民族学の用語にブリコラージュがある。これはいま見直すべき考え方だ。
未開民族を観察した学者が、現地調査で発見した様々なことの一つがこれだ。ありあわせのもので生活に必要なものを作ってしまうことをいう。私たちはものに溢れている生活に慣れすぎてこの伝統的な技を忘れてしまった。
大切なのは周囲をよく見ることだ。なんでも遠くから調達すればいいという訳ではない。こういう考えは資本主義には合わないかもしれないが、幸せに生きるためには必要なことかもしれない。
日々の思いを言葉にして
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民族学の用語にブリコラージュがある。これはいま見直すべき考え方だ。
未開民族を観察した学者が、現地調査で発見した様々なことの一つがこれだ。ありあわせのもので生活に必要なものを作ってしまうことをいう。私たちはものに溢れている生活に慣れすぎてこの伝統的な技を忘れてしまった。
大切なのは周囲をよく見ることだ。なんでも遠くから調達すればいいという訳ではない。こういう考えは資本主義には合わないかもしれないが、幸せに生きるためには必要なことかもしれない。
かつて住んでいた町の住まいだったあたりの場所を歩いてみた。桜並木は苔生して老木の趣きがある。何も知らなければ由緒ある並木なのかと思うばかりだ。
でも、確かここに住んでいた頃は頼りない若木にようやく花をつけるといったものだった。それがこの堂々たる幹と根回りを見せるようになったのは、それだけ歳月が過ぎたということだ。幾多の嵐と、大地震、それよりも深刻な大気汚染、異常気象に晒されて逞しさを身に着けたのだろう。
桜並木のこの姿を見ている私もまた年老いたことになる。風格も威厳もなく、周囲からも尊ばれることもないがそれでも己の見たことを覚えていられるだけましということだろう。そう考えることにする。
外出自粛でネットのサービス利用法はかなり上達してきた。コロナ禍の前と比べると格段の進歩だ。ほぼ毎日テレビ会議をする教員になるとは予想だにしなかった。
ただ、リモートで何かができるといっても、それはディスプレイの画面上の出来事に過ぎない。リアルな経験のないものだ。
仕事はそれでできるものはしたほうがいい。時短になれば益がある。対して実感を大切にしたい場面では害になることもある。
これからは本物に会うことを大切にしたい。それが実感できるのもコロナ禍のおかげともいえる。
俳優の多くはいまの容姿容貌をなるべく長く持続したいと考えているのだろう。いつまでも若くありたいという多くの人の共通の願望に加え、獲得したキャラクターを使い続けたいという商業的理由もあるはずだ。
ところが誰も時の流れに逆らうことはできない。どんな最新の医療や化粧の技を駆使しても確実に加齢の現実は現れる。むしろ抗おうとすればするだけ、段階的に容姿は変化し、急に老け込んだかのように見えることすらある。それを分からないようにしてもやはり気づいてしまう。
昔、一世風靡した俳優を何らかのきっかけで目にしたとき、その変化に驚くことがある。暫く見ていなかった人ほどそうだ。恐らく様々なアンチエイジングを施した結果であるはずなのに。
顔を売る仕事の人たちがこうなのだから一般人はもっと劇的なはずだ。私も過去の写真をみると変化が甚だしい。見た目はどうしようもならない。
外見の変化と内面は必ずしも一致していない。精神は昔のように若々しい人もいる。せめてこの方は時に逆らってみたい。
この国を再起するためにはイノベーションしかないと言われて久しい。しかし、研究開発にかける資金もそれを支援する制度も不完全な現状では一向に進む気配がない。残念ながら何も起きそうもない気がしている。
でも、そうでもないという人もいる。日本型のイノベーションとは新しい物をゼロから生み出すことではない。むしろこれまであるものを組み合わせたり、新しい解釈を加えることで新機軸を作り出してきたのが我が国のあり方だった。最近はその方法を忘れてしまったかのような気がする。
でも、この国に染み付いた文化融合のエネルギーはそう簡単には消えないだろう。まずは自国が一番というおごりを捨てて周囲の良いものを見つめることだ。その謙虚さが新しいものを作り出す始点となるだろう。我以外皆我師の精神をこの国が取り戻せば、また新しい展開が見られるはずだ。私もその一員としていろいろなことに関心を傾けていきたい。
最近つくづく集中力がないと思う。自己反省甚だしい。多くの時間がネットに奪われまさにスマホ脳になっている。もっともいまもスマートフォンでこのブログを書いているのだからどうしょうもない。
このような行動をかつては他人事として軽蔑さえしていた。いまは誰も難じることなどできない。自己変革をするしかない。
考えていることはブログを含めてネット接続する時間の上限を決めたいというのがある。書きたいことはノートかオフラインのデバイスに書こう。幸い私の自宅は通信環境があまり良くなく、ネット遮断は簡単にできる。
アウトプットは減らさないが脇道にそれる時間を減らしていきたい。
日本では学校や多くの企業が4月を年度のはじめとする。だから、10月はその後半の始まりだ。緊急事態宣言が取り下げられて社会的にも一区切りがついた。具体的にはまだ何も変わっていないが、変化の兆しはある。新しい生活を始めよう。今朝はそんな気分だ。
人のために何かをすることは自己実現の大切な方法だ。自分の利益を考えているだけでは行き詰まる。他者の幸せに貢献することが結局は自分の心身を豊かにすることにつながる。
利他的な行為は義務感や責任感がはりついている。そこに息苦しさとか胡散臭さを覚えてしまうと次に進めなくなることも多い。身近なことの繰り返しが何よりも大事なのだろう。日常的に感謝したりされたりする流れがあれば継続しやすい。
だから、ありがとうは意識して発するべき言葉なのだ。自他を幸せにする呪文のようなものなのかもしれない。
感染予防の用語はいわゆる流行語の上位を占めている。スティホームやゴートゥートラベルなど文法的にどうなのか心配なものや、オーバーシュートの様に最近聞かなくなったものもある。最近の用語としてはバブルが印象的だ。
感染の範囲を限定するために生まれたバブルの概念は、ウイルス感染に対して運命共同体を形成しようとするものらしい。どうしても協働しなければならないときの策である。オリンピックの運営で使われたのをきっかけに普及した。
その意味では家族は究極のバブルだ私にとっても家族はかけがえのないパートナーであり、まさに運命共同体だ。にもかかわらず、ついそのことを疎かにしてしまう。もっとも大事なのはいつも近くにいる家族に他ならない。私は表現ベタであり、思っていることを軽々しく話すべきではないという美学を持っている。しかし、それ故に感謝の気持ちを伝えられていない。
もっとも近くにいるバブルを大切にしたいと考えている。
少し後のことを予見することは確かにあると考えている。次はこうなるという直感だ。多くは単なる妄想と片付けられてすぐに忘れてしまう。あとから考えるとあの時見た風景はこれだったのかと思うのだ。
答え合わせがいつも後になるという点においてこの予感はエビデンスを持たない。でも、ある程度の確率でそうなることが実現するのだから、これは前もって記録でもして置くことにしたいと考えてしまう。
私の場合はショートショートにまとめられるときにはまとめている。小説の卵みたいなものにも見える。もっともかなり脚色してそうなっているのだが。根拠のない妄想もきっといつかなにかの役に立つと信じて。