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まだできること

 残念ながらいろいろな場面で衰退を感じざるを得ない状況になっている。これを老化というのであろう。身体の衰えはいかんともし難い。未来書にはやがてアンチエイジングの技術が進み、寿命が伸びるというが私にとっては間に合わない話だろう。間に合ったとしても無理に人生を延長したいとは思わない。

 身体の老化より幾分遅れてくるのが精神の衰退である。もっとも脳卒中などで一気に老化が進んでしまうこともあるのでなんとも言えない。ただ、身体よりは制御ができそうな気がする。

 身体が動かなくなる前にやるべきことをしておかなくてはならない。またこれからできることを考えていかなくてはならないと考えている。私にできることは何か。そろそろ本腰を入れて考えるときだ。

先を考える

 今後の展開を考えることがとても大事な局面にある。不確定な将来のあり方の中で何ができるのかを知っておく必要があるのだ。

 諺に備えあれば憂いなしというのがある。逆の憂いなければ備えなしというのもかなり事実に近い。適度な危機感は必要だ。危機感だけでは精神衛生上よくないのも事実だ。

 少し先を考えること、そこに夢の要素を加えること。とりあえずはそこを目指すことにしよう。

下落

 調子が悪いと落下のイメージばかりが浮かんてくる。根拠もない不安がつきまといやる気と限られた希望を蝕んでいく。こんなときはどうしょうもない。

 いろいろなことが中途半端になり、完成しないのかとそれぞれが叫びだす。あとでというと不満な表情で見つめ返す。それを思うと余計に萎縮する。

 嵐が去るのを待っている。しばらくは流されていよう。

貧しいのは精神の方

 経済規模の縮小化が避けられない我が国にとって、発想の転換が焦眉の急となっている。大量生産大量消費の時代はとうに終わり、選択的生産と消費の時代に移行すべきなのであろう。

 人口が多く、安定的な市場を持っていた日本は少々の経済危機には動じない土壌を持っていた。国際的競争力が低下しつつあるといっても国内消費が安定しているためさほどの危機感はなかった。しかし、今後人口減少と高齢化が進む中で、そのような楽観論は取りにくくなっている。

 まずはいい意味での共同体を取り戻さなくてはならない。地域ごとに共同体を組織し、助け合う生活が必要になる。これには広げ過ぎた個人主義との折り合いをつけることが必要だ。私たちは部分的にムラが持っていた互助の機能を取り戻さなくてはならないだろう。その負の要素を注意深く取り除き、正の要素を発展的に取り入れる必要がある。いまはなかなか想像できないがかつてはそれが当たり前であったことを思えばできないことはない。

 次に金がなくてもある程度の生活ができる社会保障の維持が欠かせない。極端な社会主義はかえって人を堕落させるが、自分の労働が自分だけではなく共同体の利益になることに喜びを感じられるような仕組みを作るべきだ。それには地方自治の確立が欠かせないだろう。自分の生活は自分の共同体で何とかするという気概がなければ、人々は堕落する。

 私が高齢者の仲間入りするまでもうわずかしかない。その中で単なる扶養者になるのではなく、できることを創り出しておきたい。

危機を好機に

 様々な位相において危機的な状況に取り囲まれている。停滞や閉塞と、その先の減退とを唱える人は多い。あまりにその頻度が上がって来たために、私たちは危機的状況に麻痺してしまっているのかもしれない。

 私たちができることは今の状況に対応することだが、その中で常に可能性を考えることも必要だ。危機的な状況というのは見方を変えればかなり偏ったものであり、偏りを解消しようとするエネルギーも蓄積されているはずだ。

 危機は好機にもなる。それを使うのか、傍観して事態が深刻化してもそれに順応していくのか、岐路に立たされているといえる。

真逆の展開

 自分の人生を考えるとき、思わぬ展開に走っていると思うことがある。こんなはずではなかったと考えるのだ。だが、その焦りを麻痺させてしまう毎日の雑事が私の生活を複雑にしている。

 もし、思う方向とは別の場所に向かっていると感じたならば、おそらく強い焦燥を感じて必死に軌道修正を試みるだろう。大きなロスもあるかもしれないが、目的から外れることもない。

 ところが実際には間違った方向に進んでいるという実感は起こらない。むしろそれなりの魅力ある毎日があってその中で自分を適応させてしまうのだ。結果的に望まぬ方向に進んでいたとしても。

 風雲流水、臨機応変の生き方がいいに決まっている。ただ、やはりこだわりというものは捨てきれるものではない。時々染み出してくる後悔の念が心をくすぐる。気がつかぬふりができなくなると大きなため息が出てしまうのだ。

 真逆の展開と考えるのはよして、もとからそうなる定めであったと考えることにしよう。これで当面は凌げるかもしれない。

朝の日課

 このブログは大抵日本時間の午前7時台に書いている。実は職場に向かう電車の中でつり革につかまりながらスマートフォンで入力しているのだ。

 私がこれに使える時間はせいぜい5分程度であり、職場では私用でブログは書かない方針なので極めて限られた時間であることになる。言い訳すればそのために記事の長さは限られ、時々(いやしばしば)尻切れトンボになっている。それは降車駅に着いてしまったことによるものなのだ。

 短い時間で駄文を書くことにも何らかの効果はあると考えている。世の中に対する関心を持ち続けることや、発信力の維持という目的はある程度達成されている。

 少ないけれども暖かく記事を読んでくださっている読者の存在も文を書く動機づけになっている。WordPressは外国からのアクセスも多いので、わかりやすい日本語で書くことも目標の一つだ。翻訳ソフトにかけても誤訳されにくい文にしたいと考えている。

 この日課は自身の脳と精神の安定にも寄与している。自分勝手な文だが、時々のぞきにきていただくとありがたい。

木を描く

 樹木を描くことに興味を持った。私の興味は突然現れるのでそれがなぜなのかは説明が難しい。木を描くときときに成長のイメージを考えながら描いていくということにちょっとした楽しみを感じたのだ。

 まず地面から芽吹いたものがやがて幹になり、そこから枝が分かれていく。さらに小枝に分岐し、そのうえでもさらなる分岐がある。それぞれの枝から芽吹きがあり、やがて葉が茂る。それが重なれば重なりが生まれ、その後それが木陰をなすことになる。

 その過程を鉛筆で描いているのである。もちろん正確な過程は再現できないが頭の中で考えることで長い時間を幻想することができる。決して人様にお見せできるものではないが、心を落ち着ける効果はある。

見えない何か

 見えない何かを伝えることは難しい。自分でも見ていないものの場合はもっと困難だ。しかしそれをやらなくてはならない場面は常にある。

 見たことがあることや、ものしか伝えられないのだとすれば、コミュニケーションの幅はかなり狭まる。ほとんどのことは聞き伝えであり、それを知識という名で納得している。知識を積むことは善なることで誰も躊躇いはしない。それを他人に話すことも知的営為とされる。

 ただ、未経験の知識は伝えることが難しい。伝えられても皮相なものになる。私はそんなとき幾分かの引け目を覚える。

 知ったかぶりはよくない。ただそれがなければ進歩はない。知らないことでも正しいと思ったことは伝えていくしかない。その根拠を補強する技を覚えなければならない。

気力

 何かをやろうとするときに気力というものが作用しているのは確かだ。言葉にし難いし、定量化も難しい。ただこれがないと体力があっても、感情的に安定していても何かを始めることができない。

 その理由を考えている。何かをしようとするとき、その自然な工程はまず心の中できっかけが生まれ、何かをしたいという衝動が起きる。それが脳に伝達され、器官に作用して行動に移るのだろう。実際にはもっと複雑でいくつもの分岐があるはずだ。

 ただ、最初の衝動が弱いとき、あるいは外発的なときに行動への移行がうまくいかない。それが気力のない状態なのかもしれない。主体的な生き方ができないとき、気力不足が起きるならば、それをふせぐ方法は絞られてくる。