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選挙ポスターの注意書き

7月20日に行われる参議院選挙のポスター掲示板が早くも設置されていた。少し早すぎる気もする。ただ今回の掲示板には興味深い注意書きがあるのを見つけてその意図を察したのである。

曰く商品の宣伝は罰金の対象となる。候補者の名前を明示せよ。風紀を乱すものは止めよなどいろいろ書いてある。先の都知事選で起きた変なポスターの羅列が法律的にもまた道義的にも抑制されることになった。こういう制限が増えていくのは良いことではない。法に触れなければしても構わないという輩が現れるからこういう事態になる。正義をいくら説いても結果的に社会の枷を増やしていることをかの自称政治家は考えるべきだ。

とは言え、付け加えたい注意がある。選挙はビジネスチャンスではない。本当に議員になりたくてなり、持論をあくまで主張し続ける気概のあるものだけが立候補して欲しい、という一条である。

ビジネスネーム

 仕事をしている時に名乗る名前を偽名にできるシステムが注目されている。本名を晒すとカスタマーズ•ハラスメントに巻き込まれる危険性に備える方策として有効視されている。

 言ってみれば仕事をする時の芸名を認めるような仕組みだ。面倒くさい世の中だと思いつつ、やはり必要なのだろうとも思う。

 業務上のやり取りに、自分の名を残さないことには抵抗がある。それが偽名でもいいというのは、自分に対する名付けが複数あることを許容するということで、自分を示す名がいくつかあるということに過ぎない。デジタル化社会においてはかような事実には何の煩雑さもなく済まされる。

 実は女性を中心にそのビジネスネームを使う習慣は既に以前から定着している。結婚後も旧姓のままで仕事をしている人が一定数いる。カスハラ対策とは異なるが、本人の利益のためにそうしているという点は共通する。

 私自身もこのブログでは本名を明かさず、芸名で登録している。こういうことはいくらでもあるのだろう。ただ、本当は本名を隠すことなくコミュニケーションができることが理想だと思う。問題なのは人類がそこまで進歩しておらず、プライバシー侵害にいちいち悩まなくてはならないという事実があるということだ。

民主主義存続の必要十分条件

 昨今の国内、国外の国政上のリーダーの振る舞いを見ると、民主主義はかなり危うい橋の上を渡っていると言える。国民の選ぶ代表が劣っているはずがないという前提はすでに誰も信じない。

 当然ながら誰にとっても完璧なリーダーというのはまず存在しない。誰かにとっては理想的でも、他の人たちにとっては邪悪な存在であることもあり得る。そのバランスをとることが民主主義には不可欠なのだ。

 かつての絶対王制ならば、非権力側に発言権はなく盲従するしかなかった。人権の意識を獲得した現在では、多様な考え方の中で人々が共生する。意見の食い違いがあればその都度修正していくことが求められる。そのためには国民の知識、教養、道徳心などが高水準で保たれる必要がある。民主主義にとって教育の充実は必要十分条件なのだ。

 情報技術が爆進して、個々人が接することが可能な情報量は飛躍的に増えた。しかし、それをどう解釈するか、どう組み合わせれば新しい知見が得られるのかについて考える能力は以前と変わらず、むしろ減退している。民主主義が危機に瀕しているのは、考えないで済むいまの生活のせいなのかもしれない。

反知性主義は日本でも起こり得る

 トランプ大統領がハーバード大学に対して規制しようとしている動きが報じられている。高等教育機関と政治権力の関係を改めて考えるきっかけになっている。

 トランプ大統領の支持層は白人労働者階級が中心という。大学卒業のエリートではなく、その配下として雇用される人々だ。大学卒業者の中には私腹を肥やすことにだけ関心のある人たちもいて、彼らの下で働くものたちが抱える不満や怨嗟は水面下にあるものを含めれば相当なものである。

 エリートの負の局面を論えば果てがない。しかし、世界の難題を切り拓いてきたのもこの層の人が多く、教養が社会秩序の維持に貢献することも多い。彼らの活躍は国家として、あるいは世界平和のために欠かせないという一面もある。

 知的権威の功罪のマイナス面が強調され、権力者の手によって弾圧が始まると社会は一挙に息苦しくなる。権力側の知性は引き伸ばされ、対立する考え方は悪の象徴にたとえられる。アメリカで起きていることはその事態の始まりなのではないかと危惧されるのだ。

 これは我が国でもいつでも起こり得る。学問、教養に対する疑念はまず効率性という言葉で説かれる。役に立たないことを学んで何になるのか。歴史や古典を学ぶより、プログラミングだ、フィンテックだと言い出す。彼らはこうした言動が反知性主義の扉を開くことに気づいていない。意図的なら独裁者候補になれる可能性がある。

 学ぶことの意味を利己的、功利的にのみ捉える風潮が拡大すれば日本は一気におかしくなる。その兆しがあることに多くの人は気づいているはずだ。ここで歯止めをかける必要がある。

救難飛行艇

海上自衛隊の救難飛行艇US-2はいかにも自衛隊らしい飛行機である。四発のプロペラ機である同機は、水陸両用で陸上では200m程度の滑走で浮上し、3m程度の波高があっても着水可能だ。時速90kmでも失速せず、目標地点に到達しやすい。航続距離4700kmも魅力だ。

主任務は海上に墜落したパイロットの救出というが、実際には洋上で体調を崩したり怪我をした民間人の救出に使われている。生産数が少ないため1機あたりの生産コストが恐ろしく高いのが難点だが、これこそ自衛隊の主務を体現する機体である。

海洋国家の日本にとつては、必要な機体であり、さまざまな用途に使われるべきだと思う。山火事対策の消火活動、民間機としての商用利用、海外への輸出などを通して生産コストを下げることが急務である。

選挙ビジネス

 最近、選挙をビジネスチャンスとして考え、利益を得ている人たちがいる。選挙制度の見直しが検討されているが、本来こうしたことは起きてはいけなかった。

 選挙で選ばれるべき人は社会的常識を備え、利他的行動ができると仮定されていた。しかし、どうもこれは甘い想定であったようだ。候補者としてもっともらしいことを述べ、自らの正義を縷々述べるのに、実は本当の目的は立候補することによって得られる利益である。これが公費から支給されているのだから、有権者としては意義を申し立てるしかない。

 問題なのは真っ当な政治家であっても、現行の制度下では一定の利益を得られる仕組みにあることかもしれない。日本の国会議員の報酬は海外と比べて高額であり、さまざまな補助金もある。選挙がビジネスであるのだけではなく、当選した末に得られる利益も莫大なものがあるのだ。

 そろそろ私たちは、ビジネスとして税金を横領し、民主主義の根幹を揺るがす行いをする似非政治家と訣別しなくてはならない。既成政党の不甲斐なさはそれとして、だからといってその隙間に漬け込む政治家ライクな実業家諸兄には別の仕事を探していただかなければならないだろう。

 彼らの撒く毒は少しずつ民主主義を破壊していく。そのことをもっと取り上げてほしい。

新しいものの考え方が生まれれば

 これからの時代はいわゆる自己責任の競争世界ではうまくいかないのかもしれない。漠然とそう考えている。個々人が切磋琢磨して自由競争を生き残るというやり方はこれまでの資本主義社会の理想であった。でも、ここまでグローバリズムが進み、高度情報社会になってしまうと、少しのことでは競争の勝者にはなれない。町で一番の人が、県で一番になる確率も低いが、それが国家レベルになり、世界レベルになると勝てるのはごく少数であり、大量の敗者ができてしまう。

 それでは皆で一定の幸福感を得るためにはどうすればいいのか。まずは才能ある人の挑戦を促進し、その足を引っ張らないことだ。成功者は自分が成功した背景に自分の才能だけがあるのではなく、社会的な様々な要因が手助けになっていることを自覚できるようにするべきなのだろう。成功したものはその利益の一部を地域、世界に還元することが当たり前のように考えられるようにすべきだ。

 こういう理想論を述べると実現不可能という批判が当然出てくる。自分ができないことができる人がいれば妬ましく思うのが人情だし、成功者はそれが自分だけの力と過信して富を独占しようとする。こういうこれまでの人間の心理をどのように克服するのか。それが教育の力なのかもしれない。また個人の力が、集団の力に寄与し、それが新たな世界を切り開くという史観も何らかの形で共有しなければならないのだろう。

 教育の力と述べたが、それは学校だけで行われるのではない。日常の会話の中でもそういう精神を口にする人が増えれば社会が変わる。文学が発生源になるか、いわゆるインフルエンサーと呼ばれる人の中から出てくるのか分からない。それがうまくいったときに人間の歴史は次の段階に進むのだろう。個々人の利益を奪い合う今日の現状が続けば、いずれは破滅につながるのかもしれない。

出来ないこと

 人生をポジティブに過ごすことの大切さは誰にでも理解できるだろう。だから、できれば弱気は晒したくはない。何があっても我関せずが理想である。

 でも、そんなことは出来はしない。我々はいちいち傷つき、いちいち反省する。それが建設的なことのように考え、毎日を切り抜けていく。

 でも、出来ないことは出来ないと潔く認めることも大事なのかもしれない。いい加減なことを重ねていてもやがて化けの皮が剥がれるよりは、できませんでしたと認めて次のことを考えた方がいい気がする。

命名

 最近の命名は男女ともに2音節か3音節らしい。私の世代では女性は3音節、男性は4音節が多数派だった。日本人の名前は短くなっている。

親がつける名前について本人は拒むことが出来ない。いわゆるキラキラネームが人生の行く末に影響を及ぼしたとしても、本人はそれを克服するしかない。名前は所詮記号の一種であり、という一見正論に見える論理を展開してやり過ごすしかない。

でも、名前のもたらす影響は意外に深いのかもしれない。つよしと名付けられれば、心身根性のなにかは分からないが強靭であらねばならないと考えるのだろう。実態はどうであれ、心がけとして、強くありたいという気持ちが内包される。

最近の名前は意味よりも音声の方に興味関心があるようだ。漢字を取り合わせて外来語を表現するのはユニークだが、無理があるものもある。譲治や賢人はそれだけで英語のようだが、舞久や実希を男子の名として使うのは抵抗がある。日本語は外来語に寛容な言語であるから、人命に関してもさまざまな可能性があるのだ。

江戸時代の人の名前を奇妙に感じるように、未来の日本語話者は21世紀の人の名前をクラシックとして感じることになるのだろう。彼らはどんな名前になっているのかと想像すると少し楽しい。

失敗を許容する度量

失敗しても構わないという助言は有効かも知れないが、さほど相手の心には響かない。誰しも失敗はしたくないし、してもいいと言われても困惑するばかりだ。

 大切なのは失敗したときに相手にかける言葉であり、許容しさらに助言する寛容さだ。先に述べた構わないと言う人の中には本当に失敗し、損害が己にも及ぶとなると豹変する。巧言令色には仁は少ない。

 この国が現状打破するためには新しいことにも取り組まなくてはならない。そのためには試行錯誤はつきものだ。それを寛容する度量があるか。挑戦者を生み出すためにはその周囲の人たちも同じく挑戦者でなければならない。