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違う仲間に説明する力

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 ソーシャルメディアが普及しても文章表現力が上がったと言われないのは、「ともだち」にしか配慮がないからだということになる。自分と同質の人たちに「いいね」をもらうための発言は、説明という面倒な作業をする機会にはなっていないのだ。

 インターネットが普及する前のことを知る人がどんどんいなくなっているような気がする。かつては文章を頻繁に書く人と、ほとんど書かない人に分かれていた。筆まめ、筆不精などと言われた。そしてその比率は筆不精が圧倒的多数を占めていた。

 ネットが普及してみなが文字によるコミュニケーションを強いられることになった。手紙文のような作法はなく、話し言葉のように書けるのは魅力的だったが、もともと文章表現力がなかった人々がいきなり文章を書き始めたから意味不明なものになったり、書き手の意図しない解釈がなされて多数の悲劇を生み出すことになった。ネット上の誹謗中傷は精神的な要素が大きいが、その中にはそこまで人を傷つけるつもりはなかったのにという言い訳をする人もいる。さりげなく批判の意見を述べるという表現法はかなり高度なものである。皮肉めいて発言するつもりが全力の罵倒のようになってしまう。筆不精がいきなり大筆で心の字を書くと半紙をはみ出してしまう。

 国語の授業にはいくつかの目的があるが、その一つに自分の考えを適切に表現するということがある。口頭表現でも文章表現でも同じだが、口頭での言い方は国語以外でも指導はできる。対して文章の方は国語授業が主に担当する。指導の際に大切なのは読者の設定だろう。誰に向けて書いているのかをはっきりさせることが肝要だ。隣の同級生に対してなら、ある程度の俗語や仲間内の符牒も使える。同世代なら知っていると期待できる知識は説明しなくていい。それが5歳年上の人ならどうだろう。さらに親世代ならそういった共通理解は期待できない。さらに別の地域、別の国と環境を異にする人々に説明するとなると違ったものにせざるを得ない。

 自分とは異質の環境や生活様式にある人にどのように説明すればいいのかという問題意識を持たせるのが国語の教員の仕事である。もしかしたら多国語への翻訳は機械がある程度やってくれるかもしれない。昨日の投稿は機械翻訳にしてはまずまずの英語になっているように感じる。でも、どのように説明するのかという問題は人間が考えなくてははならない。用語の問題、具体例、論理展開、わかりやすさ、親しみやすさなどの調節は当面人間の仕事だ。

 生徒諸君に「ともだち」に「いいね」させる以上の文章を書く能力を自覚させ、身につけさせる。それを目標にしていきたいと考えている。

分からないことが前提

分からないことだらけ

 なんでも検索すれば分かると考えてしまうのが現代人の発想法のようだ。確かに手元のスマホで検索すれば説明が即座に出てくる。音楽を聞かせれば曲名や演奏者の名前が瞬時に分かるし、昨日は道端の花を映像検索して和名や学名を知ることができた。検索可能な世界観はこのようにしてできあがっている。

 しかし、本当は検索などできはしない。同じ花でも株ごとにみんな違う。音楽は同じ音源であろうといつどこでどのような目的で聞くかによって意味が変わる。記号化された世界は、その網目があらすぎるといい加減な把握になる。結果として大切なものを取りこぼす。

 分からないことが世の中にはたくさんあることを再認識するべきなのだ。誰か別の人が調べたことで世界が説明しつくされている訳ではない。検索しても分かったつもりになってはならない。分からないことだらけの毎日こそが現実であり、それ故に私たちは豊かな可能性のある日々を生きているのではないだろうか。

Another station, another story.

 通勤電車や旅行中に電車に乗るとき、時々思うのは駅ごとに物語があるということだ。それぞれの駅にまつわる歴史があり、その上で人々が重ねていくエピソードがある。

 仮に住まいを今とは別の駅の近くに構えていたらと考えることがある。別の道を歩き、別の店で必需品を買う。別の学校に通い、別の病院のお世話になる。そういうことがいくつも繋がるのだろう。

 この駅の近くに住んていたら、あの駅ならとさまざまに考える。するとそれぞれに違った人生の選択肢の可能性が浮かび、逆に実現しなかったバリエーションが考えられる。本当にこれで良かったのかという反省も起きるが、もしかしたらこうだったかもしれないと考えるのは楽しい。

 駅はそういう可能性を想起するためのきっかけであり、テレビのチャンネルのようなものだ。

違う頭

違うことをやってみる

 すぐに閉塞感を感じてしまうのは同じことばかりを繰り返しているからかもしれない。違う行動が別の思考を生み出すこともあるのかもしれない。

 最近、何かに行き詰まりを感じている。本当は何が起こるかわからないはずだ。なのにすべてが決まっているかのように感じてやる気が起きない。私の中に定期的に繰り返される悪循環だ。

 長い間同じようなことを繰り返しているというのに、また抜け出す方法が分からなくなっている。恐らく解決策を見つけないままここまで来てしまったのだ。

 恐らくよく言われるようにルーチンを破ることが突破の手立てなのだろう。いつもとは違う頭を使う機会を持ちたい。

気づかせる方法

気づかせる
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 教えることというのは情報の伝達ではないことが分かってきた。ある情報を他人の記憶に移すという行為は大切だが、この方面については人体以外の道具が補ってくれる。伝統的には筆記をすることで記録が残るし、最近ではコンピューターが膨大なデータベースを構築し、なおかつ瞬間的な検索も可能だ。情報の蓄積が知識というのは、大きなものの一部分を指しているに過ぎない。

 知とはどのような行為かを改めて考えると、現実には目の前にないものや現象を考え、何らかのイメージをつかみ取ることではないかと考えられる。その際に過去の歴史や、自らの経験が役に立つ。しかし、それらの情報はあくまで考えるための材料であり、知的行為はつねに現在行われるものである。

 教育の場面も先人の巨大な肩の上にの乗るだけではなく、そこでどのようにものを見て、何をつかみ取るのかを経験させることが必要だと考える。文法、語彙の知識、理論や法則、歴史上の事件などを駆使して自分なりの世界の捉え方を試してみるというのが学校という場所なのだろう。

 残念ながら、私自身は単純な知識の蓄積が学問だと考えてこれまでの人生の大半を送ってきた。学術論文を書くときにわずかにそれを超えた実感を持ったが、多くは他人の用意した快適な空間の中でなにも疑問を持たず、新たな提案もせずに生きてきた。平和に生きるためにはそれが必要だが、それだけでは閉塞的な状況からは抜け出せない。

 学ぶということは教員の伝えることを吸収したうえで、それを乗り越え、批判して、自分なりのやり方を試行錯誤する段階にいたることであると気づかせなくてはならない。それには教員が用意した知識の再現を評価のゴールにするのは間違いなのだろう。

考え方の癖

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 考え方には癖があるのではないか。その癖を利用すれば効率のいい教育ができるかもしれない。

 新しい学びを始めるとき、私の場合はノートを広げても何も書き始められない。何を書けばいいのかわからないのだ。思考の手順というか、道筋というのが見えていないうちはいろいろな情報がただ並列に広がっていく。思考のテーブルに置ききれなくなってこぼれ出すと学習の意欲が消えて行ってしまう。

 何かを考えるとき、最低限の道順を決めてあると学びが続きやすい。それを助ける役がコーチなのだろう。まずこれをやり、次にこれをやるといった助言だ。自走できるようになったら本人が学びの幅を広げられる。その先はコーチの能力を超えていく。学校の教員ができるのはこの役である。

 ならばコーチは、つまり教員は生徒の学びの癖を知り、学びやすいように助言をすることが職務上の重要事ということになる。そこまで私はできていない。相変わらず、教科書を右から左へと読んで聞かせているに過ぎない。

 教員の仕事は教材を提供して考える空間を作り、最初の二三歩の歩き方を教える。そこに尽きる。考え方の癖は一人一人違うはずだ。それを知ること、そして面談を繰り返すことが学びの発動にはかかせない。しかし、それはできているのだろうか。

タスク制限

同時にはできません

 マルチタスクを夢見ることは諦めて、一つずつ愚直にこなすことを心掛けたい。人は誰でも多動に向かないというが私は特にこの方面の能力が低い。タスクを制限するすべを考えなければならない。

 いろいろな仕事を同時にこなす人がいる。かっこいい。しかし、これができる人とできない人がいる。私は後者だ。ただ、運悪く私の仕事は基本的にマルチタスクだ。授業をしながら、生徒の生活を管理し、保護者と連絡し、部活動の顧問を引き受け、学校の運営にも駆り出される。教員の多忙さは個々の業務の重さというより同時にいろいろなことをバラバラに、しかも短い期限内でこなさなくてはならないことから生じている。

 だからマルチタスクを完全に拒否することはできない。せめてマルチの度合いを下げることに工夫を凝らすべきだ。やることに優先順位をつけるのがいいと言われる。最近はやるべきことをリストとして書き出し、順番を考える。ただ、それでも飛び込みの仕事が次々に入る。

 マルチにならないための方法は結局仕事を断る技術を得るしかなさそうだ。他の誰かがやることになるのが心苦しいが、引き受けてできないよりは組織としては幸せだ。

分岐

あれこれ考える

 マインドマップの作成アプリを試してみた。自己分析のツールとして、アイデア創出の手段として使われるものである。限りなく分岐していく図を見ると思うことが色々ある。

 考えが分岐するとはどういうことなのか。ある考え方の元に複数の可能性を考えることだ。正と負の関係もあれば並列の関係もある。並列といっても対等な枝分かれもある一方で、枝の太さが異なるものもある。不思議なことにその区別は無意識に行われる。

 脳内のイメージを樹形図に描くことはあくまで手段に過ぎない。実際はかなり複雑である。少なくとも二次元では表現し難い。だが、マインドマップを使うと分かったような気になれるのは確かた。言語化と図式化のもたらすものが大きいからだろう。三次元にすると複雑になり、明瞭さがなくなる。

 考えが分岐する原因は何かを考えることがある。なぜこうもああも考えるのだろう。考えることができるのだろう。その謎を考えることが人間のあり方を考察することに繋がるということなのだろう。

成長

 

育てるとは

 花を育てたり、動物を飼っている人はよく理解しているはずだが、成長の仕方には個体差がある。どれもが同じように育つのではない。人もそれと変わりない。

 育苗の例でいえば、揃わないものを間引くという作業がある。経験上、この時期までにこの段階に達しないものは結実しないといった知識がそうさせる。ただ、それは統計上の確率であって、実際の結果は誰にも分からない。

 人に対しては動植物ほどには露骨に差別はできない。でも、今の時期ならこのくらいできるのは当たり前だという考えが潜在している。できないことに苛立ち、ときに叱責する。でも、成長は個人差があるものなのだ。

 教育を生業にしている身としては至極当然のことであるのに、時々忘れてしまうことがある。だからときに花を見て思い出さなくてはならない。

新人教員諸君

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 今年初めて教壇に立つ新人教員に申し上げたいことがある。私は何事も続かない不出来な人間だが何の因果か教員だけは続いている。男子校、女子高、共学校、中学、高校、短大、大学で教えたことがあるという変な教員だ。あなたの身近にいる先輩に比べると大したことはないが、年配者の戯言につきある勇気があれば以下の文章を読んでいただきたい。

 教員というのは基本的にはサービス業だ。ただ、お客様は神様ではない。後で神様になるかもしれない人材を育てる役割だ。この辺を間違っている先輩は多い。生徒や保護者の言いなりになっている。私はそれは違うと思う。基本的にずるい性格なので、それとわからないように小出しに、本人や親にあなたは神様ではないということを言っている。こういうことが堂々と言えるのは教員だけかもしれない。

 それでもサービス業である限り、自分が頂点であると決して思ってはいけない。あくまでも生徒やその保護者をレベルアップさせるための触媒の役割を果たすべきだ。私はこのことを悟るまでにかなり時間がかかった。教員はそこに喜びを見出すべきであり、安易な自己満足をするべきではない。

 今の日本の教育システムはご存じの通りかなりの矛盾をはらんでいる。多くの生徒を平均的に扱うことを前提としながら、個性の重視などと言われる。これは初歩的な矛盾だ。個性を重視するならば一律に生徒を扱うことは間違っているのかもしれない。私は矛盾の多い社会への適応の機会を与えるのが学校であり、その矛盾の権化が教員だと考えている。制服の着方、髪の色、言葉遣いなど個性を生かせば他人に合わせなくてもいいだろう。でも現状の日本社会ではそれではうまくいかない。国際社会においても決めるべき時に外してしまうと取り返しのつかないことになるようだ。

 自分と気のあう仲間だけで暮らせる世界があればいい。しかし、現実には正反対の価値観を持つ者たちとの共生を強いられるのが社会というものだ。国際社会ではその差異のぶれがとても大きくなる。それでもそこに対応する必要がある。自分が常識と思うもの、正義と信じるものが、他者にとっては非常識な悪徳であったりする。それを教えるのが、正確には体験させるのが学校だ。教員はその現場に常に立ち会う存在だ。

 教員は理想ばかり語るという批判は伝統的なものだ。自分はできないくせに理想ばかり言うのだ。それはかなり当たっている。でも諸君も躊躇なく理想を語るべきだ。今の時代、損得勘定なく理想を言える存在がどれだけいるだろう。教員はその意味では自信家であっていい。

 ただし、自分の理想が必ずしも世間の常識とあっているとは限らない。また間違っていることも多いと心得るべきだ。これは生徒にも伝えるべきことだが、教員に限らず誰のいうことでも正解ばかりだとは言えない。むしろ常に間違い続けていると言える。間違った時には素直に認め訂正すべきだ。それができるのも教員の特権である。

 教室を一人で任されるとつい自分がルールになりやすい。しかし、自分の存在は既述したとおり一個人の意見にすぎないことを忘れてはならない。自分とは違う立場の人間はいるし、その方がいいかもしれない。矛盾しているようだが、理想は語るべきだが、その理想は常に吟味すべきだ。そのためにも同僚とは常に意見交換をした方がいい。話が通じそうもない上司がいれば、積極的に接触すべきだ。異業種の人と話す機会があればもっといい。きっとあたらな価値観を教えてくれるはずだから。

 新人教員の皆さんには長く教員を続けてほしい。昨今は全く人気のない職種となってしまったが、これほど面白い仕事はない。職場環境の改善は少しずつ進むはずだ。あきらめずに続けていけば職員ではなく職人としての教員になれるかもしれない。私もそれを目指している。