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忘れ物

 私はいろいろなことをすぐに忘れる方ではないかと自覚する。何十年も忘れずにいて、宿願を果たしたというような人の話を聞くにつれ、自分には無理だと感じるのだ。

 忘れることは知識の損失だ。悲しいほど辛い思いを伴うこともあるが、大抵のものは自然に抜け落ちている。気がついたら背負っていた荷物が減っていたという感じだ。ただ、この比喩で言うならば身軽になるための手段ということもできる。飽和する前に予め内容を減らしておくということになる。

 忘れ物を繰り返すことは辛い。しかし、忘れることで救われることもあるはずだ。

猛暑の峠

 連日、かなり暑い。マスクをつけたままこの季節を迎えたことは初めての経験であったが一向に慣れない。苦しさが湧きあがって体内にとどまる感覚がある。

 予報によればそれでも来週からは少しずつこの暑さも終息に向かうらしい。やらねばならないことの多くがそのままになっていることを思い出す必要がある。そして体調を整えてまた挑戦を始めるのだ。

 猛暑で衰弱した身体は、必ず環境の好転とともに復活する。いまは耐えるべきときなのだ。

逆張り

 株式投資などで値下がり局面で敢えて購入し、値上がりしてから売却するという手法がある。まさにピンチをチャンスに変えてしまうたくましい手段だ。

 この方法の大前提として、値下がりしたものは将来必ず値を上げるという期待がある。下降したまま消滅することはないという了解だ。これは資本主義社会に対する信頼が容易には崩れないことを経験的に知っているからだ。

 現今の社会情勢は極めて厳しい下げの局面にある。そして、相当の恐怖感を伴って迫っている。同時にこのまま社会が消滅すると考えている人はいない。必ず上昇局面に転じると信じている。だから、いまは慌てずに次の局面で何をするのかを学ぶべきなのだろう。それが許される状況にあることを喜ぶべきだ。

GDP戦後最悪の落ち込み

 今日、年率で27.8%というGDPの暴落が発表された。リーマンショックを上回る落ち込みに多くの人がショックを受けている。緊急事態宣言で経済を止めたことが直接の原因であることは間違いない。

 ただしこれは日本だけのことではない。世界的にコロナウイルスショックは大打撃を与えており、世界中が同病相憐れむ仲である。ただし、これを短期的には救済していかなくては傷口が広がる。ウイルスについては引き続き警戒が必要だが、自粛の行き過ぎにならないようにしなくてはならない。これまでの症例をもっと公開して可能なことと不可能なことを多くの人が共有すべきだ。

 今後のことを積極的に考えなくてはならない。失業者の再雇用の方法を模索するべきだ。私だっていつ失業するか分からなくなってきた。再就職の準備を個人的にも始めなくてはならないだろう。そういう機会がないことを祈るが。

 今は大きな逆境にある。辛いことだが、こういう時にイノベーションは起きやすい。私自身もそれを傍観するのではなく挑戦する側に立ちたいと考えている。

言葉に換える

 私が恐らく毎日苦労しているのは、今考えていることを日本語という言葉に落とし込むことなのだと感じる。いろいろなことが頭をよぎるがすぐに消えてしまう。それをどう表現するのか。他人にどのように共感してもらうのかを毎日試しているのだろう。

 脳内をめぐる刺激のようなものがやがて感情を形成するのならば、その仲立ちをするのは言葉である。言葉がなければ感覚は記憶できないし、刺激の類型のどれかとしてその都度感じるに過ぎない。それが例えば「暑い」という言葉によって、同様の刺激をひとまとめとして把握できるようになる。それらが組み合わさって単語になり、一定のルールのもとで文になる。それを組み立てて文章ができる。もちろん筆記されることはさらにその先の営みである。

 なんとなく感じている思いが言葉になるまでの何とも言えないむずむずとした感覚は、沸き起こってはすぐに消えてしまう。言葉として記憶しなければ刺激をとどめることができないのだ。私が文章を書いたり、詩歌を残そうとしたりするのはそれを何とか形にしたいと思うあがきなのだろう。それは人間という言語を獲得した生物の宿命でもある。

体力

 間もなく短い夏休みに入る。厳戒状態の休暇なのでレジャーにも行けない。猛暑は続くといい条件はがあまりない。ただこの期間にはやらなくてはならないことがある。

 その一つが体力作りだ。小さなトレーニングから始めて行こうと思う。自粛要請期間に風邪を引いてしまったのは体力の低下で免疫力が落ちたからだと考えている。

 やれることは限られているが、やれないことはない。まずは早朝の散歩から始めてみよう。

知らざあ言って聞かせましょう

 私たちは自分の常識が無条件に誰にも通用すると思い込んでいる。そもそも常識という言葉にすでに油断が含まれている。実際はそんなに甘くはない。

 他人とコミュニケーションをするときに常に現在地を確認しながら話をするのは骨が折れる。言わずとも通じる仲間を理想とするのだ。しかし、つきあいが広がるほどこの手続きは欠かせないものになる。

 相手は自分のことを深くは知らないということを前提にコミュニケーションを進めていくべきだ。最近はそう感じることがとても増えている。おそらく私の考え方のほうが特殊なのだ。そう考えることにしている。

ものの捉え方

 私たちが周囲の世界を見てそれを評価する際には、必ず基準となるものが存在する。よほどのことがない限り、その評価は相対的であり、過去の経験に基づいている。

 例えば、自分の故郷や長く生活した場所はその基準の基礎を形成する。自分が使う方言は考え方の根本に影響する。何を基準とするのかはかなりの重要なことである。

 もちろんそれは評価の高い場所で暮らすことが問題ではない。むしろ劣悪な環境ゆえに理想を高く保てることもある。要するに己を知ることが大切だということになる。

冷静に

 コロナウイルスの感染者が刻々と増えている。我が国では感染者数を低く抑えてきたが、これは検査数の少なさとも関係があると言われている。最近は積極的に検査を実施するようになって、30代以下の人々の感染状況も補足するようになった。結果的に軽傷もしくは無症状の感染者も計上することになっているのだという。

 経済活動再開に歓喜していた人々にとってはまた冷や水を浴びせられる結果になってしまったのは事実だ。このブログでも取り上げた政府の国内観光推進策も方向転換せねばなるまい。ウイルス拡散の政策と認知されれば政権の存亡にも関わる。ただ、以前のようなロックダウンの政策はもはや難しい。そもそも我が国では都市封鎖の効果はほとんどない。いたずらに自粛に走り、経済活動を止めれば感染予防以上のダメージがあるのは自明の事実でもある。

 識者にも予測不能の現況を私たち市民はどのように受け止めればよいのだろうか。まずは冷静にならなくてはなるまい。この期間の異常事態に正気を失ってはいけない。まずは足元を見ることから始めなくてはならない。コロナウイルスはかつて歴史を変えてきた天然痘やペストなどのような致死性はない。罹患すると確実に回復させる特効薬がないということが問題であって、すぐに死に至る病ではない。だから恐れすぎてはいけない。

 さらに、感染力もさほどではない。空気感染をする結核や水疱瘡のような威力はないと言われている。ある程度の予防策はある。最近、コロナウイルスも空気感染するとの報道があったが、諸見解を総合すると飛沫感染の可能性の方が高いようだ。その意味でマスク着用の意味はある。

 感染よりも重大なのが心理的な影響であると考える。コロナウイルスに対するショックは日常のルーティンを破壊し、さまざまな弊害を生んでいる。その中には生活のリズムを失って途方に暮れる人もいるという。私自身にもそう思う瞬間がたびたび起きている。実際に感染していなくても心身に不調を訴える人が出てきているように感じられるのは、精神的なストレスが作用しているのではないか。

 こういう時は冷静にならなくてはならない。緩やかな気分になるために大きな風景を見たり、穏やかな音楽を聴き、少々日光を浴び、孤独を避けなくてはならない。それだけで救われるものがたくさんある。世界は危機的な状況にあるが、致命的な状況では決してない。これから展開次第ではいくらでも状況は変わる。思いつめず冷静に過ごすことが大切なのだ。

後半開始

 1年の後半が始まりました。ここ数年の世界情勢はまさに歴史的な異常事態です。コロナウイルス感染者は日本では低く抑えられている感じがあります。マスクとソーシャルディスタンスの効用がどれほど有効なのか分からない現状では、偶然そうなっているとしか言えません。

 オリンピック開催のために昨年からこの月がいつもと違うようになることは既成事実でしたが、さらなる大変更が起きるとは考えてもみませんでした。この年の後半も波乱続きが予想されます。

 様々なことが満足にできない現状を転機の材料とすることは至急の課題です。雨降って地固まる。ころんでもただでは起きない。臥薪嘗胆。今にふさわしいいろいろな金言を探しています。