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反実仮想の思考法

最近よく聞く言葉に「世界線」がある。文脈上は別世界の意味があるパラレルワールドのようなものがあることを想定し、もし今いる世界とは別の世界に生きていたとしたらという考え方らしい。実際には起こり得ないが仮に想定してみるという思考法である。

The another world

性質は全く異なるが伝統的な他界観である来世と少し似た発想だ。来世が時間的には縦に繋がるのに対し、パラレルワールドは横にある。その違いはあるのだが、現世との繋がりの中で異世界の存在を想定するのは同じことだ。

世界線を移動することができない以上、異世界の存在はなんらかの救いとなるわけではないように思える。今味わっている苦難は別世界では大きな恩恵になっているのかもしれない。でもその別世界には移動できない。

世界線という考え方を一種のメタ認知と考えることもできる。現状を見渡し、敢えてそれに捉われずに自由に発想する。そこから得られる慰めと現実の受け入れ、そして場合によっては現状打破の端緒の発見がこの考えの魅力だ。そうならば別の世界線を夢想することには意味があることになる。

身体で覚える

 昔覚えた歌謡曲やアニメの主題歌の歌詞をいまでも忘れないのはなぜなのか。先日、ラジオから私が中学生の頃に流行った曲が流れた。その歌詞をほぼ完璧に思い出し口ずさむことができたことに自分で驚いてしまった。最近はいろいろなことを忘れて困っている。特に人の名前が出てこないときにはいろいろ気を遣う。そんな状態なのにどうして昔の歌の歌詞を覚えているのか。

 演劇において役者が長いセリフを覚えるのはなぜなのか。ミュージシャンが暗譜をして演奏できるのはなぜか。これらも気になっている。おそらく練習した回数が関係しているのではないかということは間違いなかろう。なんども練習しているうちに身体が覚えるのではないか。

 身体で覚えるということをもう少し考えてみる。これは言葉を発音の連続として覚えるのではなく、意味として把握し、なおかつ周囲の状況と重ね合わせてとらえていることを意味する。役者がセリフを覚えられるのは、その場面の状況や相手の役者のリアクションなどを一緒に覚えることによって成り立っているのだろう。役者の身振り、照明の色、舞台の雰囲気、そういったものも覚えているはずだ。人間の記憶の仕方は状況を覚えることにあり、記号の蓄積だけではうまくいかないようだ。この点はコンピュータとはちがう。

 ならば、教育の場面において生徒の学習効率を上げるには、ある知識に対するエピソードを考えさせ、ほかの知識との関連性を意識させることにあるといえる。最終的には各自が構築しなくてはならないとしても、まずはきっかけを与えることが大切なのだ。「うつくし」がかわいいという意味だというこことを一対一の対応で学ぶのではなく、自分がかわいいと思う状況を想起させて、その場で「うつくし」というセリフをいうような場面を想起されば記憶は定着しやすい。

 昔の歌の歌詞を覚えているのは、その歌にまつわる様々な思い出が 周囲に取り巻いているからで、歌うたびにそれが想起されるからなのだろう。単なる言葉の羅列ではない何かを感じたとき、記憶は堅固なものになるらしい。

立ち回る

 うまく立ち回る人を目の当たりにしたとき、尊敬するときと軽蔑するときがある。すでに立ち回るという日本語には幾分の批判精神が含まれている。だから、私の立場も自ずと知れてしまう。

 いわゆるコンピテンシーについて述べようとすると、どうしても羨望もしくは嫉妬の気持ちが見え隠れしてしまう。気質に比べてコンピテンシーには後天的要素があるとされるが、それでも生まれつきの側面の方が大きく作用するように思えてならない。立ち回る力はなかなか鍛えることが難しい。

 私のように年季がいったものは特にそうだが、要領よくやれと言われてもやれるようにしかできない。何でできないのかとき言われても説明不可能だ。できないからできないというしかない。

 無駄な抵抗をさせていただけるならば、それでも私のやり方はありではないかと言いたいのだ。不器用な人にしか見えない風景を見ることができることは、世の中全体の福祉としては益となるはずだ。負け惜しみ的な言い訳だが。

 ならば、私の立ち回り方は、できない人間が見ている風景を皆さんにお伝えして、できる人の暴走を抑えることにあるのかも知れない。貴方の見ていない世界がある。そんなに世界は単純ではありませんよと、余計なおせっかいを言うことが、私の役目なのかもしれない。

短期決戦という戦略

 短期決戦が今の自分の戦略だ。長期的な戦略を立てても実践できる保証はない。ならば短く刻むしかないのだ。

 衰退していく脳の機能を補うのは情報技術が容易に達成してくれる。人間から見れば無限の記憶力である。これを使えば少々の劣化はカバーできる。大切なのはそれを活かすためのひらめきなのだが、これだけは自分の脳の活力に期待するしかない。

 短期決戦でもやるべきことをやり、積み重ねることで大業は成し遂げられるかもしれない。私には私の戦い方がある。それを信じてやるしかない。

見えない違い

 恐らく目に見える違いはごく一部のことなのだろう。表面的な違いに圧倒されることは多いが、その内面はさほど違わなかったりする。他を威圧しようとするものは、その僅かな違いを誇張して見せるのであろう。

 だから、本当の差異を見抜くことは容易ではない。見た目に踊らされることなく、本質を見なければならないのである。  

取引というけれど

 アメリカ大統領の言動のために取引ということばが最近の流行言葉になっている。取引というと聞こえがいいが昨今の状況を見ると、対等な立場にある相手との取引は少ない。有利な立場を築いた上で、相手に無理難題を吹っ掛けるのが取引なようだ。しかし、このような意味は本来の取引の意味とは異なっているような気がする。

 一見公平に見えて実は全くの不公平という話はいくらでもある。特に優位な立場の者が仕掛ける似非公平主義は巧妙で露見しにくい。さらに、この不平等に異議を唱えると、まるで我儘を通しているかのように攻撃してくるのだから厄介だ。ルールという不公平を巧妙に作り出し、自身の利益を保とうとする。これは残念ながら国際的な常識のようなものになっている。

 おかしいものはおかしいと言える態度は保ちたい。しかし、それも今は難しい。交通事故を起こしたら、自分が悪くても決してそれを認めてはいけないというのはよく聞く。それと同じだ。ただ、これは日本人の通念とは乖離している。

 高度成長期には勝つことを最優先課題とし、相手を傷つけることも厭わないのが美徳とされた。しかし、いま弱者の悲哀を知ってしまった以上、取引に限りない疑問点を持ってしまう。

酒を飲まずに大丈夫か

 最近の学生は酒を飲まないようだ。私のように学生時代はキャンパスの周辺の居酒屋で飲みまくっていた者にとっては不思議にさえ思う。酒を飲んでも醜態をさらすだけで、身体的にも負担が大きく、いいことなどないと考えるのだそうだ。我々の世代からすれば、正論を語っても野暮に見えるだけだ。

 酒を飲むことによる高揚感はそれなりに意味があるはずだ。日常の困難に対応するための本能的な逃避術ということもできる。ただ、これには幾つもの分かれ道があって、単なる憂さ晴らしならばやはり飲まない方がいい。少なくとも他人を巻き込むべきではない。

 飲み会のあとには何も生まれないという人もいるが、そうでもない。ある人の別の一面を知って、理解が深まることもあるし、生活上、仕事上のヒントをもらえることも多い。素面では話してくれない仕事のコツなどを私はその場で相当教えていただいた。覚醒した後、それをいつの間にか自分のものにしていることもしばしばあった。

 ただ、それには飲んでも翌日働ける体力がいる。私はその自信がないので最近はすべてのお誘いを断っている。でも、若者にはときには酒席に臨んでほしいと思う。飲みすぎなければ得られることは多い。

初めてのことのように

 細かいことを気にするなという言葉がある。確かにそれは処世訓としては的を射ている。ただ歳を重ねるとその金言は時に害悪になる。細かいことを気にするべきだろう。

 小異を捨てて大同につけというのは大抵の場合正解だ。些細な違いに気を取られて本質を失うのは愚かである。でも高齢者にとってはこの言葉は毒にもなる。歳を重ねると物事の分節化がかなり概括的になる。過去の経験知からこれはこのようなものだろうと決めつけてしまう。おおよそそれは間違いではないから、ますますその傾向は強くなる。でもよく考えみよう。同じことは二度と起こらない。そしてたとえ似ていたとしても背景の要素がまるで変わっている。

 だから、私の最近の金言はこれまであったことを初めてと考えよということだ。私のいまの経験を大切にして過去の経験知を敢えて後ろに回せということなのである。これには相当のかっこ悪さがある。でも、要領よく無難に切り抜ける代わりに何も得られないよりは、失敗があってもリアルタイムに現状と向き合える方がよほどましなように思えるのだ。

 おそらく、こんなことを言ったら、それは余裕がある者の意見であり、本当に困窮したらそんなことを言っている暇などないと一喝されそうだ。その点には異論はない。ただ、何もせずに暮らすよりは、何かをした方がいいのかもしれないいう形に人生を捉え直したい。真新しい明日を生きるために。

図鑑をみていたころ

 子供の頃、図鑑を見るのが好きだった。特に昆虫や鳥類、気象、地学、天文の分野は好きで図鑑は文字通り穴が開くほど読んだ。深い意味は理解できなかったが。私が子どもだったころは高度経済成長期であり、科学技術がすべてを解決するという風潮があった。それとともに、さまざまな公害が発生し多くの悲劇を生んだ時代だ。

 知識が世の中をよくすると単純に信じられたのが私の子ども時代だ。それが多くの矛盾に直面して考え方を変えざるを得ない局面があった。ただそれがいまは通じない。人工知能に代表される高度なテクノロジー白旗を揚げて恥じない人が多数になってしまったのだ。

 図鑑をみていた頃の自分は世界の現状をひたすら受け入れ、その意味を丸暗記しようとしていた。それは大切なことなのだろうがその段階では現状への批判精神は生まれない。それができるのはもう少し上の年齢なのだろう。

 考えてみれば、今の私の知識の分類方法は子どもの頃にお世話になった図鑑の方法と似ている。意味の分節の仕方は実は幼年期に基礎学習を済ませていた。それは人生における思考活動の物差しを得たということである。その意味で幼年期の読書は意味が大きいと言える。

 謙虚な気持ちを忘れてはならない。ただ、いわゆる盲従にならないようにしなければなるまい。世界を測る物差しは時代ごとに変わる。自分が見ている風景が、支配する階層が変わればまた全く違うものになる。図鑑を見て喜んでいた時代から少し成長した者が考えることである。

役に立ちたい

 少しでも誰かの役に立ちたいという気持ちは多くの人が持っているはずだ。自己の利益に繋がればもっといいが、そうでなくとも構わない。何らかの利益が他人にもたらされば嬉しいという意識は恐らく多くの人が持つではないだろうか。

 これを偽善と呼ぶ人もいる。ただ、偽善もときには役に立つということなのだ。私たちは自分のために何かをすることを日々行っている。自分の幸福追求のために行動することに疑問はない。ただ、それが他人の利益と交錯するときにには躊躇いや滞りが生まれる。自分が利益を得ることは嬉しいが、そのために他人が不幸になることを自覚すると素直に喜べなくなる。

 そのために自己が他者に及ぼす影響について考えないという思考停止の習慣がついている。人のことを気にしないという方法である。この方法で日々を乗り越えたとしても、いつかは矛盾を感じてしまう。他者の窮状を知ると動けなくなる人は多い。私たちは一人だけ幸せになるということを良しとしない傾向がある。

 他者の役に立つことは言うほどたやすいものではない。人のためになると思うものでもかえって害となることも多い。ただ、どこかで誰かの役に立ちたいと考えるのは人類の進化の過程で刷り込まれたものであると考える。