先日読み終えた本に気になる表現があった。私の感覚では「なぜなら」という接続詞を使うところで、ことごとく「説明しよう」という表現が使われているのだ。これはある種の語りでよく使われる表現で、不可思議な現象を後付けで有意義にするときに多用されたものである。私の世代では納得するというより、そうきたかという設定の妙を感じさせる言葉だ。
説明することは自分の言動を理論化することに役立つ。単なる一過的な思いつきではなく、確固たる意見なのだと披露することが説明の本義だ。説明することによって自らの意見の価値が確認できるし、他者を説得することができる。また批判を受けてより良い意見に修正できるきっかけとなる。
だから「説明しよう」を日常的に多用することは悪いことではない。他者の賛同が得られるか否かは分からない。でも、そのための努力をすることは自分自身にとってもかなり意味があることだ。
最近はこの説明する努力が軽んじられている。人工知能がもっともらしい説明をしてくれるので、それ以上の可能性を考えることをはなからしなくなっている。「説明」よりも「結果」が優先すると考えられているからかもかもしれない。
それならば私は若い世代に「説明しよう」を流行り言葉にすることを提案したい。自分の考えを他者に認めてもらうことは容易ではない。それによって自らの考えが深まり、他者の批判が強度を高める契機になるのならば、無駄な努力などではないのだから。