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キャラ変

新しいクラスでもあなたはあなた

 新年度、新しい環境に変わる時期だ。人によっては自分の立ち位置をどうするかで迷う人がいる。私は結局ありのままの自分を続けるのでいいと考える。

 生徒ならばクラス替えが、社会人でも配置換えや転職で自分の立ち位置に迷うことがある。浮いたらどうしようとか、似たような人がいたらどうするとか迷う。これはいつになっても思うことであり、新人だけの悩みとは言えない。

 浮くとか、キャラが被るとかいうのは結局他人を基準としている。他者の目を通して自分を考えることは間違っていない、ただ、先程の心配は他人は自分をどう見るのかという予想によるもので、いわば取り越し苦労だ。他人がどう思うのかなど誰にも分からない。

 だから無理にキャラ変をする必要はない。他人に合わせるのではなく、自分の存在を他人に認めてもらうことで十分だろう。無理をしても苦しい。恐らく他人はそんなに厳密に人間観察をしてくれるものでもない。なるようになる。

 もし、この際違う自分になりたいというなら試してみてもいいかもしれない。逆はお勧めしない。ただ、苦しいだけだ。

嘘は

嘘もつきよう

 エイプリルフールの日だ。ウィットの利いた嘘は楽しいが冗談が通じない相手がいるこを忘れてはなるまい。

 嘘はどろぼうの始まりという。どろぼうとは悪人の代表のことであり、盗人だけではない。倫理に反する行為だといいたいのだろう。

 一方で嘘も方便とも言う。目的達成のための嘘は場合により許されるという訳だ。確かにこの論理は現実世界にはいくらでもある。近代社会のあり方も、様々な嘘から成り立っている。多数決原理というのも巧妙な嘘が内包されている。

 だから、これは嘘だと明かした上で堂々と嘘を言うことが必要になるのかも知れない。エイプリルフールはその一つだ。

ひらめき

ひらめきは飛んでいく

 突然何かをひらめくことがある。画期的な考えだとその時は思うが次の瞬間には忘れている。こういうことは誰にでもあるのではないか。それを言葉にし、さらに形にできる人は極めて少ない。

 いいとひらめいたことをすぐに書き留められるものがあればいい。私の場合、このブログがある程度その役割を果たしている。ただ、文に整形する間にどんどん大事なことが抜け落ちている。そもそも言葉にならないものを言葉にする時点で取捨選択がなされ、バリのような部分が削ぎ落とされてしまう。

 ひらめきを形にしたものはときとして難解で稚拙に見える。しかし、それを恐れてはいけない。思いつきは考える以上に生なましい。それを益なるものにするのには多くのどうでもいいものを生み出さなくてはなるまい。

感受性

 残念ながらかつてのような感性は失われている気がする。これはある程度は仕方がない。しかし、歳長けてもできる方法もあるのではないか。

 箸が転んでもおかしいという譬えがある。箸でなくても鉛筆でもなんでもいい。日常とは異なる風景が意図せず起きたことに対して喜怒哀楽を感じることは誰にでもあるが、若い頃は概してそのハードルが低い。素直に状況に対応できるからだろう。

いつもと違う1日にする

 ある程度歳を重ねると、経験を類型化して把握するようになる。今起きていることを過去の出来事の変型として捉えそれ以上の反応はしない。だから感情的な反応は起こりにくい。前に見たことしたことと考えてしまう。これは生きるための知恵のようなものだ。いちいち心を震わせていたら消耗してしまう。

 感性の繊細さはこの生きる知恵とトレード・オフの関係にあるのかもしれない。子どものような感性には憧れるがまったく同じになったとしたら気が変になりそうな気がする。世間はあまりにも複雑であり、いちいち相手はしていられない。鈍くなるのは大人として世の中に折り合いをつけているということなのだ。

 それでも、ときには何かに囚われず世界を見てみたい。私の場合、少しだけアルコールを飲むとそんな気分を味わえる。しかし、恐らくそれは幻覚だろう。極めて有効期限が短く、大抵の場合は飲みすぎて何もできなくなる。言葉は悪いがこれはある種の薬物を投与するのと同じで害の方が多そうだ。

 ではどうすればいいのだろうか。一つには瞑想がある。ただ、良い方法を知らない。大がかりの物がいるものならば続かないし、やる気にならない。深呼吸や座禅もどきのようなものは時々やる。それなりの効果はあるがこれも長続きしない。大掛かりでも簡単すぎてもだめなようだ。

 それよりは、意図的にルーティンを壊すことの方がいいのかもしれない。いつもと別の見方をするように行動を変えるのだ。やり方を変えたり、行き方を変える。非効率になることは間違いないが目的は生産性ではない。新しい発見ができればそれでよしだ。

 習慣を変えるのは実はとても難しい。私たちの行動や思考の多くは反復される日常の中で形成されている。それを逸脱することは言動の基準を失うことである。でもこれを行うことは大切なのだ。

 感受性を取り戻し、磨くことは新鮮な体験に裏打ちされる。この体験の方を自ら演出していくことが感性の涵養に繋がる。

3G終了

携帯電話も世代交代

 KDDIの携帯電話ブランドauは今月いっぱいで3G回線を廃止することを発表している。私は数年前に4Gの折り畳み式電話に変え、一昨年末からスマートフォンにしている。かなり後追いの部類に入る。スマホの便利さは十分に享受しているので、今更逆戻りはできないがガラケーと呼ばれる3G携帯電話がなくなることは残念な気がする。

 初めて携帯電話を持ったのはいつだっただろうか。確かパソコンを買い替えた時のおまけとしてついてきたのだと記憶している。液晶画面が小さく、メールが送れるといっても非常に限られた機能であった。最初に受信した迷惑メールは「メルトモナロ」で何のことか分からなかった。携帯電話の会社の名前自体も変わり、スマートフォンの登場で世の中は急変した。いまや電車の中でスマホを持っていない人はわずかであり、すっかり魂を操られている。

 いまは5Gの普及期であり、すでに次の世代の構想も明らかになりつつある。単なる一対一のコミュニケーションツールではなくなっただけではなく、人間の思考や行動全体を操作することも可能になっている便利で魅力的で恐ろしく破壊的な道具をどのように扱うのか。これからも注意していかなくてはならない。

当たり前のありがたさ

 今の生活が必ずしもよいものとは思えない。むしろ理想形からはほど遠い。どうしてこんなことをしているのかと嘆くこともある。ただ、それでも毎日を過ごせることのありがたさを再考してみたい。

 

明日の夕日も見られるか

 震災で命を落とした人の大半は、地震の発生する直前まで普通の毎日を過ごしていたはずだ。無情にも突然の災禍が命を奪った。誰にも予測不能なことだった。新型コロナウイルスでなくなった人も、パンデミックが命を奪うとは誰も思わなかったはずだ。戦争もまた然りだ。

 明日のこの時間も生きているという保証は実は誰にもない。無常の世には何の約束もなく、未来があるというのは希望に過ぎないのだ。

 それでも私たちは比較的安心していられる身にある。当たり前のように行ってきますといい、そこには必ずただいまが続くと信じている。信じられる社会がある。当たり前といえる環境にあることに感謝すべきだとつくづく思う。

運動不足

 人にものを教えることを仕事にするといろいろなことに気づく。その一つが自分自身の未熟さへの痛感がある。いかに思う通りのことができていないか。それを苦々しく思う毎日だ。

 朝から日の沈んだ後まで働いても、得られないことが多い。仕事が作業として感じられる日は徒労感に苛まれる。こういうときはしばしば失敗する。だからさらに負のスパイラルに陥りやすい。

 何が足りないのかを考えてみるに、やはり業務の効率化を求めるあまり、余裕を失っていることに原因があるとみた。多くの方が指摘されるように軽い運動などを挟むといいらしい。

 こういうことを始めるにはきっかけが必要だ。今日は机上のパソコンに運動のためのブレイクの時間を知らせてもらうことにする。

リテラシー

疑うことも大切だけど

 よく聞く言葉にリテラシーがある。読み書きの基本的なスキルのことらしいが、そういう意味で使われることは少ない。上に何か言葉を冠してそれを理解し使いこなせる力という意味で用いられる。

 情報リテラシーはその中でも大変よく耳にする。情報が商品となっている現代において、情報をいかに受け取り、理解し、活用するかは生活に直結する。現代人は情報交換の手段はたくさん持っている。ただ、それを活用できているかと言われれば甚だ怪しい。

 ソーシャルメディアに実はウクライナでは戦争は起きていないという発言が出た。現地の人からの証言もあるという。たくさんのリアクションががあり、中にはだからマスコミは信じられないと憤るものもあった

 真相は現地に行かなければ分からない。だが世界の報道機関がこぞって戦場を報告している中で、すべてが虚偽であるというのはどうしても無理だ。それに同調してしまう人が少なからずいることに恐怖を感じる。

 東日本大震災のときの数々のデマも記憶に新しい。地震を意図的に起こした者がいるなどと言っていた人もいた。あの規模の地殻変動を起こすためのエネルギーがどの程度いるのか考えた方がいい。

危機的状況にあるとき人は情報の扱いを誤る。それを未然に予防するにはリテラシーを磨くしかない。ただこれが結構難しい。私も偉そうなことを書いているがしばしば騙されている。

 基本に帰って自分の判断力をつけることがまた求められているといえる。

できないことをする人

 自分ができないことをする人に対する賛辞を忘れてはならないと思うことが増えた。その背後にある時間の濃密さを僅かながら考えることができるようになったのかも知れない。

 どうしても自分の能力ではできそうもないことをやってのける人にお会いすると感動することが多い。職人と呼ばれる人の中にはこうした技の持ち主がいる。世の中が効率化や平準化に向かう中で。自分なりの信念を貫いて仕事をする人は特に惹かれる。

 技の裏にはそれを完成するまでの長い努力があり、それを維持するための継続的な意志がある。実はその見えない時間の塊に私は感銘するのだろう。

 そういう人たちが必ずしも評価されていないのが現代の問題点ではないか。もっと正しいものの見方をしなくてはならないとつくづく考える。

3月

3月です

 今日から3月が始まる。私の職にとっては年度末であり、色々な変化が一気にある。

 なかなか終わらないコロナ対策の日々、始まってしまった大国の関与する戦争、花粉症への対応とまずは基盤にある問題を切り抜けなくてはならない。

 それに加えて業務のまとめと引き継ぎ、非定期の案件の対処などやるべきことが多い。何から手を着けるべきなのか。考える暇もないほどだ。

 もし10年前の自分なら残業や休日業務などで切り抜けたはずだ。いまはその体力が足りない。その日できても後が続かない。いまはできることからやる。できなければ諦めるという体たらくだ。

 でも、結果的にはその方がいいのかも知れない。ゴールを欲張らず、大切なことだけを完全にしたほうがいい。そう考えることにした。