人生をポジティブに過ごすことの大切さは誰にでも理解できるだろう。だから、できれば弱気は晒したくはない。何があっても我関せずが理想である。
でも、そんなことは出来はしない。我々はいちいち傷つき、いちいち反省する。それが建設的なことのように考え、毎日を切り抜けていく。
でも、出来ないことは出来ないと潔く認めることも大事なのかもしれない。いい加減なことを重ねていてもやがて化けの皮が剥がれるよりは、できませんでしたと認めて次のことを考えた方がいい気がする。
日々の思いを言葉にして
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最近の命名は男女ともに2音節か3音節らしい。私の世代では女性は3音節、男性は4音節が多数派だった。日本人の名前は短くなっている。
親がつける名前について本人は拒むことが出来ない。いわゆるキラキラネームが人生の行く末に影響を及ぼしたとしても、本人はそれを克服するしかない。名前は所詮記号の一種であり、という一見正論に見える論理を展開してやり過ごすしかない。
でも、名前のもたらす影響は意外に深いのかもしれない。つよしと名付けられれば、心身根性のなにかは分からないが強靭であらねばならないと考えるのだろう。実態はどうであれ、心がけとして、強くありたいという気持ちが内包される。
最近の名前は意味よりも音声の方に興味関心があるようだ。漢字を取り合わせて外来語を表現するのはユニークだが、無理があるものもある。譲治や賢人はそれだけで英語のようだが、舞久や実希を男子の名として使うのは抵抗がある。日本語は外来語に寛容な言語であるから、人命に関してもさまざまな可能性があるのだ。
江戸時代の人の名前を奇妙に感じるように、未来の日本語話者は21世紀の人の名前をクラシックとして感じることになるのだろう。彼らはどんな名前になっているのかと想像すると少し楽しい。
よく日本の街はきれいだというが、その際に想起しなくてはならないのはそれを維持している人がいるということだ。単純にマナーやモラルの問題だけでは片付けられない。
ゴミが落ちていないといわれる駅前でも、やはり捨てる人はいる。意図的に捨てる人は少ないが罪の意識なしに捨ててしまう人は多い。そして、他人が落としたゴミを拾う人は少ない。最近はごみ箱を置いていないところが多いので、拾っても始末に困ることもあるが、マナーの良さは他人のゴミ拾いまでには及ばないという訳である。
ゴミが落ちていないのは清掃する人が定期的に巡回しているからだ。彼らがゴミを集めてくれているお陰で新たなゴミを捨てにくい環境が保たれているともいえる。その役割の大切さを訴えたい。
私は授業の中で文中の用語や、表現を説明させるとき小学生でもわかるように説明してほしいという注文を出す。5年生くらいを想定している。何がいいたのかといえば、難しいことをいかに分かりやすく置き換えるかが大事ということだ。ただし、易しくしすぎて元の意味が分からなくなってはならない。あくまで言い換えでなくてはならないのだ。
ご存じの通り、現代文の設問の大半は「~とはどういうことか」か「~であるのはなぜか」である。前者は文脈に沿って意味をとらえ、それを別の分かりやすい表現に言い換えよという意味である。多くの生徒は文中のことばパッチワークのように組み合わせ解答を作るが、中には出来上がったものが何を言っているのか意味不明のものもある。大半は本文の表現をそのまま切り取ってきているため、ピースを組み合わせると非常に不自然になるのである。この種の問題が求めているのは文中の語の組み合わせではなく、結局何が言いたいのかを表現を変えて説明することだ。
小学生に説明してほしいとは過剰な要求かもしれない。まず述べられていることを解釈し、自分なりの表現に変換してさらに相手の語彙レベルとか認知のレベルを考えて調整しなくてはならないのである。相手が小学生ではなくて自分と同等の人に話すという前提でもよい。大切なのは自分ではない他者に自分の観察したことを適切に伝えられるかということである。
多くの教育関係者の文章に「知ることとは何か」というテーマがある。それらを読むと単語として丸暗記し、それを試験で一気に吐き出すという行動は勉強の質としては高くないという。極論すれば意味のないことを丸暗記して、一定時間後にそれをアウトプットするだけでは知的行動にはならないということだ。個々の用語がほかの語彙と結びつき文章となったとき、そこに一定の意味を生じる。それが分かることが「分かった」という境地だというのである。小学生にも分かりやすくするというのはこの自分なりの概念を構築を求めるからである。
難しいことを難しく語る人は実は良く分かっていないという人もいる。本当の賢人は難しいことを分かりやすく語ることができる人だという。私自身もそれを心がけていたい。
エネルギーに関する新技術の話は大きな期待を抱かせる。ただ、そのうち本当に実用化されるのはわずかで、さらにそれが実効的であることはさらに少ない。最近の話題はフィルム型太陽電池であるペロブスカイト太陽電池が話題である。開発に日本人や日本企業が関わっていることも期待される要因だ。さらに今日の新聞によると、原子炉の隣に水素製造施設を作り、ヘリウムガスを使って熱循環させることで発電とともに大量の水素の生成も行う計画があるとのことだ。安全性、特に災害時の速やかな停止ができるかどうかが現在検証されているという。東日本大震災の教訓を生かせるかである。
石油・石炭を燃焼してエネルギーを得ることが地球規模の環境問題を引き起こしているという科学的知見から、いわゆるカーボンニュートラルを目指す必要性がある。太陽電池はその対策として生まれてきたが、現行の発電パネルは設置のために山林を削ったり、破棄の時に結果的に大量の二酸化炭素を排出することになることが問題になっている。ペロブスカイトはそれがかなり解消されるらしい。水素製造施設付き原発は、従来型よりも安全性は高いらしい。これからのエネルギー開発はトータルで環境問題を考える必要がある。様々な利益をもたらす可能性があるこの研究は、今後の主流になり得る領域だろう。
科学技術ですべてを解決するという幻想は、私たちの世代にとっては広く共有されている。近代において科学がもたらした功罪を思い返す必要がある。でも、クリーンエネルギーへの幻想は甘美にして幻惑的な魅力がある。実現を期待している。
八潮市で起きた道路陥没は衝撃的な映像とともに報じられている。このような道路が陥没する現象は時々発生するようだ。その原因が過去に造られたインフラが耐用年数を越えて使われ続けているのが原因らしい。
いくつかの要因があるが、その一つにメンテナンスを粛々と行うための人材が不足していることがある。コンクリートやアスファルトで覆われた建造物も刻々と劣化してしまう。それを使いながら直していくことが不可欠なのだが、どうもそれがうまくいっていない。
道路陥没や橋梁の倒壊は甚大な被害をもたらす。そうなる前の手当てが必要なのだ。今回の道路陥没の原因に埋設した水道管の破損が土砂の沈降をもたらしたのではないかと言われている。地中の状態を察知するのは専門家でなければ難しい。その技能がある人がどのくらいいるのだろうか。
今後、高度成長期以降に造られたインフラが耐用年数を越えてゆく。もつとも恐れるのは各地で崩壊が群発することである。この方面の対策はあるのだろうか。
大学共通テストの文学的文章の内容は、かなり痛烈な社会批判に読めてしまった。家族から非難され続けている叔父さんを子どもの視点で捉えるという内容だ。
この叔父さんは定職につかず独学で芸術作品を作り続けている。どうもそれがあまりに独自過ぎるので家族からは無駄なことをしているとしか思えない。語り手の母はこの男の姉なのだが、面と向かって厳しい非難を続けており、男の母、つまり語り手の祖母は幾分同情の念をにじませながらも、男の行動を容認できない。
幼い語り手にとって叔父さんという大人が全否定される姿を見るのはいたたまれないが、かと言ってその理解者にもなれない。生産性が低く、社会的通念に反するこの男の居場所は、自ら造った小屋の他にはなさそうだ。
でも、この男はよく考えてみれば、非常にクリエイティブであり自分の人生を自己の才能で切り開こうとしている人物だ。今のところ社会的評価はないが、自己実現ができている。現代の日本にはこうした非組織的な人間の居場所はない。生き甲斐とか生活の感触より、どれだけ収入が得られるか。しかもそれを時間で割って生産性なるマジックワードで括ってしまう。そういう尺度が幅をきかせている今日にこの叔父さんは無用の人と分類されるのである。
問題文として切り取られた部分だけで読み取るとこんなふうに読めてしまう。叔父さんは怠惰なのではなさそうだ。他の多くの人とはやり方が違うのだ。そういう人に寛容になれない現代社会の息苦しさを私たちは共有している。
共通テストの現代文の問題にも時代の影響が現れる。今年は観光とは何かという内容の文章が評論文として出題された。背景には昨今のオーバーツーリズムなどの社会問題がある。
文章の内容に便乗して考えると、これまで日本人は外国に観光に行く側であり、旅の恥はかき捨ての乱行もあったはずだ。比較的礼儀正しいの言われる日本人観光客も、現地の人がどのように捉えていたのかは分からない。
今、逆に多くの外国人を迎える側になって、一部の観光客のマナーの悪さを非難する論調を散見する。中には露骨に外国人の入店を拒む店もあるらしい。各店の定める基準に口を挟むつもりはない。ただ、外国人客をうまく取り込まなければ経営が成り立たなくなる業界もあるのは事実だろう。
観光とは何かを考える今年の問題文はその意味で非常に今日的であり、考えて行かなくてはならない問題である。受験生にそのメッセージは伝わったのだろうか。