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弱みなのか

 困った人がいたら手を差し伸べたくなるのは人間の弱みなのか。考えてみるといろいろな答えが見つかります。

 自分の周囲に何らかの問題を抱えている人がいると認識した場合、私たちにはなんとかしてあげたいという気持ちが起きることがあります。多くの場合、その気持ちを実行できず、できなかったことに様々な理由をつけます。ただ惻隠の情が起きること自体に意味があるのではないでしょうか。なぜそのような感情が立ち上がるのか。

 識者の説明でこれは人間の歴史と関係するという言説に触れたことがあります。集団で生き残る選択をした人類にとっては集団の維持が死活問題であり、その記憶がいまも作用するのだとか。証明不可能な意見ですが確かにそういう面もありそうです。

 一方で自己本位で利益を独占しようとする営みを私たちはし続けているのも確かです。歴史で学ぶ社会変化の主要因は富や権力の集中が影響しています。利己的な動機が格差を生み出し、混乱のもとになっています。

 相反する言動を繰り返しながら私たちは生きているのかもしれません。緊急事態では同情心が発動し、平時は利己的になることを考えるに、私たちは集団の生き物という意識を忘れたときに自己中心的になるといえるのかもしれません。これは人の弱みなのか。それとも強さなのか。考えていきたいです。

みんなで作る

 個人の幸福が尊重され過ぎた代償として私たちは公共の福祉についての価値を下げてしまいました。社会が縮小化するいま、改めて共同体の幸福を考え直す必要があります。

 個々人が幸福を追求することは現代社会の常識であり、条件でもあります。個人の幸福が保証されているからこそ、私たちは安心でき、明日を生きる活力が得られます。ただ、さまざまな閉塞感が漂う昨今の情勢においては、個人の利益追求だけでは立ちゆかなくなっていることも事実です。一人ではできない段階に入っています。

 誰かが成功してもそのために多数が不幸になるという悲しい現実も情報化社会にあってはすぐに顕在化します。それが環境問題など地球規模で影響を与えるものとなると一層深刻です。誰か一人が幸せになるということが難しいのです。

 このような現況にあって必要なのは人間が集団の生物であるという再認識です。一人では生きられない人間は幸福の基準を個ではなく集団に置くべきなのです。そしてその集団が成り立つためにはより大きな環境が保全されなくてはならない。そうした基本に立ち帰ることが不可欠なのでしょう。

 人のために何かをする尊さを先人は語り続けてきました。この話はそれを別の表現で述べているのに過ぎません。まずは自分の近くにいる人を幸福にするために何ができるのかを考えていくべきなのです。未来はみんなで作るものなのです。

起動

 自分のすることが誰かのためになると感じたとき、私たちはなにかしらの幸福感を覚えるようです。逆にいえば自分のために何かをするという考え方は内的な動機づけの要因としては物足りないということなのでしょう。

 ならば人をやる気にさせるためにはこの点を踏まえなくてはならないということになります。あなたの努力は将来のあなた自身のために必要なことなのだという助言はもっともな響きを持ちながら、実はあまり有効性は少ない。あなたのしていることが誰かのためになるのだという示唆がやる気へと繋がる可能性が高いということになります。

 人のためになるという言葉自体はよく聞くものであり、耳に心地よい響きをもっています。しかし、具体的にどのような役に立っているのかが示されなくては心象を結ぶことができません。恐らくよき助言者はそれを実践しているのでしょう。

 実際は他人のためになる行いだと実感できることはそれほど多くはない。年齢が上がるほど自他の行動を相互の利害関係という文脈で捉えてしまいがちです。金銭に換算してしまうこともある。だからこそときに利他的な考えに気づかせてくれるきっかけがいるのでしょう。

 この歳になってもさしたる業績もなく、恐らく何も残せない己を恥じ入りますが、せめて他人にやる気を起こさせる存在にはなりたいと考えています。

マイウェイ

 その人にはその人のやり方がある。その方法を極めることで達成できるなにかがあるということを時々考えます。

 英語ではwayにやり方、手段という意味もあるようです。日本語の道にも人生の意味を絡ませることがあり、道は人それぞれ異なるなどとたとえる表現があります。それぞれ違うはずなのにあたかも決まった幹線道路があり、そこを歩くのが正しいのかのように考えてしまうのはなぜなのでしょうか。

 他人を思いやる気持ちを捨てない限り、色々なやり方があっていい。それが結果的に他の人にもなることさえある。そんなことを考え始めています。

人のため

 最近読んだ本によれば人が幸せを感じるのは自分の存在が誰かのためになっていると自認できることにあるといいます。人から認められるのではなく、自分でそう思えることが大切だというのです。

 自分のやることが誰かのためになるという実感がなかなか持ちにくくなっているのが現代社会です。自分のために何かをやるという考えは蔓延していて、誰かのためにする行動も、結局自分に還元される何かとして認識されて初めて意味を持つように考えられています。自己承認という欲望がその奥にあり、認めてもらうために何かをするということになります。

 競争社会にあって他人に先んじることを教育されてきた私たちにとって、無償の行動で人のために働くということは根本的な考え方の変革が必要になることです。災害被災地への救援活動のような場合ではそれが素直に実行されやすくなる。ただ、そのために自分の行動を他に誇り、何かに利用しようとした段階で変質が起こってしまいます。

 人のために行動し、人が喜ぶことを自らの喜びとするという体験を私たちはもっと積まなくてはならない。それがこの閉塞感漂う社会を変えていく原動力になるはずです。