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ボイスフィッシング

 昨朝のニュースでボイスフィッシングという言葉を知った。電話の自動音声機能の悪用らしい。恐らくどこからか入手した電話番号のリスト、もしくは無作為に生成した番号に勝手に電話をかけ、相手に声による詐欺を行う。例えば使用中の銀行口座がこのままだと閉鎖されるから、認証作業を行ってほしい。ついてはこの番号に電話してオペレーターと話してほしいと言うのだ。偽オペレーターは相手の口座番号やパスワードを巧みに聞き出し、口座の金を勝手に引き出すのだという。オレオレ詐欺はまだ自分の声で行っていたが、もはや機械の声で人を騙す段階にある。

 報道によればもっと手の込んだ詐欺もあるという。社長なり上司なりの声を合成して、それらしいメッセージを送って相手を騙すのだという。知っている声で頼まれたらもう騙されない方が難しい。スーパーオレオレ詐欺である。人を騙すことで利益を得ようとする悪事は昔からあるが、それに対抗するためには防衛力を高めなくてはならない。ニュースのアナウンサーのコメントによれば相手の提示した連絡先に直接返信しないことが肝要なのだという。面倒だが発信源を自分で調べて、そこに連絡して確認するのが良いのだとか。まったく人を信用するなといっているような嫌な話だ。悪意のある人がこの世に存在している以上はこの面倒な手続きは欠かせない。

 実は私の携帯電話にもこの類と考えられるメッセージが定期的に届く。私は知り合い以外の電話は基本的に受信しない。iPhoneには留守番電話を文字起こししてくれる機能があるのでそれで内容を判断している。そもそも資産など何もない私に口座が何のと持ちかけてくることが無駄な努力であり、私にとっては馬鹿にされているかのように感じて不快でならない。読者の皆さんにおかれては金蔵をだまし取られないようにしていただきたい。

OS更新

 iPhoneの基本ソフトが大幅に変更されたということで更新を迫る知らせがしばしば来るようになった。私の使っている機種はぎりぎり更新対象ということだが、スペック的には更新すると動きが遅くなる可能性がある。そんな報告がネット上にいくつも上がっていて躊躇する。それ以前にメモリが少ない機種なのでアップデートに必要な作業メモリが確保できない。いろいろ消して更新して使い勝手が良くなることが保証されないのだから、更新する価値は今のところない。

 それなら買い替えをと思ってショッピングサイトを見ると驚くべき価格だ。パソコンの方がよほど安い。もちろん様々な高性能な機能があるのだから、それだけの価値があるということなのだろう。いまや定期券からファイナンスツールとしてもフル活用しているため、スマホのない生活に戻るのは難しい。OSが更新されて機能が進歩していくのはよいが、なるべくハードに依存しない更新を目指していただきたい。などと詮無きことを思うのである。

スマホの写真

 スマホで写真を撮ると最近はアプリがいろいろな提案をしてくる。露光を変えるとか背景とのコントラストをつけるとか、あるいは一部を動画のように動かしたりとかいろいろある。また時系列順に並べて見せたりとか、同じような構図の写真を並べてコラージュしたりもする。

 映像をパターンとして認識して分類したり合成したりするのは、人工知能の得意とする分野のようだ。便利であり、ときには楽しく使っている。

 ただ、写真を見る人の気持ちまでは推測できないらしく、過去の自分と今の自分を並べた写真を見て何を思うのかは分からないようだ。10年余りでここまで変わり果てるのか、そういう思いはコンピュータには理解してもらえないのかもしれない。

検索の意味

ネット社会になって大きく変わったのは大量の情報の中から超高速で検索ができることだ。私が学生の頃は索引という本があればそれに頼り、なければカードを使って自分で索引を作った。それも一冊の本なら何とかできたが、本棚全部の検索となると諦めなくてはならなかった。恐らくいまの世代の人に話したら笑われるだけだろうが、ある言葉の用例を探すために本棚いっぱいの本を何日もかけて探し続けるというのが学生生活の大半を占めた。

何でも検索で分かる?

 いまはデータベースさえあればその労苦はない。さらに最近は人工知能が検索の先のことまで提案してくれる。検索した結果を表やグラフにしたり、そこから読み取れる内容を提案してくれる。学生時代に何ヶ月もかけてやったことが、1分足らずでできてしまう。

 ただ、これで万能になったわけではない。人工知能は尋ねたことに対して極めて上等な返答をするが、何を問題点として何を考察するのかという道筋に対しては示さない。特に常識から外れる思考については元から除外しているようで、突飛な発想ということに関しては役に立たない。

 検索した情報をどのように組み合わせるのか、何を応用して何を除外するのか。そういうことは人間の判断に任されている。

新機軸

 知識は学習の蓄積からなる。それは疑いようもない事実だ。この点に関しては人工知能が人間の先に行きつつある。これまで人工知能に対して未熟であると否定的に捉えてきたが、この方面では考えを改めなくてはならないと考え始めている。

 今日Microsoftのコパイロットと連句を巻いてみた。式目に沿って付句をしてくるのを見て、少なからず驚いた。確かに感情はないが、過去の多くの人たちがどのように反応するのかという傾向は瞬時に分析し、即座に言葉に変換してくるので文学を理解しているかのように振る舞ってくるのだ。現代人の類型的な思考回路などすぐに克服してしまう可能性が高い。

 ならばこれから人間がやることは何か。思うにこれまでにない考え方を敢えて試してみるという勇気を出すことであろう。しかし、こうしたやり方はこれまでの社会通念とは乖離している。なるべく失敗しないように、過去の成功例を参考にしてそこから逸脱しないことが、いわゆる必勝法と信じられているからである。

 私のように教育の現場に長く暮らしたものとしては、いわゆる「常識」を完全に習得し、そこから大きく逸脱しないようにさせることが人間形成の基本と考えてきた。突飛な考え方は矯めるべきものであり、それが本人のためになると信じてきた。

 でもどうだろう、過去の蓄積だけでいまを考えて行くことは人工知能に凌駕されてしまった。必要なのは学習の果てに起きる飛躍だ。その振れ幅をこそ大切にすべきなのである。いまの我が国の社会にこうした考え方を持つ人は少数派だ。かくいう私も言うは易し、されど本当にそんな場面を見れば、ついそれは違うと口出ししてしまうかもしれない。

 もしかしたら奇妙な考え方、奇怪な行動が真実なのかもしれないという寛大な見方が必要なのだろう。そのためには過去の知識の価値を認めながらも、後生の示した新機軸も認める必要がある。多様な方法のうち、本当に通用するものが生き残り、それが時代を進める。その可能性を高齢世代が奪ってはならないのだ。

 最近の若いものは、と言うのが非難の言葉だけにならないようになればいい。青二才がこんなふうにやってみたぞと言えば、それもありかもなとするのか、はなから否定するのかでは未来は大きく変わる。

人工知能は自分か他人か

 人工知能の日進月歩の発展の末、私たちは自分の脳と人工知能の連携を模索するかもしれないという。具体的には自分が思いついたことを人工知能に考えさせ、そのフィードバックをそのまま自分の考えとするというのものだ。何か疑問が浮かんだとき、人間は自分の脳と直結する人工知能を呼び出し結論を模索させる。結果はすぐさま自分の脳に戻されるから、あたかも自分が考えたこととして処理されるのである。

 人工知能のキットが小型化し、動力の問題も解決されたとしたら、それを体内に埋め込む時代が来るのかもしれない。するともはや人工知能が自分なのかどうか分からなくなる。人工知能の判断はその人のものということになる。

 ハルシネーションがどこまで解決されていくのかは分からない。仮に体内に埋め込まれた人工知能の指示に従って行動したことで大きな損害が発生してしまった場合、その責任は誤った情報を提供した人工知能にあるのだろうか。その指示を鵜呑みにした使用者本人にあるのだろうか。

 逆に人工知能の誘導のおかげで莫大な利益が出たとき、その開発者は分け前をもらう権利はあるのだろうか。あるいはそういう条件をつけて販売することは可能なのだろうか。

 アイデンティティと深く関係する脳の働きであるからこそ、その補助機能にも個の問題が付き纏うのである。

フロッピーディスク

 職場の同僚にフロッピーディスクの存在を知らない者が増えてきた。それは何ですかと言われる方がまだいい。ネットの動画で見ましたとか、親が話しているのを聞いたことがありますなどと言われると、あなたは昔の人ですねと言われているのと同じように聞こえる。

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 最初に買ったコンピューターはフロッピーディスクなしには起動さえしなかった。しかも途中でディスクを入れ替えてようやく起動したのだった。その後、外付けハードディスクなるものが誕生してスイッチを入れれば起動し、入力画面までたどり着けるようになった。その時は実に驚いたものだ。今は蓋を開ければ起動するといっても過言ではないほどだ。

 フロッピーディスクの容量は1メガ程度であり、解像度の高い写真が数枚入るほどしかない。私が使っていたころはほとんどがテキストの情報であり、この小さな容量でも何とかなったのだ。私は万葉集の検索用のデータを打ち込んでは試していた。そんなものはより優秀な研究者による商用版にたちまちのうちに乗り越えられてしまったのだが。

 フロッピーディスクとは何ですか、という問いは私の世代でいえば蓄音機とは何かというのにもう近くなっている。資料では見たことがあるが使ったことはない、そんなものが世代ごとにあり、そのサイクルはどんどん短くなっている。今はAIが世の中を変えようとしているが、しばらくたてばAIって何ですか、ああ、むかしパソコンとかいうものに文字や音声で質問していたというものですね。いまは脳に内蔵しているものですけれどね、などと言われることになりそうだ。

コンピュータ読み上げの影響

 コンピュータによるテキストの読み上げの技能は年々向上している。すでに人間との判別が難しい域まで発達したものもあり、感心してしまう。

 ただ、詳細についてはいろいろな問題点がある。漢字の読みを間違えて読む場合はもっとも分かりやすい。最近動画サイトにこの間違い読み上げが非常に多いのだが果たして情報発信者はそれが間違っていることを知っているのだろうか。

 アクセントの問題になるとよりあやしくなる。例えば地名の場合本当のアクセントはどうなのかは、非常に分かりにくい。有名なの静岡県の磐田市だ。地元の読み方を関東地方のほとんどの人は間違っている。

 これを機械に読ませるとより複雑な事態になる。現地の読み方と東京人の読み方に加えて機械の読み方が並立するからである。何を基準とすべきなのか。もう何も分からない。

 コンピュータはAIなどの操作を通して、万能と考えられている。しかし、法則に則ったやり方は意味や習慣の問題を軽視しがちだ。読み上げという作業にそれが表れるのは象徴的である。

食洗機のし残したもの

ファミリーレストランに行くと、価格の安さには驚くとともに企業努力には感心するが、やはり一言言いたくなることもある。恐らく機械で洗浄したものをそのまま客にだす食器類にはよく見ると細かい洗い残しがある。衛生基準的にはクリアしていてもやはり気になりだすとどうしようもない。自分で拭いて使えるようにしている。

 恐らく将来のこの国の姿はもっとこうした傾向が強くなっていくはずだ。おもてなしの国といっても何がおもてなしなのか分からなくなり、機械に頼って省力化して効率化を上げれば成功だとされる。客側の基準も下がり、職人技的な接客は超高級店のみのものとなり、多少の無作法は容認されるようになるのだろう。

 そうならないようになる道はある。人工知能がより高度化されるといわゆる文系的人材はもちろん、理系的な人材の多くが不要になる。彼らが就くのは機械では実現できない人間的な仕事だ。細かな顧客のニーズに対応して、ケースバイケースの対応をするサービス業務が辛うじて生き残る。いまは外国人労働者に委ねている労働の多くも、将来の日本人の働き場所となる。そのためには待遇改善が欠かせない。職人技に対する評価がこれまで以上に高まる時代がくるはずだ。

 逆にいまは高給取りの職の多くが人工知能などに代替される。汗をかかなければ収入が期待できない時代がこの後すぐに出来しそうである。農家や芸術的な工芸職人がエリートになる時代になるのかもしれない。

 恐らくそういう時代に私はもう生きていない。ただ、いまの常識がいつまでも続くとは思わない方がいいとは後輩に伝えたい。

AIに悩み相談してみた

 人工知能に悩みを相談すると必ず前向きの助言を返してくる。プログラムには相談相手を絶望の淵に沈めてしまえという選択はないようだ。ただ、そういう回答にはときにしらじらしさを感じてしまうのも事実だ。

 その背景にはどうせ人工知能にはこの苦しみを理解できない。過去の相談の履歴やネット上に残る類似の相談例の回答を組み合わせているのに過ぎないと思うからだ。恐らくこれは事実であり、人工知能にとっては相談者の悩みは他の検索と変わらないデータの一つに過ぎないはずだ。

 感嘆符付きで激励されるとそれでも嬉しいのは確かだ。実際にそれを人間に近い発音とイントネーションで読み上げ、ホログラムと連動したら、もっと説得力が増すかもしれない。相手に感情がなくても、こちら側がそれらのデジタル現象を有情なるものとみなすことは人間の能力の範囲にある。

 でも人工知能がたとえ特異点を超えたとしても、心の問題は残るのかもしれない。それこそが人間の存在意義の最後の砦になりそうだ。