タグ: 自己啓発

2021年を振り返って 4月まで

 この一年を振り返る企画を今日から3本書いていくことにする。今回は主にに4月までの出来事から。

 1月は1都3県に緊急事態宣言が発令され、コロナ禍がまだ継続することに残念な気持ちを強くしていた。アメリカでバイデン大統領が誕生すると、アメリカ議会への暴徒の乱入という大事件が起きた。にもかかわらずアメリカ株式は上がり続け、経済の異常事態を実感したのだった。

 2月は日本でも新型コロナウイルス対策のワクチン接種が始まった月であった。私自身は7月まで待つことになったのだが、新たな展開を感じさせた。オリンピック組織委員長であった森喜朗氏が女性差別ともとれる不適切な発言をしたことから職を辞し、日本の指導者の意識改革が必要なことを痛感した。高齢指導者は引退すべきという論も見られた。これは高齢化社会に入っている我が国にとっては大きな自己矛盾だ。大切なのは歳を重ねてからも学び続けることだ。

 3月は東日本大震災から10年を迎えた月であった。コロナの影響で十分に報じられることがなかったのは残念だった。10年たつとすでにいろいろな記憶や経験が風化していることに気づかずにはいられなかった。緊急事態宣言が解除になり、ようやくこの病魔と決別の日が来るかもしれないと一時は考えたこともあった。

 4月からは新規感染者が急速に増えだし、再び緊急事態宣言が発令された。どうも今回は増え方が激しいので政府の対応を問題視する声も聴かれた。私にとっては新年度の切り替えの月であり、様々なことが変化した。そしてそれらを一つずつ受け入れた。昨年度がかなりのオーバーワークだったので、いろいろと整理されて効率が上がった。

ひとりじゃない

コロナウイルス対策の副作用は様々な面に現れているが、その一つが精神面である。経済的に追い込まれて困窮する人もいれば、それほどでもなくても精神面において大きな困難を抱えている人も出てきているようだ。本来人は群れて生きるものであるのに、距離を取れというのが命令のように言われ続ければ困惑してしまうのは当たり前だ。

このように追い込まれているのは決して一人ではない。みんな同じ悩みを抱えているということを共有する必要がありそうだ。行き詰まりになっているように思える人は視野が狭くなっているはずだ。私自身もそのような経験は何度もある。まだ自分に余裕があるうちに言っておこう。

私達はひとりではない。そうは見えないかもしれないが、みんなで助け合って生きている。だれもが誰かを支えている。

読み直し

 学生時代読んでいた古典作品をもう一度読んでみたいと思うようになった。私の場合は古典といっても文学なのでまさに趣味的な世界である。

 最も興味があるのが江戸時代のあたりの人物伝であり、いわゆる奇人伝と呼ばれるものだ。奇人と言うと精神異常者のように考えられるが、それだけではない。強烈な個性の持ち主ということになる。何か一つに秀でたものは他の方面では異常者のように見えることもある。それを描いたのが奇人伝のジャンルである。説話がさらに進化したものであるが、関心が人物そのものに向かっているところが中世のものとは異なる。

 もちろん昔の変わった人の話を読んでも何の益もないかもしれないが、日常の価値観を逸脱して自由になるためにどのような方法があるのかを考えるきっかけとしてはいいのではいだろうか。江戸の文学を読むための十分な知識は私にはないのでかなり恣意的な読みなるがそれもいいのではないかと割り切ることにした。

数学ができる文系

 いまさら文系理系などということ自体が時代錯誤なのかもしれないが、あえていうならこれからもっとも必要とされるのは数学ができる文系だろう。

 AIの発展により単なる技術系は存在感か薄くなる。必要なのはアルゴリズムを理解して行動できる人材だ。機械は法則にしたがって動く。法則はより複雑になるだろうが必ず何らかの基準をもとに動く。それを理解して将来の動きを判断できる人材がこれからのリーダーなのだろう。

 私が理想とする上司とはかなり異なるがこれは避けられない。この文章の読者がもしまだ学生なら少なくとも数学は捨てるべきではない。点数は取れなくても嫌ってはならない。十分に大人になってしまっていたら、子どもや後輩に数学の学習を勧めるべきだ。必ずその人の役に立つはずだ。

 私とて諦めてはいない。中学生の数学も解けないが興味だけは持ち続けたい。

苦しいときほど

 昨日が冬至であったということはこれからは昼の長さが増えていくことになる。気温は少し遅れて下がるから、まだ寒い日が続くが冬来たりなば春遠からじ。

 心の状態を保つのは結構難しい。ふとしたことから乱れが生じ、それがまたたく間に増幅してしまうことがある。不安は連鎖し他者にも影響を及ぼす。悪循環である。

 気分の好転もふとしたきっかけで起きることもある。それを見逃さないことが大切だ。なければ作らなくてはならない。苦しいときほど笑顔を作れという先人の言はそういうことなのだろう。

冴える時間

 最近、残念ながら頭脳の衰えを痛感している。恐らく身体的能力という局面においてかつてのような瞬発力や持続力がないのだろう。近年読んだ本の中で、脳細胞は他の器官よりは長持ちするものという説明があったが、やはりそれにも限度がある。

 恐らくこれからもっとこのような衰えを感じる機会が増えてくるのだろう。これは生きている以上避けられない現実だ。誠に悔しいが受け入れざるを得ない。

 ただ、そうであってもかなりうまくいくこともある。どうやら頭が冴える時間帯があるようだ。私はこのブログを10数分の満員電車の車内で書き上げることが多い。今もそうだ。完成度はどうであれ、私の頭が冴えるのは起きてすぐの数時間だ。それ以降はパフォーマンスが下がる。ならば冴える時間に創造的なものはやってしまうのがいい。

 以前も書いたが、これからは短期決戦だ。時間の使い方もこの考え方で行くほかはあるまい。


つぎはぎ

 記憶はときに曖昧になり、脱落したり変容したりする。過去を正確に再現することは難しい。時間が経てば経つほど、事実は分からなくなる。

 ただ、私たちの思考や行動がこれまでの経験に裏打ちされているのは紛れもない事実だ。その基準となるものが揺れ動くものであることが不思議なのである。

 文字や映像に残せば少しはましになる。でもそれをどのように受け取るのかはどんどん変わってしまう。結局はつぎはぎの記憶と印象を組み合わせて私たちは今を生きていくしかない。

時間短縮恐怖症

 作業時間の短縮を呼びかける人たちの中には、明らかに心的な余裕をなくしている人がいる。作業時間を減らせば効率が上がるというのは事実だが、それで終わってしまえば自分を機械に調和させたというだけの話だ。

 大事なのはその後である。機械的な仕事は効率化してより曖昧で複雑なことに関する考察をする時間を持たなくてはなるまい。作業効率はそのための手段に過ぎない。となると、そのより高次の思考にも機械的な発想を持ち込まないか心配になる。

 決められたことを処理する仕事と、未知の分野を開拓する仕事は性格が異なる。試行錯誤の上で無駄になることが数多く出てしまう。まさに失敗の山からわずかな成功を見いだすことが寛容だ。

 時間短縮恐怖症の人々にこの忍耐力を持っていただかなくてはやはりイノベーションは起きず、徒労感のみが残ることになりそうだ。

 漢字検定協会の今年の漢字が発表された。「金」なのだそうだ。オリンピックがあった年であり、給付金制度をめぐって議論があった年であるからうべなるかなということだろう。

 でも、私たちは金には別の意味も感じる。いっこうに上がらない所得もまた金である。恐らく政府なり財界なりの失策が健在化しているのだろう。責任追及も大事だが、それよりも今そこにある危機を乗り越えなければなるまい。そのためには国や自治体に頼らず自己開拓で稼ぐしかない。その覚悟をくれた年でもある。

 金は最後の頼れる資産という人もいるが、昨今の相場は下がるばかりだ。貴金属もよいがいまは明日への安心感がほしい。来年の漢字が幸になることを祈らずにはいられない。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

語彙力アップ 漢字しょうぎ
価格:1386円(税込、送料無料) (2021/12/13時点)


できないことを意識して

 最近、以前とは同じようにできないことを思い知らされる場面が増えている。もっと頑張れたことができない。自分を甘やかしているわけではないが、できないことが増えてしまっているのはしかたがない。

 ただそれでもあきらめるつもりは全くない。これまでのように時間をかけてじっくりやるというのは体力や気力の制約があって難しい。やるなら短期決戦だ。そして、完璧を求めず量産することだ。これは俳句を作るのに似ている。たくさん作ってたくさん捨てよ。俳句の師の教えである。句作のみならず、これからの仕事の大半はこの戦略で行こうと思う。

 今大切なのはなんでもできるとは思わないことだ。今できることを今できる範囲でやるしかない。それが凡人の戦略であり、唯一できることなのだろう。私はこの方法は他の方にもお勧めしたいと思っている。完成品を求め過ぎないことが大事なのではないか。中途半端でも発表し続けることでスキルが保たれ、上達もしていくのではないかと考えている。今できることを今やるということだ。