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落語の思い出

 落語は昔から好きだった。高校生の頃は寄席に行くことはできないので、NHKやTBSのラジオで放送されていた落語の番組をよく聞いた。それが始めであったせいか、いまでも音声のみで落語を味わうことが多い。

 大学生になって時間ができた私は、TBSの公開録音の応募にはがきを出して赤坂の放送局によく聞きに行った。その後は国立劇場の寄席に行き、新宿末広亭にも行った。その当時はほとんどが年配の客ばかりであったが、私のような学生風情も時折混じっていた。

 私が好きだったのがいわゆる古典落語だったこともあり、同じものを何度も聞くことが多かった。結末を知っていてもそこに至るまで展開が噺家によって違いがあり、その差異を楽しむのが面白かった。寄席の雰囲気も話の内容にかなり影響することも感じられた。

 落語は単純な所作がついても、ほとんどは話芸である。噺家が繰り出す話をじっくりと聞き、心の中で味わうということが、何よりも大事だ。様々な娯楽がある中で、落語の果たす役割は年々減退しているのかもしれないが、話だけで観客に喜怒哀楽の感情を引き起こすという話芸の理想を体現していることを称えたい。

現代の文化の下地になっているもの

 韓国の古典文学の一つ「春香伝」を読んだ。まさに韓流ドラマの原点といえるような内容だ。岩波文庫に収められたものは訳も秀逸である。

 両班の少年が地方で妓生の娘に偶然出会い、たちまち恋に落ちるがまだ無位無官のため、結婚もできずに都に帰る。その娘が春香なのであるが貞節を守り、その後その地に赴任してきた悪徳官人の招集を無視したために怒りに触れて拷問され、命も尽きようかというときに、乞食の姿に身をやつし、実はすでに暗行御史となっていたヒーローが救い出すという実にわかりやすいストーリーだ。

 この話は大変もてはやされたらしく、多くの異伝があり、語り物的な文章も幾多の改変、もしくは増補の繰り返しがあったものと考えられる。中国の古典を踏まえた装飾的な文体、韻を踏んだものづくし的列挙などは語りの後を感じさせる。性愛にかんする過剰な描写が突如現れたり、執拗な拷問の描写などメリハリがあるのも庶民性が残っているからだろうか。

 この展開の在り方は現在の韓国時代劇にもみられることであり、それが先に述べた原点を感じさせるものである。もちろんこのほかにも私が知らない話がたくさんあるのだろう。日本の漫画やアニメ、ライトノベルなどの原型が江戸時代のさまざまな作品に見いだせるのと同様、芸術・芸能・文化にはどこの国でもその下地にあたるものがある。それを知ることで理解できることもあるに違いない。

長崎は今日も

長崎は雨が多いところではない

 内山田洋とクールファイブのヒット曲「長崎は今日も雨だった」は昭和世代ならば知らない人はいない。歌詞は忘れても前川清の顔をしかめて熱唱する姿と「ワワワワー」のコーラスは記憶に焼き付いている。

 ところがいまの若い世代にはこの話は通じない。いい歌だから是非とも後世に伝えるべきだとは思うけれど詮方無い。でもどうして雨なのだろう。長崎は別に降水確率が高い地域ではない。たしかに水害はあるがそれはあくまで突発的なものだ。

 雨に感じる情緒を説明しなければ伝わらない。昭和という時代は価値観の変動がはげしく、同時代人でさえ戸惑うほどだ。雨に人情を感じるのか、生産活動の障害としかみない人もいる。現今は情緒を感じられない人が増えた。

 長崎でなくても雨の日には特別な思いになる。かすかな心の動きを感じ取ることを大切にしたい。おそらくいつかは寂しい雨に救われる日が来る。やさしさとはこういうところに表れるものである。

 

楽曲とともに

 谷村新司さんが逝去された。私より少し上の世代であるが、アリスとして活躍されていたときはリアルタイムで楽曲に親しんだ。そのころ始めたギターの練習曲にもアリスの曲が多かった。時代を彩る方がなくなると何かが大きく変わったような気になる。

 人の命は限りがあるからいつかお別れが来るのは知っている。自分だっていつこの世を去るのかは分からない。この後すぐかもしれないし、もうしばらく世にはばかるかもしれない。ミュージシャンの場合は少し違う。人生は短く芸術は長い。残した曲はいつまでも消えない。誰かが歌い継ぐ限り続く。個人的には「遠くで汽笛を聞きながら」の哀愁が好きだ。絶望しながらも生きていこうとする底力を感じる。あの時代の雰囲気には実にあっていた。

 最近の歌にもいいものがある。それを共通体験として持てているのだろうか。多様化の中で時代を代表する歌謡なり、事象というものが細分化されている。すると共通の体験は持てなくなるのでは危惧してしまうのだ。

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心の瞳

 坂本九さんの事実上最後のヒット曲の「心の瞳」は私にとっての精神的清涼剤であり、栄養素でもある。合唱曲としてもよく歌われていたので幅広い世代に知られている。

 坂本九さんがこの歌の発表後間もなく航空機事故で亡くなってしまったため、絶唱と言うべきものになったのは残念というしかない。しかし、この歌は歌詞もメロディもそして歌唱も素晴らしく、後世に伝えたい楽曲だ。

坂本九 心の瞳

 心の瞳は愛することとは何かを考えさせるメッセージソングだ。その答えは簡単には決まらない。大切なのは考えることなのだ。

紅白は枠組みを変更を

 紅白歌合戦が日本の伝統であるかいなかについては議論がある。私はこの行事自体には意義があると考える。この番組に出場することを目標としているプロ歌手は依然として多く、その意味でも継続すべきだろう。

 ただ男女対抗の対抗戦という形式はそろそろやめていいのではないか。男女で芸能を二分することはほとんど意味がない。混成のバンドも増えているし、むしろこれからは性別によって区分けをすること自体無理がある。

 例えばそれぞれの本拠地や、縁の地でチーム分けするのはどうだろう。いっそのこと生まれ月で分けてもいい。毎年、チーム分けの基準を変えてもいい。さらにいうなら対抗戦の勝敗の結果はほとんどの人にとって無意味だ。だから、勝敗をつけること自体やめてもいい。

 エンタメとして盛り上げるために歌以外の要素があまりにも強調されているのも気になる。じっくり歌を楽しむ番組になればいい。取ってつけたように合戦の体を装うことは止して構わない。

 年末に歌の力で感動をもたらしてくれる歌手に活躍の場を与えるべきだ。歌番組の原点に回帰すればと切望する。

大衆を相手にするならば

 韓国の女性タレントが日本で性的ハラスメントを受けたとの報道が出ている。この方の存在は全く認知していなかったし、今でもよく分からない。ただ、同胞が不愉快な思いをさせたことを申し訳なく思う。痴漢行為をした輩は速やかに罰を受けるべきだ。

 日本人は、というより男という者は理性的には行動できない。男は抑圧的に日常生活を送っているものの決して理に従っているわけではない。だから、安易に男を信じてはいけない。あなたの国と同じなのだ。ファンは大切だが距離は置いた方がいい。

 一言余計なことをいうなら、日本人は手の届きそうで届かない存在をアイドルと感じる。あなたの間合いは近すぎるのだ。日本で成功するなら、近づきすぎない方がいい。握手するのに大枚を要求するのは理不尽のようで意味がある。

 昭和時代のアイドルは基本的には一人であり、事務所の意向に服従していた。キャラクターの設定からプライベートのあり方まですべて他人任せで自主性は感じられなかった。それがいいとは全く思わない。自主性のないのはよろしくない。ただ、一人のものの見方に固執しない社会を市場と捉える方法はできていたとも言える。

 大衆を相手に商売をするためにはそれなりの方法論がある。自分の価値を保つためには距離をコントロールすべきだ。それさえできれば日本で成功することはたやすくなるだろう。

 

金輪際現れないのではなくこれから沢山現れてほしい

 アイドルという曲が世界的なヒット曲になっている。一度聞いただけでは覚えられない複雑なメロディラインや、ボカロと言われるジャンルの曲を人間が無理やり歌っているかのような新奇な感覚、部分的に切り取っても使える展開の多さなどが特徴だ。

 作曲者は世界で売れ入れられるよう様々な配慮したという。真の意味の企画ものなのだ。アメリカを除く世界ランキングで一位になったのもしたたかな戦略の賜物だった。

 日本のポップスには独特の味わいがあると言われながら世界的なヒットはなかなか生まれなかった。隣国韓国はこの世界では後発なのに日本の遥か前を走る。これは戦略の差と言える。日本は国内に相応の市場があるため、海外に打って出る必要がなかったのだ。

 最近旗色が変わってきた。高齢化する日本市場ではいままでのやり方では成長できない。ならば海外だ。幸い日本文化のユニークさは各界で有名であり、漫画やアニメといった頭抜けたコンテンツがある。これを巧みに利用して海外の顧客を開拓すればいい。そういう考え方を本気でやる人が出てきている。

 アイドルは聴いていただくと分かるが楽曲は日本的ではない。しかし、歌詞の世界観は日本そのものであり、このミスマッチは海外で受け入れられやすいだろう。やり方は他にもある。これまで築き上げた財産を世界にどう売るのか。展開が楽しみだ。