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見ていても見えていないもの

 よく読む文庫本のページを凝視すると驚くべき発見があった。ツルツルとした白紙の上に活字が印刷されていると思っていたのに、どうもそれは思い込みだったらしいことが分かったのである。

 紙面をよく見ると細かな模様があり、製紙の段階で紙という形となる以前の形態が想像できたのである。紙は始めから平面で筆を滑らすに適した表面をしていた訳ではない。様々な工程の上で紙となり、何事もなかったよう装っている。しかし、紙の表面の実態を知ってしまうとその物語に気がつくのだ、

 現代人には当たり前だと考えている紙や、電気を動力源としたスクリーンなどは、皆いわゆるメディアであり、実物の存在感を持つことが少ない。でも、あるときその質感を強烈に感じてしまうことがある。紛れもない実体がそこにはある。見ていても見えていないものはたくさんあるし、見えだすと気になることもしばしばあることだ。

類型把握

 この話は前にも書いたことがある。でも、少し考えが変わったので書いておくことにする。私が物事を把握するとき、目前の対象をありのままに受け入れているとは言えない。むしろ初めて見るものは何が何だかわからない。

 そこで、それまで自分が経験したこととの照合がなされる。瞬時に行われるから私自身も普段はそのつもりはない。これは誰かに似ているとか、以前見た物の少し変形したものだとか考える。それを持っている言葉に置き換えてようやく把握できる。だから色やサイズ、形状の差異があってもイヌかネコかを区別できる。

 これは言語論の基本だが、この現象を一人の人間の時間的な変遷の中で捉え直すとどういうことになるのか。幼い頃は持っている言葉が少ないため照合できる目印が限られている。だから、本来分類した方がよさそうなものがまとめられていたり、その反対もある。成長とともに言葉を覚えるとともに、その言葉が持っている文化的伝統も身についてくる。すると、水と湯を区別したり、雨の降り方に様々な区別をし、虫や鳥の鳴き声にオノマトペを使うようになる。

 さらにその中で個人的な把握も加わる。過去に起きた印象的な出来事が文化的枠組みを超えて認知に影響を与える。それは言葉すら超越するような身体感覚として突然発生する。

 そのような様々な要素が複合して目の前の物事が認識されている。だから、同じものを見ても条件が変われば別物として感じられるのだろう。類型として把握することは変わらなくても、物差しとその使い方が刻々と変わる中で私は生きているのだ。

感触

 圧倒的に足りないのはその時限りの感触だと思う。それは常に一度限りの偶然のものであり、類型化できない。そういうたぐいの経験を現代社会はあまりにも蔑ろにしていると感じる。

 AIが達成した生成技術とは人々の経験の類型化の産物だ。個々人の経験はあくまでその材料であり、平均から遠いものは外れ値として処理される。かけがえのない経験というものは注意深く除外され、最も確率の高い答えが採用される。だから、間違っていないと感じさせるとともに、どこか胡散臭い感じもある。

 こんな時代に自分を見失わないためにはどうすればいいのだろう。他人と比べてこれが正解だと安易に考えないようにすることが大切だろう。ただこれにはリスクが伴う。社会的に正解と規定されたことから離れたことをすれば、それだけ評価が低くなる可能性がある。それでも自分の価値観を貫きたいと思うなら、もうそれは哲学の問題だ。大方の理解が得られるとは限らない。

 自分の感触を信じて非効率、非社会的でも己の美学を通すのか、その逆でいわゆる効率的に生きるのか。現代社会はその選択を迫ってくる。

冗長を厭わず、嫌悪を嫌わず

 冗長を嫌わず、とにかく思うことを綴ること。それが私の最近の方針である。どうも昔のように整理してから発信するという芸当ができなくなってきた。昔はそういう無駄なことをする輩を嫌ってきた。しかし、今はそういういう余裕がないことに直面している。若い人にはひそかに聞いてほしいことである。

 科学的ではないが、加齢の弊害の一つに短期記憶の低下というものがある。昔は何ともなかった記憶のポケットがとても小さくなってくることを痛感する。これは少しずつ着実に進むから具合が悪い。行ってみれば短期間の記憶喪失が頻発するということなのだ。これは脳科学者ならば適切な説明ができるはずだ。

 とても残念なことにこの現象は多岐にたわって様々な問題を起こす。私たちの生活の大半は短期記憶に支えられており、それで人生の大半を乗り切っている。その最も基本的な能力を奪われてしまうと、打つ手はなくなっていくのだ。

 そんなことは例えば特殊な病に侵された人だけの話だと思う若者は多いだろう。私もそうだった。残念ながらこれはほぼすべての人が味わう老化現象なのだ。このことを伝えなくてはならない。言いたいことは本人の意思に関わらず、加齢により脳の老化は確実に起こり、その一つに短期記憶の低下があるということだ。私自身が大変悔しく感じていることの一つだが、これはどうしようもない。

 前置きが非常に長くなったが、短期記憶衰退のわかりやすい現象の一つとして話の冗長性がある。さっき同じ話をしただろうと聞き手は思うかもしれない。しかし、高齢の話し手はすでにさっき話したことは忘れているのだ。そのことを若い世代は理解できないかもしれない。単に耳が痛い話を永遠に繰り返す嫌味な奴だと思うかもしれない。

 高齢の助言者は無視していいのか。少なくてもこの国で生きていく以上は先輩の発言は無視しえない。科学的根拠は劣ることがあっても、経験的な正当性は高く。それを参考にしない手はない。先輩はやはり立てるべきなのだ。ただ。盲従する必要はない。皆さんが手本としている先輩は日本の歴史という尺度で考えれば、ごく最近の学習者に過ぎない。そこから役に立つすべての情報を引き出せるはずがない。

 その上で言いたい。あなたの近くにいる目標とすべき先輩の存在が無意味なのかといえば、それは違うといいたい。人生は思った通りには全くいかない。様々な条件がそろっていてもうまくいくとは限らない。私たちの人生が偶然に満ちたものであることは過去の歴史から容易に推測できる。

自分のいない世界を見渡して

 自分がいない世界のことを考えたことがあるだろうか。思考の原点である自分がいない世界というのは現実的ではない。たとえその場面に自分がいなくても、それを考えている自分は確かに存在するはずだからだ。

 でも敢えて別宇宙かそんなものがあって、そこに自分を退避したとして、自分のいない世界をみられたとしたらどうだろう。それがかつて関わりがあったがいまは関係がなくなったとしたならばどうだろう。きっとそれは恐ろしく寂しく切ないものをもたらすに相違ない。

 自分がかつて生きていた世界に、自分はすでになく、そこに存在していたことすら誰も覚えていない。自分なしに日常生活は営まわれ、そこに何の問題もない。本当に自分はかつてその世界にいたのだろうかと疑わしくなる。別世界からの観察を続ける勇気は潰えるかもしれない。

 それでも何らかの事情で懐かしい世界を見続けなくてはならないとしたならばそれはかなり辛いことになる。しばらくしたらこう考えるかもしれない。結局、自分の存在などどれほどの価値があったのだろうかと。これは苦しい結論である。

 ただ、さらに時が経てばこう考えるかもしれない。自分の存在は小さなものであり、自分がいなくなっても世界はびくともしない。ならばやりたいことをやればいいのではと。そういう段階に達する時が遠い未来に来る。

 別世界に移動した私にもその世界で生きていかなくはならない。それがどんなに幸福なものでも、あるいは過酷なものでも、その中でなんとか生きていく必要がある。そのときに元の世界を見て得たことを活かすべきなのだ。

デザインを楽しむ気持ち

 デザインの不思議というものがある。実は全く同じものでも色合いや、ちょっとした装飾があるだけで雰囲気が大きく変わる。例えばいつも使っている手帳に植物の柄のシールを貼っただけで開く回数が増えた気がする。表面的なすこしの変更でも変わるのである。

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 さらに形を変えたり、人が使いやすいような工夫を施したりすることで使い勝手は大きく変わる。このことをもう少し重視すべきだというふうに考えるようになった。

 物事の根本的技術的な改良には経験と時間とが必要だ。これはなかなか一般人が参加しにくい。しかし、出来上がったものを自分の使いやすいようにデザインすることは誰にでもできる。そういう気持ちを持っていればであるが。

 私ができるデザインとしては先程のべた装飾などの付け加える作業や、複数のものを組み合わせること、場合によってはある要素を取り除いて機能を限定してしまうこと。あるものを他のものの中に内蔵してしまうことなどがある。こういうデザインを考えることは日常を楽しく豊かにできる。

 もののデザインのことばかり書いたが、行動の仕方や考え方にもデザインができる要素がある。形はないが敢えてやり方を変えてみることだ。習慣的に行っていることを変えるのにはエネルギーが必要であり、覚悟もいる。デザインを楽しむというマインドがあればそういうことも達成できていく気がする。





常識という思考停止

 言わなくても分かるとは思わない方がいい。世の中はむしろ言っても分からないという場合の方が遥かに多い。自分の価値観が汎用的なものではないことは、よく考えれば当たり前だが、大抵その事実を忘れてしまう。

 日本人は騙されやすいそうだが、他人に騙されるだけではなく、自分を自分で騙してしまうことも多いのではないか。私が思うことは常識であり、他者は必ず同意してくれるはずだ。分からないのは相手が非常識だからだと。そんなふうに考え思考停止に陥る。

 まずは自分の思いは完全には伝わらないことを前提に考えることを確認するべきだ。自分とは異なる価値観を持った他者がいるから世界は面白いのだと考えるべきなのである。常識という思考停止に陥らないようにしたい。これはほとんど自戒である。

芝居じみた表現

 演劇の表現には生活に応用できるものがある。芝居は限られた時間と空間の中で本当はありもしない世界をあたかもそこに存在しているかのように見せるものである。虚構であることを観客も承知しているから、嘘が堂々と演じられる。

 日常生活で舞台上の所作をそのままやるとおかしなことになる。わざとらしい行動は違和感を越えて不快感になる。何ごとも程度なのだが、ある程度は芝居じみた行動をすることが必要なこともある。

 そういうときは今は悪役を演じているときなのだ、と割り切れるといい。演じていると考えられるならば悩む必要はない。あくまで演技なのだから。

 自分という役を演じているという事実が認識できれば思いきってできることは増えるはずだ。

動じなくなった

 歳を取ると些細なことには動揺しなくなる。正確には一々反応できなくなる。そして、何を言われてもすぐに流してしまう。これは利点であり欠点でもある。

 いろいろな失敗を繰り返しているうちに、失敗データベースのようなものができる。過去の経験に照らし合わせ、そのどれかの亜種のように扱う。個々の出来事に向き合っていないのは不誠実だが、そうして過剰な反応をすることを避けている。

 私の目指すことろは別にあると思えば日常の些事にはこだわらなくなる。最低限の勤めを果たせばそれでよい。面従腹背も一度やってしまえば心地よい。

 若い人には私のようにならないようにと言っておきたい。人様に迷惑をかけることは絶対にしないが、やりたいことを妥協しないためにかなり狡猾に立ち回っているのだから。

 私自身は年配の部類になっても遠慮するつもりはない。したたかにやりたいことをやるだけだ。歳を重ねてもこういう変人がいることにはご注意いただきたい。

もしいま若者だったら

 街を歩いているとごく稀に自分の若い頃によく似た人に出会うことがある。もっともそれは私の一方的な思い込みであり、恐らくまったく違うはずだ。ただそこで敢えて妄想を止めずにいるといろいろな想像の枝が伸びてくる。

 もしいま青春時代を送っているとしたら、随分違う人生観に達しているはずだ。昭和の雰囲気とはまるで違う。物事に対する価値観もまったく変わっている。

 私の育った時代は立身出世のためには勉強するしかないと誰もが信じていた。一流大学、一流企業に進むことが成功者の頂点にあり、序列があって、その番外になれば脱落者のように考えた。この法則は今でもある程度は成り立つが必ずしも高学歴が人生の成功と結びつかなくなってしまっている。ある特殊な技能があればブレイクスルーができることが分かってきたのだ。

 ただしそれには才能と努力とが必要だ。単に技能が高いだけではなく、それを続ける胆力のようなものもいる。いまの若者には高い能力がある人は多いが、くじけず目標に向かう精神力というものに欠点があるように思う。そう思うのは昭和の時代を生きてきたからであり、もし今の若者として生きているならば自分を犠牲にして生きることに価値観を見いだせないかもしれない。

 何でもすぐに検索でき、ネット通販で取り寄せられる時代にどっぷりと浸かっていれば、探求する情熱は湧きにくい。できるだけ効率的に、つまり楽をして目的のものを手に入れることばかりを考える。そういうことに何の躊躇もなく毎日を過ごせるのがいまの世代だ。私はまったく馴染めない。

 いま若者だったらどんな人生観を持っているのだろう。こういう妄想は楽しいが、すぐに虚しいものとなる。人生は一度きりであらゆる仮想は無意味なものだから。