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人生の分岐

 それなりに波瀾の人生を歩んできた自覚がある。もっと安易な生き方も可能だったはずだ。また、今のように細々したことにこだわりすぎる生活はおかしいとは思いながら、すべてを受け入れてきた。そのことを後悔はしない。なるようにしかならなかったのだ。

 自分にはもっと高い所に進む可能性があって、いまは不遇なだけだ。そう思うことは慰安の言葉としては最上級だ。実際は偶然掴んだ高みだとしても人は謙虚にはなれない。自分には計り知れない可能性がある。いまはそれを発揮できないだけなのだ。時が来れば一気に駆け上がるのだと。誰もが思う幻想だ。

 私はこの幻想を否定しない。妄想でもなんでもいい。成し遂げたいと思うことをこなしていく。そういう達成感の中で生きるのは一つの見識だろう。日常生活ではままならないことが多すぎる。それでも自分の中で描いた物語の主人公として生きられるならばそれは意味があることだ。

 どんな成功者も転落の憂き目にあっていると思っている人も、実は偶然の人生を生きている点では同じなのかもしれない。それを仕方がないものと諦めるのか、自分なりの意味を見出していくのかで印象は大きく異なる。

人格の保存

 あくまで仮の話だ。人工知能の発達は日進月歩だが、もしある人物の性格とか信条や思考の癖を記録し、再現することができるシステムが出来上がったならば、どのようなことが起きるだろうか。

 さらに空想を重ねよう。外見上ほとんど本人と変わらない容姿を持ち、極めて自然な動きをする機械に先ほど述べたある人物の人格を記憶させた人工知能を搭載したとすれば何が起こるのだろう。

 この話の延長上にはある人物そっくりのもう一人の彼または彼女が出来上がるということだ。そんなことは藤子不二雄の漫画のパーマンに登場していた。コピーロボットでもう一人の自分を作り、活躍中の不在を埋める時間稼ぎをしていた。鼻のスイッチを押さない限り、他人からはそれがロボットだと気づかれることはない。

 この問題を考える上で欠かないのは、人格とは何かと言うことだろう。性格と思考や行動の様式、さらには身体的特徴が一致していれば同一人物と言えるのだろうか。これはクローン技術という文脈でも語ることができるが生命倫理に抵触しないと思われる人工知能とロボット工学の組み合わせで考えている。

 もちろん直感的にも経験的にも同一人物とは思えない。完全なコピーがなされたとしても別の人格のように思える。なぜなのだろうか。仮にマスターの動きを完全にシンクロナイズするコピーが行われたときは間違いなくコピーの方に人格を感じられない。モノマネ機械と判断する。ただ、どちらがマスターでコピーか判別できないときはどうだろう。

 次に、コピー側が自主的に行動する場合はどうか。自ら考え、意見を述べ行動する場合はもうコピーとは思えなくなる。マスターとコピーが会話をしたり、争ったりしたら完全に別人格と感じるだろう。外見がそっくりの双子の姉妹のどちらにも人格を感じるのと同じように。

 人為的にそっくりというより等しいものとして造られたコピーは、性能が高ければ人格を認めていいのだろうか。

 さらに屋上屋を架す。例えば尊敬してやまない先人の精神と肉体を完全にコピーして、我が家の一員として迎えた場合、彼もしくは彼女は家族の一人なのだろうか。それが認められたなら人格の保存はできるのだろうか。何か非常に根本的な部分で間違っているように感じる。それをまだ説明できない。

自己表現の機会

 おそらく多くの人にとって欠けているのは自己表現を存分にできる機会だろう。自分が表現したいことを自由にできるという機会は少ない。機会が与えられても勇気が出ずに実行できなかったり、他人の評価が気になりすぎたりする。

 自分の思うことや感じたことを表現する機会は大切だ。もっとも簡単なのは友人とのおしゃべりだろう。ところがそれができる存在が少なくなっている。なんでも聞き、適度にうなずき、適度にリアクションし、適度に聞き流す、そんな存在がいる。ソーシャルメディアの「ともだち」はこれができない。過剰に同調するか逆に反論を展開するか、場合によっては冷たい罵詈雑言を並べ立てる。もしくはなしのつぶてで存在を無視されるのだ。

 色々な意味で自分の話を聞いてくれる人がいなければ自己表現はできず、その手の満足感も得られない。だから、心的な不満は高まるのだろう。それが社会の中でいい影響をもたらしているのではないか。

 この手の問題はかつて地域の町内会などで解消されてきた。それが機能しないいま、どうすればいいのか分からなくなっている。参加型行事を気楽に行える環境を作るべきだ。

典型的な日本人

 国民性を語る場面は多い。日本人らしいとか、日本人の特性とかいう。スポーツの大会などで観客席やロッカールームを掃除して帰ると日本人らしいといい、周りを気にしていつまでもマスクを外せないもの日本人らしいという。あっているようであり、間違っているようでもある。

 典型的な日本人などいるのだろうか。日本人の代表を一人選ぶとしたらそれは誰だろう。恐らく誰も選べない。日本人の中の日本人などと言える人はいない。これは日本だけではなくどこの国や地域でも同じことだ。

 それなのに日本人論は書店では売れ筋であり、それがいつも絶えることがない。日本人とはどういう民族なのかは日本人が常に気にしていることなのだろう。

 そもそも、日本人とは考えることの裏側には他の民族との比較の考え方がある。自分と異質のものを見つけてそれを基準にして比べようとする。ある国の人はこうだが、日本人はこうだという形の論調になる。内田樹氏の言葉でいうならば常にきょろきょろしているのだろう。

 これは短所でもあるが長所でもある。常に相対的に自分の位置を確かめようとすれば、だいそれた失敗はすることが避けられる可能性が高い。その代わり、自分たちの個性を肯定的に捉えられず、発展を阻害することもあるだろう。ひところよく言われたガラパゴス化なることばがネガティブに捉えられたために、世界標準ではないものの多くの独自進化が止められてしまった。そのまま開発を続けていればもしかしたら、世界標準になったかもしれないものもあったはずだ。

 典型的な日本人がいないのと同じように、典型的な男も女もいない。典型的な人間もいない。合成して作られる平均顔のような本当はいない存在を実在すると信じ込みやすい現状に危惧を覚える。まとめていいものとそうでないものがある。

肩を押す

 偶然であるが駅で金縛りのように動けなくなっているどこかの学校の生徒を見つけてしまった。恐らく覚悟を決めて駅までは来てみたものの、通学路に踏み出すことができないのだ。

 私のような世代にとってはこういう行為は甘えか、精神的疾患などと分類されて、全うには扱われなかった。でもこれは特殊ではない。かなり高い割合で同じような状況に陥る生徒はいるのだ。

 彼らの肩を押すのには何をどうすればいいのだろう。強要するのはよくないし、放置するこもできないとなれば、とにかく待つしか他はあるまい。ある程度、待っている存在がいることを示し続けることが結果的に彼らの肩を押すことになると考える。

 五月ではなくても、いつでも心の不調は起こりうる。子どものも大人も変わらない。そして、私自身も例外ではない。せめて、自分ひとりではないことを意識するだけでもなにかに備えることはできそうだ。

同姓同名

 ネットで自分の名前を検索すると同姓同名が結構居ることが分かる。なかには漢字のあて方まで同じである人もいる。写真を公開している人は少ないが、その例を見る限り名前ほどには風貌は似ないようだ。

 同姓同名であってもそれぞれの人生がある。もしかしたら誕生日も一致することもあるかもしれない。でも、別の生活があり、別の人生がある。誕生日や字画の占いですべてを判断できないのはこうした例からも明らかだ。

 ならば単なる名前の一致は意味のないことなのか。そうも思えない。同じ名前で呼ばれて生きることで何らかの共通性は生じるのでは無いか。一度同じ名前の人と話してみたい。

自意識

 正直に言って本当は理解できていないのが性同一性障害である。心と身体が一致していないというのだが、では心とは何か身体とは何かを考えなくてはなるまい。

 心とは自分はこういう存在であるという意識のことだろう。この意識がかなり強固で他人から見られてそう思うのではなく、自らそのように考えていることになる。一般的には自意識の形成には他者の関与が不可欠だ。誰かにあなたはこういう人だと言われていくうちにそういう人になる。

 ところがこの場合は他人から逆の扱いをされながら、それに抗う形で自意識を形成することになる。あるいは他者にとっての他者が自分という考え方自体が間違っていたのではないか。そうも考えさせられる。

 考え方を変えてみる。生まれながらに自分にもともと自意識があり、それが自分とは何かを決めているとする。この場合は心と身体が一致しているわけだから、何の問題も生じない。性的指向が多くの別の個体と違っていても、自分がそういう存在であると知って振る舞っている訳である。社会全体がこの考えなら、多様性はそのまま受け入れられて問題はない。

自意識の持ち方は多様だ。

 自意識が自然発生的にもしくは本能的に生じるものなのかと言えば、私はまだ懐疑的だ。日本に生まれ育てば、価値観や人生観はその集団に共有されるものになる。それは男女の性別や、人種などとは無関係であろう。やはり、社会の中で自我が形成されると考える方が分かりやすい。ならば、男らしく女らしくというジェンダーもそれが所属する集団の中で形成される。そのとき社会の成員は外見上の身体的特徴をもって意識付けをしていくはずだ。

 トランスジェンダーと呼ばれる人たちの意識はこうした事実と異なっているように思える。でも、よく考えるとそうでもないのかもしれない。自分が属する共同体の中で男らしくあれと有言もしくは無言で規定された人は、そのように振る舞うことで自意識を形成する。つまり演じているのである。この演じるものを何らかの事情で反対のものにした場合、別の自分を演じることになる。演じるという表現は誤解されるかもしれない。これは上辺をごまかすのではなく、自分の身体を自分の心がどのように動かすかということである。これには脳の動き方も含まれる。

 身体は男だけれど心は女という場合、この人は女を演じようとしているのに、身体がそれに合う形をしていないということだろう。

 少々複雑になったが、自意識が自分の属する集団の影響下で形成されるのは間違いではない。ただ、その中で形成される自意識とは自分が自分の身体をどのように操るか、どのように振る舞うかということであって、ここで反対の性を演じる対象として選んだ場合にトランスの状態が起こるのだろう。

 ここまで書いてきたが実は納得できていない。今のところは言語操作をしているに過ぎない。ただ、こういう試みから、自分とは何かを考えることはできるという感触は持てた。