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面倒くさいこと

 面倒なことを嫌うのは効率化優先の今日では当たり前のように考えられている。答えに出来るだけ短時間で、しかも低コスト、最低限の努力でたどり着くことが理想とされているようだ。この考え方は日本の社会全体を覆いつつあり、地道な努力をしている人を変人扱いしてそのつど毀誉褒貶の軸にかける。そして失敗した場合は冷笑して見なかったことにする。そんな風潮があるのは確かだ。 

 だからこそ、創作の世界の主人公は艱難辛苦を乗り越えて目的を達成しようとする。そこに感動する。それはあくまでフィクションの枠組みのなかで起きていることだからだろう。もしそれと同じことをやれと言われたら、多くの人は拒否してしまうのかもしれない。

やり遂げることが大切

 面倒くさいことは嫌うのは、実は私にもある。ちょっとしたことをするのにもスマホの検索や人工知能アプリの助けを借り、自分で考えようとしない。即座に回答があるが、それが真実なのかハルシネーションなのかを検証することもなく、次の検索に移ってしまう。確かに便利であり大抵の場合はそれで間違っていない「気がする」のだが、自分で考えた経歴がないので、すぐに忘れてしまう。

 学生時代、私は国文科の学生であったので、図書館にこもることが多かった。今のようなデータベースがなく、国歌大観のような検索本にも実は不備が多いと思ったので、結局原典をあたるという作業をしていた。仏教関係の典拠を探すのに「大正新脩大藏經」の壁と格闘して何日もかかったこともあった。そしてようやく見つけてゼミで発表すると、いやもっと古い経典にあると教授に指摘されてがっかりしたこともある。ただ、そういう苦労とその時のフレーズの一部はなぜか記憶に残っている。

 せっかく探した資料もそれをどのように解釈し、どう組み合わせるか、そしてどう評価するかで内容は全く別のものになる。いま、私たちはそういう過程を機械任せにしてしまっている。大雑把なことを言えば、価値が決まっているものを前提に評価を判断することには長けているが、価値を決めていかなくてはならないものが複数ある場合の処理の仕方は苦手のようだ。そしれ現時点での人工知能ができないことがまさにこれだと考える。私たちはこの分野の頭の使い方をもっと鍛えるべきだと考える。そのためにはやはり、面倒くさいことをやる経験を持たなくてはならない。

 そう思うから、なかなか答えを出せない人、考え続ける人に対して私は決して軽蔑することはできない。むしろ、そういう継続力のある人こそ現状を打破できるのではないかと少々羨望するのである。

満たされていない幸せ

 あまり物事がうまくいかなかったときに、ふと思い出す過去の瞬間がある。それは必ずしも古きよき思い出ではなく、むしろ満足するには幾重の克服すべき課題を残していた段階の記憶である。満たされていないときは、いろいろな悩みがある。でも、その悩みこそが幸せの源なのである。

 それをもう少し考えてみると、やはりものごとに主体的に真剣に向き合っていたときのことはたとえそれが失敗に終わっていたとしても価値があると考えるということだ。あんなにやったのに出来なかったは、適当に済ませて結果が出なかったより遥かに尊い。もちろん挫折とか屈辱とかそういう負の感情は避けられない。それでもやることをやって敗れたのなら、次に繋がる何かがある気がする。

 何かを達成して満たされる幸せがあるのは言うまでもない。でも叶わなかった思いのかけらも実は大切なのものであったりする。

改札の音

 久しぶりに原宿駅前に行ったときにかつての駅前の風景がすでになくなっていたことに驚いた。神宮橋の前にあった原宿駅は少しレトロな駅舎と、その前に駅員が並んで切符にハサミを入れる特別な場所であった。近隣に住んでいた私にとっては通学のルーティンの一部であり、特別な外出のときにはその第一関門と言えるのが原宿駅の改札だった。

 私と同じかそれ以上の世代ならご存知だろうが、当時の改札は駅員が切符にハサミを入れていた。その切り口によって時間帯などが区別されていたとも聞く。改札通過時に駅員にいかにハサミを入れやすく差し出すのかは当時の乗客の基本的な姿勢というべきものであり、誰も口にしなかったが、公衆の常識というべきものであった。

 今、改札でハサミの跡を見る例はほとんどない。そもそも切符なるのものを買わず、電子取引で終わってしまうから、紙面の切符が存在しないから、それにハサミを入れるという物理的な行為が存在しないのである。だから若い世代にこの一連の行動を説明しても実感が伴わないだろう。

 紙を使わず、乗客の動向をデジタルで把握できる現在の方式はさまざまな恩恵をもたらす画期的な技術に違いない。どれだけ労働時間を軽減し、労働条件を解消したのだろう。ただ、その手間減らしによって消えてしまった情緒の損失は計り知れない。駅の改札で響いていた改札の音は、ただの作業音以上のものであった。それがもう長い説明なしでは伝わらない。

 昔に戻れとは思わない。昔の方がよかったとはまったく思えない。現在の方が昔よりはるかによい。ただ、失われたものが必ずしも合理性や効率性では計れないことも記しておきたかったのである。

みぞれ

 夜になって雨が白くなった。雪と言っていいのか霙なのか際どいところだ。寒波が南下して関東南部にも積雪の可能性があるという。もしかしたら積もるかもしれない。そんな予感がする。でも、すぐ消える雪だろう。

 富山に住んでいた頃はいわゆるぼたん雪がだんだん細い雪になり、時には雷鳴もあって激しく降り出すとまとまった積雪になった。1人ぐらしのときは覚悟のために酒を少々飲んだが酔えない。明朝は雪かきで始まり、慣れない雪道を車で走らなくてはと思うと自然と緊張してしまうのであった。いまとなっては懐かしい感触だ。

 雪の前の緊張感はなくなっているが、これから何があるかわからない毎日だ。せめて今日のような夜は気を引き締めてみたい。

2026始まる

 2026年はどんな年になるのだろう。私にとってはまもなく人生の節目を迎えることになる。最後の仕上げの一年だ。といっても、やれることは限られているし、それをとにかくやってみるしかない。毎年、年始には大風呂敷を広げ、勝手なことを抱負として述べることにしている。

 今年はこれまでにやってこなかったことを始めたい。その多くは地味で詰まらないことかもしれない。それでもいい。何もしないよりずっといい。恐らく始めた分だけ、いやそれ以上に失敗があるはずだ。その屈辱や挫折も含めて人生に彩りを加えてみよう。

 その一端はブログにも書いてみよう。恥をかき、かいたものを書く。そんな1年にできたらいい。

同じ風景を見ても

 同じ風景を見てもそこから何を感知するのかは個人差がある。まったく同じ対象から感じ取るものは違うのだ。このことを多くの人は感覚的には知りながら、実際には思い違いしている気がする。

 事実なり現象なりそういう具象的なものは絶対的なものと考えられやすい。でも、ある現実をどのように解釈するのかは個人差がある。この事実を私たちはしばしば忘れる。個人の間の争いはまさにここを源泉とする。それが集団の、国家の、イデオロギー間の格差として現出することになる。

 ただ、以前よりもこうした問題は分かりやすくなった。私が子どもの頃は自分の属する集団の秩序が絶対化され、それに従わないものを排除することは当然のことと考えられていた。常識という黄金ワードがすべてに優先するかのような錯覚をしていたのである。それが、もしかしたら自分たちの思い込みに過ぎないという相対化がなされたのが現代の高度情報社会の成果だと言える。

 これは良いことのように思えるが、実はそんなに単純ではない。自分の信じる基準が実は相対的なものであり、物差しとして役に立たないかもしれないという疑念は、自らの立ち位置を極めて曖昧にしてしまったのである。あなたの感想でしよ、と言われると尻込みしてしまう自分が出来してしまったのである。

 物差しを失った人間にとって、頼みの綱になるのは何か。多くの人にとって、それは既成の物差しをわが物にすることだろう。そのときにその尺度に対する批判精神が働けばよいのだが、大抵の場合、無批判に受容されてしまう。世の中がそんなふうに動いているのだから、私もそれに従うべきなのだと。

 するとその先にあるのは時勢に流される意志なき個人だ。自分にも自集団にも責任を取らない人間たちの結束なき群衆が幅をきかすことになる。それを自由と呼ぶのか無秩序と呼ぶのかは立場によって分岐するが、いずれにしても御しがたい事態に至ることは間違いない。

人のせいではなく

 憂国の徒にはいろいろなタイプがあるが、なかでも共感を得やすいのは権力側を批判する者たちだ。それは間違ってはいないのだが、中には自分たちは被害者であり、現状に責任はないと訴える向きもある。一方的に現況を押しつけられているのだという主張だ。

 こういう被害者意識は理解されやすく、そうだ私もだといった形で仲間を作りやすい。世論を操作する人の中にはこれを巧みに利用して、その先にある利己の路線に大衆を巻き込んでいく。最近のポピュリズム政治家の言動をみればこれは明らかだ。

 ただ、気をつけなくてはならないのは本当に人のせいだけなのだろうか。自分たちに何の責任もないのだろうか。ほとんどの選挙の投票率は低い。数字上では多数が投票すれば結果が変わるかもしれないという現実はほとんどの選挙で続いている。国内企業を守るべきだと言いながら、安い外国製品ばかりを買う。外国人の労働者が多すぎると言いながら、彼らの就労先に進んで就こうという日本人は少ない。そういう現実には目をつぶり、あたかも自分たちは犠牲者だと言うことには説得力がない。

 大切なのは批判精神を忘れないことであるが、その対象から自己を除外しないことなのであろう。自分もまた社会の一員であり、ということは現況をもたらしている一因であるということなのである。単に現状を嘆くだけとか、第三者のようなポーズをとって冷笑するといったことがよく見られるだけに、人のせいにしないという考えは再考すべきだ。

旅の意味

 先日、「旅と日々」という映画を観てきた。つげ義春の漫画を原作とする作品だが、原作の再現というより、その世界観を利用して独自の映像世界を作り出していた。

 主役のシム・ウンギョンは韓国人ながら日本の映画の脚本家として登場するが、外国人ゆえの客観性が自然に演じられており、全体的に虚構性が強いこの作品にリアルな雰囲気をうまく表出していた。

 ストーリーは前半の離島を思わせる海のシーンと、後半の雪深い辺境の宿のシーンとに分かれる。どちらもゆっくりとした時間が流れ、しかしその中にはさまざまな人間模様がある。旅の途中で出会うかもしれない一時がうまく描かれていた。

 いつもとは違う時間の流れに身を置くこと。それが旅の意味だと考える。最近は観光地に行っても効率よく観光スポットを巡ることばかりに関心が行き、結局非日常の時空に身を置くことができていない。効率性とか費用対効果とか、そういうものから解放されるために旅はあるのではないか。

 どこそこに行きましたが、有名な場所には何処にも行けませんでした。ただ、ゆっくりとのんびりと過ごすことができました。そして普段の生活を振り返ることができました。そういう経験が本当の旅なのだろう。

 最近はそういう旅の仕方をしていない。観光スポットをどれだけ踏破するのか、そこをどれだけ短時間で、安価に巡って来たのかということばかりに気を取られすぎだ。

 もっと余裕のある旅をしてみたい。そう思いながら毎日を過ごしている。

止まっていると

 最近できなくなったと感じることに沈思黙考がある。かつては私の得意な思考法でこれでいろいろなことを解決してきた。雑音から隔絶してひたすら自分の世界に引き篭もる。それによって新しい考えが生まれ突破口が見えてくる。そんな経験を何度もしてきた。






 しかし、最近はこれが機能しない。まず沈思黙考できるだけの体力と気力が欠けているのかもしれない。世間から隔絶するとすぐに睡魔が襲う。慢性的な睡眠不足と極度のストレスの蓄積が集中力を一気に奪い去る。だから、最近は気づいてきた。私には一人でじっくり考えることはあまり期待できないと。

 ならば、雑音の中に身を晒して、その中でアイデアを捻出するしかあるまい。人真似なのか、オリジナルなのかよく分からないが、とにかく考えたことを言葉にして、運がよければ理論化する。この方法で何とか生き残るしかあるまい。じっくり考えればいい考えが浮かぶという段階を私は過ごしてしまった。流れに身を任せてその中できらめくものを掴み取るしかないのだ。

 集中力が保てないのは自覚のなさのせいだと考えてきた。それもあるが、それ以上に自分の能力的な問題もあったのだ。ならば先に進むしかない。衰えた集中力を補いそれ以上の実績をもたらすための行動だ。私はそれを妄想ができる力と考えている。根拠のない空想をどれだけ言語化できるのか。それが私に残された善後策である。突飛なことを臆せずいう。それが老兵の戦い方と心得るのである。

休養

 なにもかもなげだして休養したい日がある。ただ、それはできないことだとも分かっている。次にやらなくてはならないことがいつも心の底にあって、今はそれをやるための一時的な休憩なのだと考えてしまうのである。

 恐らくそれが当たり前のことであり、完全な休みなどありはしない。何かをし続けることが生きている証なのだろう。

 ただ、やるべきことが今のままでいいのかについては考えてみなくてはなるまい。もっと別のことをやってもいいのではないか。その方が人のためにも自分のためにもなるのではないか。休みの日になるたびに考えてしまう。