闇バイトという困った事案がある。警察はこれに対抗するために仮想身分捜査という方法を検討しているという。これは捜査のために偽の身分証明書等を使い、犯人グループに潜入捜査とするというものだ。いわば悪を懲らしめるための悪である。最近の悪質な犯行から考えると仕方がないのかもしれない。少なくとも捜査官が入るかもしれないという事実が多少の抑止力になるかもしれない。捜査官は命がけということになる。心配だが職務には敬意を禁じ得ない。
闇ボランティアの対義は何かという話題もある。光バイトという人がいるが、バイトの性質を金銭を得るための短期労働もしくは非正規雇用の形態と考えるならば、何が光なのかは分かりにくい。社会的に認められ、利他的な結果につながる公共性の強い労働に従事するアルバイトならばそれに該当するのだろうか。しかし、これは闇と光という対称しかみていない。バイトの対比としては金銭の獲得を目的としないボランティア活動が想起される。ならば光ボラが対義なのであろうか。
ボランティア活動は無賃金労働かといえばこれも違う気がする。ボランティア活動には無償性のほかに、自発性と無償性が必要とされる。そしてある時には費用の一部を受益者が負担する場合もある。例えば遠隔地から来たボランティアに対し、宿泊所を用意したり、食事の提供をすることなどはボランティア活動の意味に抵触しないだろう。
忍び寄る衰退基調の中で、少しずつ人々の心がすさんできている気もする。こういうときほど慈善の精神を考えることも必要であろう。それが光ボラの実践で果たせるならば社会は変わっていく。
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印象操作
最近、気になっている言葉に印象操作がある。マスメディアからソーシャルメディアまで、事実の一面を強調することにより、全体のイメージを変えてしまうことだろう。これを結果的に行って来たのがこれまでのメディア史だったが、最近は明らかに意図的に行っている気がする。
例えばある出来事について、その賛成派を中心に取材すれば好意的報道になるが、反対派を中心に報ずれば批判的になる。マスメディアは一応公平性を配慮するが、それでもどこを切り取るかで受け手の印象はかなり変わる。ソーシャルメディアは元々発信者の個人的な意見なので偏向報道そのものだ。
メディアリテラシーが意識されているうちは何とか見過ごすこともできる。ただし昨今のように目まぐるしく、大量の情報が流動する状況では何が中立で何が偏向しているのかなど考える余裕がなくなってしまっている。
SNSに流れた情報があたかも事実、もしくは多数意見のように振る舞い、多くの人がそれを信じてしまう。よく考えれば、雑踏の中の誰かの呟きに過ぎないのに、おかしな力を持ってしまうのだ。少し前の、インターネットなどなかった時代の人たちの感覚を取り戻したい。トイレの落書きをどれだけの人が信じただろうか。
意図的に事実を歪曲しようとする印象操作はAIの力も借りてますます巧妙化している。どんな報道がなされても、そこにある映像がいかにももっともらしくとも、立ち止まって考えなければならない。それができれば、操作されない自由が獲得できる。
味気ないサービス
最近いろいろな店が機械化をして、人件費を節約しようとしているらしい。飲食店の配膳ロボットはすでに市民権を得ているが、掃除をしたり、公園保護の仕事をするのは機械の得意とするところだ。こうしたことの機械化は人口減少の未来の救いになるかもしれない。
ただ、対人的な雰囲気を重視する人たちにとっては残念なことなのだろう。日本に訪れた外国人が日本の様々な優良なサービスを称賛したあと、飲食店の注文がタッチパネルなのは残念だという。世界有数の接客サービスと聞いていたのに、実際はむなしくタップやスワイプをするだけだったというのだ。接客を楽しみにしている人にとっては今の状況は期待を裏切るものであろう。
経済効果とか効率化とかそういう言葉では測れない何かが客商売にはある。顧客に満足してもらうことが大事だ。そのためには熟練した従業員が必要であり、彼らを雇うことができるだけの資本力が要ることになる。価格に転嫁されれば格安店には勝てなくなる。安いが味気ない店か、高いが印象の良い店か。今は選べるだけ幸いだ。今の調子で人口減少が続き、移民を受入れず人手不足のままならば、味気なさが蔓延することになる。
選挙ビジネス
選挙がビジネスになっていることについては少なからぬ国民が危惧していると思う。兵庫県知事選挙で公職選挙法違反があったか否かが報じられているが、その候補者を後方支援した者が展開する選挙ビジネスは民主主義の盲点を突くものだ。今のところはその程度で済んでいるが、最後には民主主義を破壊するのではないか心配になる。
そもそも、国民の代表を選ぶべき選挙はその制度上、一定の良識を有する者が運営するものと考えられてきた。ところが、最近は規則の範囲であれば何でもしていいという風潮がある。非常識というよりは反社会的と言える行動をして憚らない者が出ている。
残念ながら彼らに一定の支持をし、投票する有権者がいる。彼らの活動源は実は税金であり、選挙というビジネスをしていることを分かっているのだろうか。
いかなる政策を目指そうが個人の自由であるが、それを金儲けの道具にしはてはならない。表向きは政策を語りながら、実はしたたかに蓄財している者がいることを見逃すべきではない。
繊細な子供たち
繊細な子供が増えているという。打たれ弱く挫けやすい。兄弟がいないか、いても一人で幼いころから複数の大人たちに大切に育てられてきたから、怒られる経験があまりなく、ストレスに対する耐性が育たないまま年齢を重ねている。その結果、心のコントロールができないのだ。
ドメスティックバイオレンスのような極端な挙措は言語道断だが、ある程度の愛ある緊張感は必要だった。それが何でもストレスを与えることは悪のような風潮ができ、甘やかされた子どもが、そのまま大人になる。善悪の判断も曖昧になりがちだ。
私はこれを他人事として語っているのではない。私自身も叱られることへの耐性や反発力のようなものが損なわれている気がしてならない。両親は溺愛タイプではなかったが、それでも理不尽に叱りつけることはなかった。そのせいなのかは分からないが、些細なことにストレスを感じ、それに押しつぶされそうになる。
昔はよかったとは思わない。ただもう少し力強く生きることも必要ではないかとも思う。何でも合理的に整備された環境で疑問を持つことなく毎日を送るのは、理想ではあるが生きる力を削ぐことにも繋がってしまう。
その意味で部活動やその他の集団活動を大切にすることは不可欠だ。疑似的社会集団の一員として、ときには失敗や衝突を経験することで理屈だけではどうしようもならない社会の現実を知るのは無意味ではない。
それなのにそういった活動はいまは評価が低く、学校の場合は教員のサービス残業でようやく成立している。教育は教室の中だけで行われるのではない。
平和な時代に逞しさを涵養することはなかなか難しい。下手に規律を強要すると全体主義への扉を開くことになるかもしれず、自由を制限する可能性もある。注意深く考えること、振る舞うことが求められる。
ローカル・ルール
その場所、地域だけで通用するルールがある。その多くは明文化されておらず、仕来りといった言葉で表されることも多い。よそ者にとっては理解が難しいので、不公平とか不正と映る。何事もグローバルを志向する現代社会においてこうしたものは悪しき因習とされる。
一方でこうした内輪の約束は少なくともその地域の安定を図るためには有効である。ここではこのようにふるまうべきだという決まりがあれば、迷うことなくものごとを進められるからだ。結果的に余計な手続きを踏まずに結論を出すことができる。批判に関してもローカル・ルールを共有していればかわすことも容易だ。
もちろん、不公平もよくないし、地域の暗黙の了解で物事が進むのもよくない。これは択一ではなく、両者の良いところを組み合わせ、融合すべきだろう。ローカル・ルールの役割を再評価し、その問題点を克服できるようにしていかなくてはならない。
連休
9月は連休が2回もある。これは設計ミスかもしれない。今年の場合、もともと連休を作るために日にちを移動してきた敬老の日に加えて、秋分の日も日曜に当たるため、振替休日が設定された。
休みが多いのはいいことだが、曜日ごとに決まったことをする職種にとっては、月曜が集中して削られて行くことは色々な不都合がある。振替休日がなぜ月曜なのかということを考えるべきだ。
日本は世界的に見ると祝日が多いという。それでは休みが多い国なのかというとそうとも言えない。日本の労働環境では個人が自分の休日を申請することが難しい。制度上は有給制度などがあっても、それを行使するには障害が多い。
祝日の多い我が国はそれがなければ休むことがままならない。もっと休暇を取れるシステムを各組織が取るべきなのだろう。
別の物差しがある
自分らしい表現の仕方ができないと実力が発揮できない。他人の決めたやり方に沿って物事を進めるのは、許容範囲にあるものならば楽でよい。いちいち何をやるのか決めなくてもいいからだ。
でも、それが自分のやりたいことなり、適性なりから大きく外れているときにはかえってその人の存在を小さくしてしまう。いつもあの人は消極的だとか、能力的に劣っているとか言われている人も、やり方を自分で選べるようになるととたんに才能を発揮することがある。
やりたいことと、取るべき方法と、その結果とはなかなか良いふうには組み合わされない。なすすべはない。が、少なくとも一つの物差しだけで自他の能力を評価することはよしたほうがいいようだ。見方を変えて違う自分を、別の他人を見つける方がいい。
党首選挙
自民党の総裁選挙にはどれだけの候補者が出るのか。政策で競っていただくのは大いに結構だが、なくしたという建前の派閥がまた影で力を発揮するのだろう。そのまま首相になることになる人材だから、全うな方になっていただきたい。
立憲民主党も代表選をするらしい。野党としては存在をアピールする手段として行うのだろう。政権交代が可能と国民に思わせることが必要だが原状はそれを感じない。公明党も代表交代のようだ。連立与党の存在価値をアピールしたいのだろう。
民主主義には選挙は不可欠だが単なる話題づくりならば意味がない。先日の都知事選のように売名や商売の機会に過ぎないものを繰り返していると確実に衆愚に陥る。分かりやすく意味のある主張をしていただきたい。