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別の物差しがある

 自分らしい表現の仕方ができないと実力が発揮できない。他人の決めたやり方に沿って物事を進めるのは、許容範囲にあるものならば楽でよい。いちいち何をやるのか決めなくてもいいからだ。

 でも、それが自分のやりたいことなり、適性なりから大きく外れているときにはかえってその人の存在を小さくしてしまう。いつもあの人は消極的だとか、能力的に劣っているとか言われている人も、やり方を自分で選べるようになるととたんに才能を発揮することがある。

 やりたいことと、取るべき方法と、その結果とはなかなか良いふうには組み合わされない。なすすべはない。が、少なくとも一つの物差しだけで自他の能力を評価することはよしたほうがいいようだ。見方を変えて違う自分を、別の他人を見つける方がいい。

党首選挙

 自民党の総裁選挙にはどれだけの候補者が出るのか。政策で競っていただくのは大いに結構だが、なくしたという建前の派閥がまた影で力を発揮するのだろう。そのまま首相になることになる人材だから、全うな方になっていただきたい。

 立憲民主党も代表選をするらしい。野党としては存在をアピールする手段として行うのだろう。政権交代が可能と国民に思わせることが必要だが原状はそれを感じない。公明党も代表交代のようだ。連立与党の存在価値をアピールしたいのだろう。

 民主主義には選挙は不可欠だが単なる話題づくりならば意味がない。先日の都知事選のように売名や商売の機会に過ぎないものを繰り返していると確実に衆愚に陥る。分かりやすく意味のある主張をしていただきたい。

 

米の品薄状態は消費者由来か

 米が店頭で品薄状態になっている。1人1つという張り紙もあった。複数のメディアが報じるところによると、米の在庫は十分にあるが、通常の流通では間に合わなくなっているということらしい。つまり過剰な購入という現象が現れている。

 今夏も異常な猛暑が続き、台風や記録的豪雨の頻発、さらには日向灘での海底地震から発した南海トラフ地震の注意情報もあって非常時への対応が呼びかけられている。食料確保として米が注目されるのは意味がある。

 ただ、必要以上の備蓄は流通の混乱をもたらす。やはり、計画的な購入と消費が必要なのだろう。米などは調理が可能かといった視点でも考えておかなければならないだろう。

多様性を認めるためには

 見逃せないことは息苦しさに直結する。最近、正義を語ろうとするあまりに多様性を蔑ろにすることが増えているように思う。印象で評価された事実が無批判で支持される。それが本当に正しいか否かは考えられず、時々の多数意見で物事が判断されてしまう。

 同調圧力の大きい我が国の国民性は、うまくいけば自律的な社会を形成するが、大抵の場合衆愚に陥りやすい。そうならないために常に教育というサポートが不可欠なのだ。

 しかし、それが最近機能していない気がしてならない。多数意見が必ずしも正しいとは限らないという批判精神を今の教育システムでは伝えにくい。与えられた公式に当てはめて、効率的に正解にたどり着けとしか教えない。だから、同調することへの親和性は高いが、それを検証することは難しい。

 だから、常識人であればあるほど既存の価値観に沿って物事を判断し、逸脱しているものには容赦ない非難を浴びせる。彼らはそれを善行と信じているから、自分が他人を傷つける行ないをしたという自覚はない。自分の価値観に合わないものは劣勢なるものと決めつける。その結果出来するのが自警団に監視された日常である。

 世界は多様であり、価値観も多岐にわたる。それを考えて言動を決めるべきだ。それが今の時代に求められている本当のスキルなのた。

終戦記念日に思うこと、今何ができるのか

 終戦記念日である。79年も前に日本が連合国との戦争に降伏した。人の一生涯ほどの長さの年月が流れ、戦争を体験した人は年々少なくなっている。亡父でさえ終戦時には小学生であり、その時の体験はあまり話さなかった。目前で焼夷弾が炸裂したときの恐怖を何度か聞いたことがある。原爆の標的候補だった町で育った父が生き残ったのはある意味偶然であった。

平和への祈り

 私も当時の感覚で言えば老齢の域にあるというのに、戦争体験という点においては皆無であり、父以上に戦争について語れることは少ない。日本が平和である限り今後ますます戦争とは何かが分からなくなり、観念的になっていくはずだ。それは当然のことであり、そうでなければならないことでもある。ただ、戦争が実感のないものになると誤った道に進む確率も上がる。国際摩擦を武力によって解決しようとする者が必ず出てくる。現に世界中の各地でそれが起きている。

 戦争の恐怖と悲惨さ、無意味さをどのように伝えていけばいいのだろうか。核兵器はいうに及ばず、それ以外の手段でも戦争において多数の人を殺害する技術は年々高まっている。遠方からミサイルを撃ち合い、無人機でピンポイントの攻撃をする。病原菌を拡散し、地雷を瞬時に敷設して人の住めない大地にしてしまう。それらがリアルに起きる可能性がある時代になってしまった。

 戦争で勝ち取った領土や資源は、侵略された側からすれば恨みの対象となり、いつか再び所有権の強奪がなされることになる。その時、その場所に住むわずかな人々の利益のために、広範の地域の住民が犠牲になる。場合によっては地球そのものが傷ついてしまう。

 終戦記念日があることがせめてもの救いかもしれない。この国が経験した悲惨な経験や、加害者として多くの人たちを傷つけ、自らも傷ついてきたことを思い返すきっかけにはなる。焼夷弾を怖がった父の話だけでも伝えることができたなら、私が曇天のため原爆を投下されなかった町に住んでいた小学生の子どもであることを伝えられたら、少しは役に立つのかもしれない。

巨大地震注意

 日向灘沖で2024年8月8日に発生した震源の深さ30Km、最大震度6弱、マグニチュード7.1の地震は、南海トラフ巨大地震と関連付けられて気象庁がこれまでとは違う発表をした。記者会見を聞く限り、まだ完全な関係性があるというわけではなさそうだ。ただ、巨大地震への注意喚起という異例の発表は注目に値する。

 今年の元日に能登半島沖で大きな地震があったばかりであり、この国は地震を免れることができない宿命にあることを再認識させられた。2011年の東日本大震災でもそうであったが、私たちはそれを忘れることにも長けている。この国で生きる者の知恵であろうか。過度に恐れずに、なるべく日常生活を損なわないようにする。そのようにして多くの災害を乗り越えてきた。

 今回の発表は科学の成果の結果だといえる。少なくとも1週間は注意が必要であり、警戒がいらなくなる時はない。私たちはパニックを起こさないように、災害の発生時の被害を最小限に抑えるための努力を続けるしかないのだ。

同じことがあなたにはできるのか

 観客のヤジは度を過ぎると醜いものがある。かつて球場でプロ野球を観戦しているとその類の人がいたが、周囲の目もあり、ある程度の自主規制はあった。中には別の観客から注意されることもあり、歯止めがかかることもあった。

 それと同じことをネットでやってしまうと問題が起きる。誰も止められない。匿名で言いたい放題を言って、誹謗するのは困ったことだ。言った側はそれで気が済むのかもしれないが、言われた側は深く傷つく。

 実は訴訟の対象となればソーシャルメディアの発信源の特定は可能であるらしい。匿名でも様々な方法で特定できてしまう。露見すれば民事及び刑事の処罰対象となる。言っておしまいにならないのがこの問題の根深いところだ。

 スポーツ選手に対する中傷は、敬意の欠落によるところが大きい。同じことがあなたにできるのか。冷静に考える必要がある。

子どもの可能性のために

 経済的な格差が徐々に表面化しつつある。可能性のある子どもの才能を伸ばすためにはやはり最低限の教育と体験の蓄積をサポートする必要があるかもしれない。贅沢なものでなくてもいい、日常から離れて見つめなおす経験を持たせる必要がある。

 生活環境の格差のために、日々の生活に追われる子どもがいる。日本では途上国のような児童労働は顕在化しないが、そのために苦しい生活をひそかに行っている家庭もある。そういう人たちは生活から離れて何かを考える余裕が失われるから、もって生まれた才能を発揮しにくい。その才能を伸ばすためには例えば学校以外の体験を補助する仕組みを作る必要があるだろう。

 例えば、短い時間でもいいのでスポーツや趣味の時間が確保できるような非営利のクラブ活動などもいる。その指導者が責任をもって指導を行えるように公的もしくは企業の社会貢献のシステムを応用すべきだ。こうした活動が結果的には社会全体の福祉、利益につながることをわかりやすく説明できる人が出てほしい。

 その指導者として、各方面の指導経験のある中高年を活用する方法がある。退職者のセカンド・サードキャリアとして活用する。給与は小さくともそれ以上に生き甲斐が得られるのならば、応募してくる人材はいるはずだ。経済的に恵まれないこどもたちを、生きがいに恵まれない大人たちが救うならば両者にとって有益なはずだ。

 これからの日本の経済は今までになかった可能性を引き出すことにかかっている。優秀な人材に投資するのは手っ取り早いが、それ以前にいままで見捨てられていた人材を見逃さないことも必要になる。だから、公共益としても社会福祉事業は貢献するのだ。社会的な影響力持つ人にはそういう視点を持ってほしい。

ご主人のためなら

 主君のために命を惜しまないというのは美徳として語られる。心情的には忠義の精神には感動することが多い。でもよく考えてみると、主従関係が自らの人生にまでかかわるのは異常ともいえる。なぜ、主のために自己犠牲ができるのか。

 社会を大きな家族として考え、年長者を敬い、主人に真心を尽くすという儒教的概念は日本文化の底流にある。この考え方では個人の生き方より、社会として組織が成立することを重んじる。だから、主の考え方に家来が従うのは当たり前であり、そこに疑問はない。そういう思想的背景があるのだといえる。

 日本人に限って言えば、島国のなかのさらに小さく分断された村の中の限られた人々のなかで人生の大半を過ごすために、そのなかで対立することなく調和して生きることが選択されてきたといえる。そのためには個々人の利益より村社会全体の存続が重視され、その中で出来上がった組織が絶対化されたのであろう。

 こうした社会風土では個々人の意思決定の機会は限られ、むしろ何をするのかを勝手に決めないことの方がよしとされる。個人は精神的に他者と融和することが求められ、結果として自分では何も決められない民衆が発生することになる。この状態は現代の私たちにとって耐えがたい社会の在り方だが、案外、近代以前の人々にとってはすんなりと受け入れられていたのかもしれない。だから苛烈と思われる時代でも反乱がおきずにかなり長い期間継続することもあった。

 日本の軍記物などを読むと個々人の個性はあっても、生死を分ける場面となると非常に単純化してしまうように思う。勝敗を分けるのは戦力の優劣があるが、それと同じくらい主君の感情の在り方が左右する。どんなに優勢でも主人の気持ちが曇るとそれが瞬く間に臣下、軍勢に影響し、大逆転を許してしまう。組織の構成員の精神状態がリーダーの感情に同期してしまうのだ。近代的な個の誕生以前の人心の動きというのはそのようなものであったのだろう。

 現代社会でもこのような現象が生まれつつあるのかもしれない。いわゆるインフルエンサーと呼ばれる人の言動を無批判に受け入れてしまう。これはもしかしたら、前近代的なものの考え方が復活しているのではないかとも思えてしまうのである。リーダーとなる人がいわゆる聖人であれば問題は起きないかもしれないが、利己的な考えを持つ人が影響力を獲得したときの悪影響は計り知れないものがある。

 

交差点の風景

 先日、救急車が駅前の交差点に差し掛かったとき、ドライバーは停車し、道を開けるのに協力していた。こういう機会には何度も遭遇しているが、協力の精神が形に表れるのは気持ちがいい。

 ところが件の救急車は交差点内で立ち往生してしまった。歩行者が止まらないのだ。中には駆け足でその前を通り過ぎようとする人もいる。どういう訳か歩行者の方が非協力的なのだ。

 自分が交差点に取り残されることの方を心配してしまうのか。余裕がないのか。歩行者優先の精神が緊急時にも働いてしまうのか。交通ルール、マナーの欠如なのか。原因は分からない。

 人の判断力は状況によっていくらでも変動する。問題はいますべきことを常に考えることなのだろう。