も繰り返されている。特に産業界の人はそう言いたがる。ただ、その多くは印象批評的な言い方で本来のあり方を見ているのか分からない。日本の文化が必ずしも同調圧力の中だけでできているとはみなしがたいのだ。

 自国文化を考えるのは自分を見つめなおすいいきっかけになる。

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歴史的な場所

 史跡を訪ねる人はいつの時代も後を絶たない。それは歴史の授業で学んだからだろうか。それは一つのきっかけに過ぎない。おそらく人をひきつける要因にはもっと深いものがある。

 私たちは過去の人々が確かに生活していた場所に赴くことで、現在地を確認しようとしているのではないか。不断の時間の流れの中で、物事は常に変転し、その無常の現実さえ見失っている。大抵は意識しないでいられても、ある時突然思い浮かぶ不安定な気持ちを抑えてくれるのが歴史なのではないか。

 過去は輝いているとは限らない。否定したい負の記憶も含まれている。ただ、それも含めて振り返ることが、現在を安寧な気持ちで生きるための条件なのではないかと考えるのだ。

分析癖

 ヒットしたアイテムがあるとその理由を分析したくなる。何がよかったのかを要素に分けていちいち検証する。それは意味があるのだろうか。

 私は意味はあると考える。分析するとは自分なりの視点を持つことであり、詳しく観察する過程にあることだ。だからやるべきことである。そこに新しい発見がある可能性はある。

 ただ、いくら分析しても同じものは作れない。同じようなものも作るのは難しいだろう。様々な要素の組み合わせと相互作用によって物事はできあがっており、部品に切り離した時点でもうまったく別物になっているはずだ。

 学問でも日常生活でもこのことを時々思い出す必要がある。

疲れてくると

 疲労がたまると忘れてしまうことがある。その場を切り抜けることばかり考えてそれがすべてだと考えてしまうのだ。視界はどんどん狭くなり、息遣いが荒くなる。

 そのようなときは思い出さなくてはならない。いまどうして自分はここにいるのか。なんのために日々を送っているのか。それを今一度思い返すのだ。

 損失の多い日もあれば、良いことばかりの日もある。あるいは実際はそれほどでもなくてもそう感じることがある。疲れたときににはとかく下半分ばかりが気になる。でもそれがすべてではない。全体を見なくてはならない。

 私はときに私自身を遠くから見なくてはならないと考えている。