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聞いてもらうこと

 自分の話を愛想でも良いので聞いてくれる人がいるというのは意外にも大切な幸福感なのかもしれない。若い頃はそんなことは思わなかった。むしろ自分の本心は外には出さず、適当なことを述べておいてその場を切り抜けることが大半だった。そうですねと言いながら本心は他にあるということが多かったと思う。

 それが次第に様相が変わってきた。前よりも周囲に同意を求める、というより反論も含めた反応を求めることが多くなった気がする。私は私という牙城をしっかりと建設できなくなったのかもしれない。

 親が入所している施設にいる高齢者はそんな事実を証してくれる。たまたま自分の親以外の方とお話をすると非常に喜んでいただけるのだ。多くの場合は意味不明瞭であり、同じことの繰り返しが多いが、それに対して向き合う姿勢を見せただけで非常に喜んでいただける。中には涙を浮かべて感謝されることもあった。いかに話を聞いてもらうことが大事なことなのかを痛感するのだ。

 高齢者だけではない。私たちは対面的コミュニケーションを渇望している。ネット社会で「ともだち」は増えても、実際には孤独感が日々増えてゆく。それが現代社会の一面なのである。

過去を取り戻すのではなく

 政治家の話を聞いていると、かつては良かった日本が今は衰退している。だから、過去の輝きを取り戻すといった内容のメッセージが多い。過去の栄光と、今の体たらくを認めた上での論調だ。

 私のような世代にはこれはある程度説得力がある。世界第二の経済大国とか、Japan as No. 1という言い回しに慣れた世代にとっては、現在の停滞とこれから予想される縮小再生産が許し難く、それでも認めざるを得ない事実は辛い事実だ。だから、過去を取り戻すという主張には惹かれてしまう。

 でもよく考えれば過去を取り戻すという考えは現実的ではない。あの頃のような人口増加はないし、劣悪な労働環境に耐える心性もない。豊かな状態を知ってしまった人に、レベルダウンは耐えられない。できなければ効率化を目指すべきだということになり、それができないのは個々人の才能によるという自己責任論になる。

 発展段階にある国家、組織は個々人が幸福の追求に貪欲で、多少の自己犠牲を厭わない傾向にある。当然競争や軋轢もある。それを避けているうちはブレークスルーは生まれにくい。

 だから過去を取り戻すのではなく、新たな挑戦の時代に局面を移すというのが、指導者の言うべきものなのだろう。これには多数の敗者が発生する。過去の歴史では一度敗れると浮かび上がるのは大変だった。もし可能であれば、敗者復活のシステムを確立すべきなのだろう。

 リーダーがこのことを言うのは難しい。挑戦しなさい。うまくいけば社会的成功があります。ただ、失敗することもあります。その可能性の方が多いのですが、それでも再挑戦するのです。いつか成功するまで続けるのです。そんなことを真面目に言えるリーダーが出ればまだこの国は何とかなるのかもしれない。そもそもこんなことを言うリーダーに支持が集まるとは思えないが。

 学歴社会に生きてきた私にとって、過去の栄光は絶対的な財産であり、獲得すれば上に行き、しそこなえば浮上は不可能という思い込みがある。ただ、若い世代は違うだろう。過去の栄光がない代わりに危機感がある。そこに上昇志向が加わればいい。

 年配者は後生に余計なことを言わず、個人の可能性を信じ引き出すことに意識を向けるべきだ。それが私たちのできる1つ目、そして、もう一つ、自分もまた挑戦する立場を捨てないことなのだろう。

自己満足上等

 高温の日々が続いているせいで疲労が蓄積している。暑さのために集中力が失われ、ときに目眩までする。このままでは大きな損失に繋がる。いまは調節が必要だ。

 でも、おそらくもっと大変なのは心の問題なのだろう。9月病などと言われるが、これは中高生だけの話ではなさそうだ。最近、何事にもうだつが上がらないと自覚している私などもその未病者の資格が十分にある。

 周りが自分を評価してくれていないときには、特に落込みがちだ。しかし、誰にも気づかれなくても他人にはできないことをやり続けるのだという気概は持っていたい。すぐに結果を求めるのが最近の風潮だが、そんなうわついた評価はこちらからお断りするべきだろう。

 他の人にはできない何かを愚直に続けるしかない。たとえ誰にも評価されなくても、少なくとも自分は満足できる。それでいいのだ。自己満足できる何かを続けていく。そこに中断の合図がでたら、そこで身を引けばいいだけだ。

自分を安く見積もるな

 若い人たちにはこういうことにしている。謙虚さは忘れてはならないが、自分を低く見積もることはやめようと。今の成績を語るのではなく、これからの可能性を語ろうと。

 最近はなんでも資料が揃い過ぎていて、すぐに他者と比較しようとしてしまう。そしてそれができるような気がする。あたかもパソコンのスペックを比較するように、自分の立ち位置を考えてしまう。そして、大抵の場合、実態よりも低く自分を見積もる。

 人々を悲観的にさせたテクノロジーは残念としか言いようがない。でも、この見積もりには未来の成長分が勘定されていない。また、今後の価値基準が変化することも織り込まれていない。

 だから、言いたいのだ。自分を安く見積もらないことは大切だと。特に若い世代はデーターで判断することが当たり前のことになっている。ただそのデーターはあくまで過去のものであることを忘れてはならないと思う。

自分を売り込む

 どうしたら自分をよく見せられるかということを学校が教えると言ったら、どう思われるだろう。実力もないのに虚飾の術を教えるのはおかしいと非難されるかもしれない。ただ、思うにそうでもないのだ。

 自分を売り込むことは伝統的な日本の価値観ではあまり評価されなかった。むしろ、実力は隠し謙虚に振る舞うことが美徳と考えられてきた。私自身もそういう文化の中で生きていたので、人前で自分がいかに優れているのかを説く姿には感心しない。むしろ非常識とさえ考える。ところがどうもそうではないようだ。

 自分を積極的に評価することは現代社会においては不可欠なことだ。それには2つの意味がある。1つは他者の評価は当てにならないという事実に基づく。自分が周囲からどのように見られているのかは、実は人によりけりであり絶対的な基準がない。高評価も非難も実は偶然の産物だ。だから、他人の評価を気にしすぎてはならないのだ。

 もう一つは自己肯定感も関係する。自分を積極的に評価することで、それに見合う生活が展開されるようになる。言葉にし他者に伝えることによって自分のあり方は変わる。だからブラスに見積もればそれに合う己になるように思考や行動が修正されていくようなのだ。だから大風呂敷は広げるべきなのだ。

 学校で自己紹介する際に、ネガティブなことは言わないように、それがデメリットでも見方を変えてメリットとして表現するように指導している。中高生は素直に聞いてくれるが年齢が上がるとそうもいかないだろう。自己肯定感よりも謙虚さの方が優勢になる。

 でもこれは一種の自己暗示である。気持ちがのれば不可能が可能になることもあるかもしれない。実現はしなくても前向きな姿勢にはなれる。その意味で自己PRを教えることにはやはり意味がある。

集中する時間

 自分の特性というものを実はよく掴んでいない。ただ、一つ言えるのは同時に何種類かの仕事をそつなくこなすというのには向いていないということだ。同僚や知人の中にはそれが見事にできる人がいるが、私はそれができない。

 昔、図書館にこもって一つのことをし続けていたことを考えると、私には何か決まったことをそのまま続けていくことが向いていると思っている。でも、そうかと言って飽きっぽいところがあるので極めることができないでいた。これがいわゆる天才との違いだ。

 今の仕事で全く調子がでないのは、マルチタスクそのものだからだ。同時にある程度の水準を維持しながら仕事をこなさなくてはならない。しかも自分で仕事の内容は選べず、状況に柔軟に対応しなければならない。こういうコンピテンシーは私には欠けている。

 それを補うために最近は色々な工夫をし始めているが、その一つが全てを満たすことを諦めることだ。これは自分の主義として認められないことだったが、最近は仕方がないと割り切れるようになっている。

 その代わり、満たされない思いを仕事以外の方面に活かしたいと思うようになってきた。それが恐らく次のステップに繋がることなのだろう。やりたいことを効率とか利益を考えずにやることをここ数年の目的にしてみたいと考えている。

他人にとっての自分

 自分のことを理解してくれる人がいると信じていたのに裏切られるということはいくらでもある。歳を重ねるほどそれが当たり前となり、受け入れることもできるようになっていくが、かつてはそれは無理だった。

 自分が特別な存在であり、かけがえのないものであることは誰にとっても同様だ。いまではそんなふうに考えることはできる。あるいはそういう考え方をとることで心理的な難局を乗り越えられる。でも、かつてはどうだったろうか。自分だけが不当に扱われているとか、いつもの不運だとか考えていたことを覚えている。

 自分は他人にとっては他人であり、その他人から見た自分がどのように見えているのかは分からない。自身が考えている自画像と一致していないことも多い。それが乖離していると不幸だと感じやすくなるのかもしれない。

 やらなくてはならないことがいくつかある。まずは自画像の描き直しだ。というより、勝手に描いた輪郭線を引き直し過去にこだわらないことだろう。また、その絵がどう見られようと気にし過ぎないことだ。それぞれの作品には素晴らしい味わいがあり、疵もある。それは他人も同じだ。

 人間が集団で生きていく以上、他者との関わりは避けられない。自分の存在と他者との関係をどのように調和させるのか。若い人にはこのことを伝えていきたい。

学歴はいらないが学力はいる

 学歴不問などと言いながら、実際には特定の大学を卒業すると就職時に有利という事実は継続している。それは学力を予測するのにもっとも分かりやすい指標だからだ。

 問題になるのはこの学力がどのようなものなのかということだ。もし、大学に合格するための学力テストの成績を意味するのなら、その指標は不正確になる。大学入試は、与えられた問題を要領よく情報処理する能力であり、おそらく将来はコンピューターが解答してしまう分野だ。この力は確かに必要だがそれだけを物差しに使うのはおかしい。

 学力には問題発見や解決手段の開拓という分野がある。まだ答えのない問題に挑戦し、完遂する。そのために他者と協力するという方法だ。これができる人は学力が高いのだと言える。この能力こそがこれから求められるものに違いない。

 ならば、これからの人物評価は学歴だけではなく、何を学び何を行ったのかを分かりやすく伝えることができる能力が基準になる。学生時代何を誰となんのためにどのように行ったのか。説明できることが大切になるだろう。

自己肯定

 ラジオから可愛らしい女性の声が聞こえてきた。曰く、私には才能があるんです、だから私と仕事をすると必ずいいことがあります。冷静に聞くとかなり自信過剰な物言いだ。

 若い世代には自信がない人が多いという。他人からなにか言われると影響されやすく、世間体を気にしすぎる。挫折しやすいなどと。少子化の影響もあって競争の経験が少なく、挑戦よりは現状維持を優先するなどと散々な言われようだ。

 彼らが伸びていくためには適切な自己肯定と失敗を含めた経験が必要だ。先に述べたポジティブなDJもその意味では貴重だと言える。彼女の最初の夢が潰えたときに、それでも再挑戦が可能な社会にすることを私たちは目指さなくてはならない。若い才能を伸ばすことは若くない人々にとっても死活問題なのだから。

差異

 資本主義の大原則は人々の間に何らかの差異があることだといいます。持てるものの格差が利益を生み出すのがすべての根源にあるそうです。

 格差が無くなりそうになると既得権を持つ人は様々な差を生み出す仕掛けを用意してきます。儲けが続くためには皆が同じものを持っていてはならないのですから。利益を得る人が常に同じであるとき、社会格差が発生します。それが場合によっては社会不安を生み出すきっかけにもなってしまうのです。

 すべての人が同じものを所有し、同等の価値観で生きるという考え方はこの格差をより決定的なものにしてしまいます。実際には多様な生き方があり、求める目標も違うはずなのに社会的同調圧力が巧みにかけられ続けているのです。

 人とは違う生き方、別のゴールを持つこと、それらは現代社会では堅持しにくい目標と言えます。人々を同じ価値観に誘導し、その上で格差を設定するのが現代社会なのでしょう。この頸木から逃れるためには、自分なりの生き方を貫くしかありません。他人からは敗者に見えても自身では幸福だと思えることが大切なのです。