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気晴らしのための創作

 高校生からしばらくの間、へたくそな小説を書いていたことがある。いま少しだけ残っているものを読み返すと多くは設定が甘かったり、破綻していたりする。当時はもちろん投稿してみたいと考えたこともあったが、それも本気ではなくほとんどが自分のための憂さ晴らしであった。

 その小説の多くはもし~だったらという内容のものが多い。もし、ある日特殊な能力を身につけたらというモチーフが多いのはおそらく当時似たような小説があったからだろう。その二番もしくは三番煎じなのである。当時の作品の人の顔を限りなく覚えることができたらという内容の小説はそのなかではまだましな方であった。誰もが顔見知りになったら世の中は窮屈かもしれないが、でも悲惨で非人道的な事件は減るのかもしれないという仮定の話である。ただし、それには全人類がこの能力を身につけることが必要で一部の人間の能力なら悲劇にしかならないということを書こうとした。

 いまはなかなか小説は書けない。書いてもショートショートの類である。でも、昔のように気晴らしのために書くのは意味があるのでは思いなおしている。もしできたら、寛容な気持ちがある方に読んでいただくとする。

創作の扉

 私には創作者としての才能はほぼ皆無だが、それでも様々なアイデアが浮かぶときがある。これを逃さなければ作品ができるのではないか。例によってポジティブシンキングの練習である。

 私が学生時代から考えて来たのは現実を少し離れた架空の世界の描写である。もしこうだったらどうなるのか。それを言語化することで現実を考え直すような作品を書いてきた。例えばもし不慮の事故にあいその結果なぜか特殊能力を身に着けたならという仮定は何度もして来た。

 恐らく私の考えるようなことはすでに先行例があり、その中の一部は作品化されている。それを知ると先に発表しておけばよかったなどと無意味な負け惜しみをしたりする。形にしなくては芸術は完成しないのだ。

 馬齢を重ねたが創作者となることの夢は捨てないでおく。それが私にとって生き甲斐になるのなら、妄想は持ち続けるべきなのだ。

起きたら

 朝起きると私は周囲が変化しているのに気付いた。見たこともない花が咲いている庭に鳥が数羽遊んでいる。遠くから横笛の音が聞こえるのは誰が吹いているのだろう。

 しばらくして分かった。ここには以前来たことがある。というより長く暮らしていたところではないか。どうして忘れていたんだろう。今までどうして思い出せなかったんだろう。長い旅をしてようやくたどり着いた気がしている。長い長い旅の果てにようやくたどり着いた場所だ。

 でも、そこには人影はない。先ほどの笛の音もいつの間にか聞こえなくなってしまった。風が吹き、わずかに木々の葉を揺らし、その先の花々も同じように動き続ける。

 そうか。そういうことか。私は納得した。自分のことを考えようとしたとき、それができないことをはじめは気づかなかった。誰なんだお前は。どこにいるんだ。そうした疑問に答えるすべがなかった。

なかったら

 最近、これがなかったらという仮定を頭の中でよく行うようになっている。生活に欠かせないあるものを、もし存在しないとしたらどうなるのかと考えるのである。これは、新しい考え方を引き出す手段になりそうだ。

 実は短い演劇のシナリオを書こうと考えている。やり方はいろいろあるが、いま考えているのは現実から引き算した世界で何が起きるのかをテーマとすることだ。発達や発展は可能性を拡大するが、逆に他の可能性を消してしまうこともある。それを形にしてみせたい。

 普段とは異なることを考えることにはエネルギーがいる。でも、有意義なことだと思う。

脚本家のエネルギー

 ウルトラマンシリーズなどを手掛けた金城哲夫や上原正三の伝記的なエッセイを読み始めた。様々な障害があってもシナリオを書き続けるエネルギーに圧倒される。この熱量を私は忘れていたことに気づいた。何か書きたいという気持ちが高まっている。

同音異義語

 音韻の種類が少ない日本語には数多くの同音異義語がある。漢字で書き分けることで書き言葉の体裁は保たれている。漢字廃止や制限に関する議論はいつでもあるが、この性質上安易な処置は言語の質を損なうことに繋がる。

 この不自由さはときに文芸の利点となることもある。和歌に見られる掛詞や序詞には同音異義語を意図的に活用したものだ。表現の幅を広げることにつながっている。

 同音異義語の言葉が関係する物語を書こうと思っている。文才はないがあくまで楽しみとして。多義語を絡めてもいい。言葉は使いようで可能性が広がる。

短歌

 二十歳の頃から続けているのが短歌である。最初は文語を使って万葉集のような作品を目指していたが、だんだんと口語短歌に移行し身近なつぶやきを述べる器にしていた。Twitterが始まる前からである。

 最近はまた大きな風景を歌う作品に魅力を感じている。画面の大きさもそうだが、事態をメタレベルで捉えることに興味が湧いている。恐らく現実逃避の新しい形態なのだろう。

 俳句はかなり構えて作るが短歌は相当いい加減に作っている。私にとってはカジュアルな表現方法なのだ。このところはソーシャルメディアに書き散らかしているが一度まとめて見たほうがいい気がしている。

分岐と繰り返し

 映画やドラマのモチーフの一つに時間軸の往来がある。過去に遡り、未来に訪ねる。それは決して実現できないことだが仮想することはできる。だから創作の域に入る。もし数年後の自分に合えたらと思うことは多い。あるいは過去に遡ってやり直せたらと思うこともある。それは人間としての性なのだろう。

 量子力学の世界では世界は限りなく分岐して様々な平行世界が存在する可能性があるという。それが事実なのかどうかは確認ができない。確証がないということは存在しないということではない。だからその可能性を信じていろいろな空想が生まれる余地があるのだ。

 さらに創作のモチーフとして時間の繰り返しがある。リピートする時間の中で人は運命に逆らえず同じことを繰り返す。何度やっても同じ結末になる。その切なさをテーマにして作品は進行していく。分岐や繰り返しは時間の概念を乗り越えられる創作の特権だ。

 実際は時間の流れに抗うことができない。その性への抵抗が創作の魅力になっているのだろう。

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朗読劇

 密を避けることが義務づけられつつある社会情勢の中で、演劇は公演が制限されている。小劇場での感染も報告されており、厳しい状況が続いているのだ。その中で妥協点として考えられるのが朗読劇ではないか。

 向かいあわず接近しない。演劇の大半の要素を切り捨てた朗読劇は、それ自体で味わいがあるものだ。ただし、物足りなさが伴うのも事実である。いま、制約が設けられた状況にあってその欠乏感までもが効果的な表現方法になる可能性が出てきた。

 ソーシャルディスタンスなどという言い方もあるが、要するに触れあえない悲しみ、もどかしさを伴う状況にあるわけである。それが果たせないやるせなさを朗読劇の方法で表現できるかもしれない。

 久しぶりに脚本を書いてみようかという思いになっている。創作にはある意味こうした現状打破のエネルギーが必要なのかもしれない。

組み合わせ

 新しいものを作り出すことは容易ではありません。ゼロから作ったという表現には明らかな誇張があります。創造神でもない限り無から有を生み出すことは不可能です。

 私たちが新しいものと感じているのは大抵の場合、既存のものの組み合わせです。今までにない取り合わせ、意外な連係が新しいものとして現れるのでしょう。私たちはもっとミックスとかブレンドとかに興味を持つべきなのです。

 これは有形物のみならず、無形の概念、社会の仕組みなどにも共通します。新しい何かを考えるときには現状の分析と大胆な組み合わせとが肝要なのです。