主君のために命を惜しまないというのは美徳として語られる。心情的には忠義の精神には感動することが多い。でもよく考えてみると、主従関係が自らの人生にまでかかわるのは異常ともいえる。なぜ、主のために自己犠牲ができるのか。
社会を大きな家族として考え、年長者を敬い、主人に真心を尽くすという儒教的概念は日本文化の底流にある。この考え方では個人の生き方より、社会として組織が成立することを重んじる。だから、主の考え方に家来が従うのは当たり前であり、そこに疑問はない。そういう思想的背景があるのだといえる。
日本人に限って言えば、島国のなかのさらに小さく分断された村の中の限られた人々のなかで人生の大半を過ごすために、そのなかで対立することなく調和して生きることが選択されてきたといえる。そのためには個々人の利益より村社会全体の存続が重視され、その中で出来上がった組織が絶対化されたのであろう。
こうした社会風土では個々人の意思決定の機会は限られ、むしろ何をするのかを勝手に決めないことの方がよしとされる。個人は精神的に他者と融和することが求められ、結果として自分では何も決められない民衆が発生することになる。この状態は現代の私たちにとって耐えがたい社会の在り方だが、案外、近代以前の人々にとってはすんなりと受け入れられていたのかもしれない。だから苛烈と思われる時代でも反乱がおきずにかなり長い期間継続することもあった。
日本の軍記物などを読むと個々人の個性はあっても、生死を分ける場面となると非常に単純化してしまうように思う。勝敗を分けるのは戦力の優劣があるが、それと同じくらい主君の感情の在り方が左右する。どんなに優勢でも主人の気持ちが曇るとそれが瞬く間に臣下、軍勢に影響し、大逆転を許してしまう。組織の構成員の精神状態がリーダーの感情に同期してしまうのだ。近代的な個の誕生以前の人心の動きというのはそのようなものであったのだろう。
現代社会でもこのような現象が生まれつつあるのかもしれない。いわゆるインフルエンサーと呼ばれる人の言動を無批判に受け入れてしまう。これはもしかしたら、前近代的なものの考え方が復活しているのではないかとも思えてしまうのである。リーダーとなる人がいわゆる聖人であれば問題は起きないかもしれないが、利己的な考えを持つ人が影響力を獲得したときの悪影響は計り知れないものがある。