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検索の意味

ネット社会になって大きく変わったのは大量の情報の中から超高速で検索ができることだ。私が学生の頃は索引という本があればそれに頼り、なければカードを使って自分で索引を作った。それも一冊の本なら何とかできたが、本棚全部の検索となると諦めなくてはならなかった。恐らくいまの世代の人に話したら笑われるだけだろうが、ある言葉の用例を探すために本棚いっぱいの本を何日もかけて探し続けるというのが学生生活の大半を占めた。

何でも検索で分かる?

 いまはデータベースさえあればその労苦はない。さらに最近は人工知能が検索の先のことまで提案してくれる。検索した結果を表やグラフにしたり、そこから読み取れる内容を提案してくれる。学生時代に何ヶ月もかけてやったことが、1分足らずでできてしまう。

 ただ、これで万能になったわけではない。人工知能は尋ねたことに対して極めて上等な返答をするが、何を問題点として何を考察するのかという道筋に対しては示さない。特に常識から外れる思考については元から除外しているようで、突飛な発想ということに関しては役に立たない。

 検索した情報をどのように組み合わせるのか、何を応用して何を除外するのか。そういうことは人間の判断に任されている。

SNS年齢制限は妥当だが

 オーストラリアの上下両院で16歳未満のソーシャルメディアの使用を制限する法案が可決された。国民からの支持も強いらしい。ソーシャルメディアに流れる情報は玉石混交であり、個人や団体への根拠薄弱な誹謗中傷も日常的に出ている。加えてAIを使ったフェイク画像、動画も多く、いわゆるメディアリテラシーがなければ虚偽の情報に翻弄されてしまう。

 オーストラリアはインターネットが非常に普及しており、若年層がソーシャルメディアの閲覧をきっかけに犯行に及んだり、自殺したりするケースが多いのだという。情報によって追い詰められた人の行動が悲惨な結末に至るのはどの国も同じようだ。

 若年層が被害に合いやすい現状では制限をかけるのも仕方がない。無法地帯に踏み込む準備ができるまでの猶予だ。ただ、これは年齢だけが解決するものではない。いくつになっても条件はあまり変わらない。SNSで繰り広げられるはかない嘘話に精神を吸い取られている人は年齢に関わらず多い。

 情報を規制されるのは大いに問題があるが、ときには自らメディアとの距離をとるのもいいのかもしれない。

悪評の裏側

 商品やサービスに対する評価コメントを見ることができるのは、インターネットサービスの利点の一つだ。新しく買うものに対しては情報がほしい。当事者の説明が一番だが、誇大表現や虚偽が含まれていないとは限らない。利用者の感想を読むことができるのは有益だ。

 ところがこのコメント自体がかなり怪しいこともある。必要以上に賛美したり、逆に根拠もないのに否定的な見解を書き込んだものもある。ある商品のレビューの記事があまりにも多く、大半が高評価なので、注意深く読んでみると明らかに作為的で、中には別の商品のことに違いないものも含まれていた。また、ネガティブなものも定型があり、コピーしていると考えられた。

 グーグルマップのコメントが事実無根で営業妨害、名誉毀損に相当するとして病院の医師等が、グーグルに対して訴えを起こした。虚偽情報を放置している運営会社にも責任があるという訴えだ。どのような判決が出るのか注目したい。

 こうしたデマや嘘の情報のことが話題になるたびに人間の情報処理能力の限界を感じる。野生の時代、情報を正確に把握することは死活問題だったはずだ。いまはこの頃に比べて情報収集の力は格段に上がった。しかし、それを判断、処理する能力はさほど上がっていないということなのであろう。

監視するだけではなく

 久しぶりにTwitterにアクセスしてみた。もっともいまはXというそうでそっけないロゴになった。最近のニュースではいわゆるブロック機能をなくすという発表があったようだ。したことも(たぶん)されたこともないので私には縁がないが、誹謗中傷から身を守る手段の一つのようでそれをなくすことには疑問を感じる。

 そのXの通知をみると、不道徳とか暴力的だというコメントとともに、該当する行為をしている動画が添付されていた。なんの加工もされておらず、個人の特定ができそうだ。確かに悪質なものもあり、許しがたく感じられるものもある。ただそれを不特定多数の人に拡散していいのだろうか。あるいは投稿者の思い込みの可能性や、悪意のある加工の果てではないのかなどと考えてしまう。告発する側は匿名であるのも不公平だ。

 ソーシャルメディアが監視のために使われている。あのパノプティコンの例えを想起されるのだ。個々の正義は保たれるように見えて実は社会をどんどん息苦しくしている。公衆道徳を高める方法は告発だけではないはずだ。

ソーシャルメディアという形容矛盾

 Twitterの方針転換に関しては何度か問題になってきた。トランプ前大統領のツイートを排除するかしないか、リツートの回数を制限するとか、そういうことが最近話題になっている。

 恐らく、TwitterにしてもFacebookにしてもそれを提供する企業の事情でこれまでも強制的に方針が変更されてきた。これからもそういうことが繰り返されるはずだ。ソーシャルメディアは日本ではソーシャル・ネットワーク・システムなどと言われてるが、いずれにしても実はソーシャルではなく一企業の商品に過ぎない。ただその上に、政治家も企業も乗っかっていくのであたかも公器のようなふりをしているだけだ。

 これに頼りすぎるのは危険だし、そもそも公のものではないことを知るべきなのだ。そうでないと一部の企業経営者の思惑に踊らさることになる。ただで使わせてくれる利点だけを活用して、活用されないようにすることが市民の心得ということになるだろう。

画像生成

 AIによる画像生成については以前も書いたことがある。最近知ったことだがマイクロソフトのEdgeというブラウザには画像生成の拡張機能が盛り込まれており、簡単に使える。試してみたところ期待していたものとは程遠いものの、プログラミングや何らかのサインインなしに気軽に画像が作れることには単純に驚く。

 このブラウザには例の文章作成対話型アプリもあって、ブログ記事をある話題で書いてくれと入力すると、例のナンバリングとラベリングで整然と段落分けされた記事が出来上がってくる。コンピューターが作る記事だからコンピューターに優しい文章が出来上がる訳で、検索されやすい文章ということになる。これに生成した画像を添付すれば、もう誰のブログか分からなくなる。恐らくすでにそういうものが溢れているはずだ。

 画像まで機械任せになったなら、私としては敢えて下手くそな文章と写真、あるいは手描きの絵で勝負するほかあるまい。いまは笑われても次第に希少価値が出るはずだ。

日本製端末は

 富士通の携帯電話関連事業が事実上終焉したというニュースがあった。残念だが、日本企業の考え方と携帯端末との相性はよくない。それが具現化してしまった。

 携帯電話のような機械音痴を含めた誰でも使う機械は、それを踏まえたインターフェースを作らなくてはならない。日本企業にはその発想はできなかった。極めて高性能だが素人では使いこなせない。それが日本製の特徴だった。

 高性能を維持するためにはある程度の収益がいるが、グローバル化によって競争力が激化すると、性能は劣るがとりあえずよく使える外国製品が選ばれ、日本製は資金源を奪われていった。高機能だが使いにくい機器から、そこそこ高機能で他の国の機器に劣るところもあるが、使いにくく価格が高いという位置づけになってしまったのだ。

 携帯電話に限って言えば結局ソニーだけになってしまったと言える。シャープは台湾企業のバックアップを受けて延命しているが、最近の報道では旗色がよくない。この2社をあえて日本製スマートフォンメーカーと呼ぶならば、かなり寂しい。

 富士通や京セラにもう一度この業界に戻って欲しいというのが私の勝手な願望だが、道のりは厳しい。端末を作ることは今の日本の経済風土では魅力的ではないようだ。

 考えてほしいのは日本語環境に適したインターフェースの構築だ。今のスマートフォンはつまるところ英語ベースの仕組みでできており、使用者がそれを学んだ上で操作している。しかしこれは実は大きな損失なのだ。思ったことをすぐに形にできるシステムを作ることが日本語環境の急務である。

 日本語環境の市場は世界的にみれば大きなものであり、なおかつ他言語の技術者にとってみれば障壁が大きい。ならば日本企業の独壇場になることは必定と言える。また、特定の言語文化への対応のノウハウはきっと他国にも応用できるはずだ。人間が機械に合わせるのではなく、機械の方が文化的要素を盛り込んで動く時代は必ず来るはずだ。

 ハードの開発で遅れを取った分をソフトのイノベーションで取り戻そう。そのためにはエンジニアの皆さんには国語をもっと学んでほしい。あるいは日本語の様々な使い手と交流を持っていままでにはない使い勝手を創作していただきたい。

何も知らない物知り

 博覧強記は今でも憧れる境地だ。いろいろなことに通じ、それを適時に取り出せる。そして、もう一つその教養に裏打ちされた高度な判断や言動が行えるというイメージがある。理想的人物像だ。

 途中までなら機械がこなすようになった。チャットGPTならばデータベースにあることは瞬時に取り出せる。マイクロソフトの提供するBingならば今日あったことでも、過去のデジタル化したものでも極めて短時間に引き出し、回答を自然な言語で取り出してくれるのだ。博覧強記に似ている。

 ただし現段階では情報を拾い出し回答を組み立てることはできても、その意味を理解してはいないようだ。だから曖昧な問いかけをすると、誰でもわかるような間違えをする。知識に見合った教養はない。

 人工知能は極めて優秀な物知りではあるが、基本的なことも分かっていない、というより分かろうとしない存在であることを今の時点でしっかりと把握すべきだ。今後、人工知能の能力は上がり、今ほどは違和感は消えていくだろう。だが、基本は同じはずだ。

 なにも知らない物知りを人間という物知りではないが何かを知っている存在が操ることが大事だということになる。

速度制限

 いつの間にか通信の量が増えてしまい、いわゆるギガ不足状態になっている。月末まであと数日なのでこれで持ちこたえることにした。メール以外の殆どが使えない。

 原因はクラウドへの写真のバックアップにモバイル通信の制限をかけていないことだった。これには設定で解決できる方法があることを知り、早速始めた。来月からはそういうことはないだろう。

かつてのモバイル機器に比べて通信にかかる容量は飛躍的に増えている。ネットは格安プランでいくなどの変更が必要なのかもしれない。画面より本を開けという天啓と考えることにしよう。

機械とおしゃべりすれば

 機械とおしゃべりすることができるようになった。私がパソコンを使い始めた頃、munouというプログラムがあり、話しかけると返事するのを楽しんだ。ただ、ほとんど無意味な返事しか返ってこなかったのですぐに飽きた。

 会話するおもちゃとしてのファービーも似たようなものだった。見当外れのリアクションがあっても人間の方で勝手にかわいいと判断し、ペットのようにかわいがった。

 いま爆発的に普及しつつあるChatGPTも基本的にはそれと同じだ。ただ、膨大なデータベースから確率の高い組み合わせの情報を瞬時に自然な言語で提示してくるので不自然さはほとんどなくなっている。基本的には昔のプログラムとは変わらないので人間側が不自然だと感じる可能性が極めて低くなったということに過ぎない。

 その点を踏まえた上で、AIに問いかけるのは一定の意味がある。多くの人はこう思うはずだという多数意見を検索できれば様々な判断の材料になる。大いに使うべきだろう。何かに行き詰まったときに回答を求めれば真の解決策は得られないかもしれないが、ヒントにはなる。