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衆議院議員選挙始まる

 衆議院議員選挙が始まった。唐突でよく分からない選挙だが、野党が離合したり、ポピュリズムに訴える政党がわけの分からない政策を展開したりとか狂想曲の始まりだ。

 ネットの世界でもさまざまな選挙関連の情報が飛び交っている、この種のメディア対策をした候補者、政党が票を伸ばすようだが、多くの場合は静止画やショート動画であり、印象操作以上のものではない。情報に接する機会は格段に増えたが、その質を見極められないまま膨大な量が流れ続けている。

 名前を連呼するだけの選挙戦は論外だが、盛りに盛ったデジタル情報もいただけない。結局、有権者は愚かであるということが前提の選挙活動が続いているのだ。

 この時期に選挙を強行することからおかしいと思うが、せめて印象や刺激にとらわれない判断をするしかない。恐らく投票率は伸びないというのが大方の見方だろうが、期日前も含めて投票することで、国民の政治への関心を示すべきだろう。

選挙に行きたいけれど

 私の住んでいる地域では衆議院議員選挙と市長、市議会選挙が続けて行われることになった。寒い時期に2回も選挙があるのは、どう考えてもおかしい。投票率は期待できないだろう。

 実は最近駅前などで市議選の選挙活動が始まっている。実は政策がよく分からず、結局ルックスか選挙資金の多い者が露出が多く、議員選挙の本質が満たされない。街頭でのアピールも政策を語ることはなく、イメージ戦略が先行しているようだ。

 国政の方も選挙の意図から、政党の主張まで実に分かりにくい。相変わらずポピュリズムで大局が変わる危険な状態にある。これは切実な問題だ。

 選挙に行きたいけれど、よく分からない。そんなことで機会を逃さないようにしなくてはならないとは考えている。

新成人に送る

 今年の新成人はコロナ禍のためにいろいろなことを犠牲にしてきたようだ。さまざまな行事が感染予防の名目で中止になり、距離をとることばかり強制された。その結果、密なる関わりを阻害され、本質に迫る何かを失ったかもしれない。

 君たちが失ったことは大きい。間違えないでほしいのは、人は情報の多寡のみで規定されるものではないということだ。情報にはそれに付帯する生の要素があり、それらは近くにいないと分からない。スクリーンに表示されない極めてアナログな要素こそが実は大切だったりするのだ。それは必ずしも電送されない。

 コロナ禍に多感な時期を送った人たちにはこれからでも密な繋がりを持つ機会を持ってもらいたい。その多くは上手くいかない。理屈に合わないことの方が多いかもしれない。しかし、それがリアルな社会であり、私たちは理屈通りにはならない世界で生きていることを分かつてほしい。

 ますます少子化していく日本社会の中で生きていくのは大変かもしれない。社会保障の問題は恐らく年配者で何とかある程度解決する時代が来るかもしれない。ただ、あなた方自体の生き方は自分で拓くしかない。この後に起きるかもしれない不可抗力に対抗する免疫は持っている世代と考えればいい。

久しぶりの警戒音

 運転中にラジオから久しぶりに緊急地震速報を聴いた。ベルのような警報音はやはり何度聴いても緊張してしまう。結果的に私の住む地方はほぼ無感で、震源地近くでも震度4程度で津波もなかった。

 このところ日本各地で強めの地震がたびたび発生している。青森や山陰は実質的被害が出ているらしい。地震の多い我が国にとってこれは宿命である。多くの国民は震度4までの地震では動揺しない。それは耐震構造の住居が普及していることもあるが、それよりも慣れによるものと言える。

 パニックにならないのはよいことだが、あまりに無警戒になってしまうと、本当の大地震のときの備えが疎かになってしまう可能性がある。かくいう私も特段の備えはないし、避難経路や1次避難場所の確認もできていない。

 おそらく私の生きている間に何らかの大災害の影響を受けることは高い確率である。その時にどう振る舞えばよいのか。何をすればよく、してはいけないのか。そういうことを確認しておかなくてはなるまい。地震速報を聴く度にそのようなことを思う。後は実行に移すだけなのだが。

丙午伝説

 来年は丙午(ひのえうま)にあたる。この年に生まれた女性は気性が激しく家庭を亡ぼすという迷信があり、直前の1906年、1966年は出生率が顕著に減少している。ただこの迷信の根拠が江戸時代に起きた八百屋お七の放火事件にあるというからかなりあやしい。お七は火事で自宅が火災になったとき、非難した場所で知り合った男と恋に落ち、その後別れたが火事になればまた会えると思って自宅に放火したという。ぼやで済んだがこの罪で火あぶりの刑に処せられたという。そのお七が丙午の生まれだというのだ。お七を取り上げた井原西鶴の『好色五人女』などによればお七は丙午生まれではない。そもそもこの浮世草子自体が創作であり、史実ではないのだがどうもこの女性の人生が江戸の人々には同情を惹いたようで何度も創作化され、そのなかで丙午誕生説ができたらしい。

 この根も葉もない迷信がなぜか丙午生まれの女性を差別する伝統を作ってしまった。1966年も人口ピラミッドをみると明らかに不自然にへこんでいる。この生まれの人たちはどうかと言えば実は偏見に悩んでいるというよりは恩恵を受けていることの方が多いようだ。同級生が少ないことは入学試験や入社試験で有利に働くということである。来年はこの迷信による出産抑制は少ないといわれている。そもそも何もなくても人口減少が激しいこの国にとって、毎年が丙午のような迷信にとらわれているといっていいのかもしれない。

 国家を維持するための人口が不足しつつあるというのが専門家の意見である。丙午の迷信を気にする若い世代は少ないと考えるが、それでも多少の影響はあるのかもしれない。同級生が少ないということはデメリットもあるが、どちらかと言えばメリットの方が大きいような気がする。迷信にとらわれず、むしろそれを利用するようなたくましさが求められている気がする。

今年痛感した課題 インフラ維持

 今年起きたさまざまなニュースの中でも衝撃的だったのは埼玉県八潮市でおきた道路陥没事故だった。埋設された下水管が地下で発生した腐食ガスの影響で崩壊したのが原因ではないかと言われている。この事故の恐ろしいのはこうしたインフラ老朽化による突然の事故がこれからもどこでも起こりうるということである。

 経済成長期に急速に進展したインフラの中には耐用年数を終わろうとしているものがかなりあるらしい。それをメンテナンスするための予算、人材が減少し、その技能も維持できなくなっている。解決のためには、まずこれ以上のインフラを造らないこと、もしくは都市機能を集約すること、作業の自動化やAIなどの活用で省力化を進めていくこと、何らかの方法で技能者を増やすことなどを達成していかなくてはならないという。いまの我が国にとってはかなり難題である。

 私の世代には街にものが増えていくのは当たり前であり、それが維持されてさらに新しいものが付け加わっていくという発展的な視点がある。しかし、これからはより計画性が重んじられるはずだ。造ったあとどうするのか、維持するため、もしくは解体するための作業工程を織り込んでいくことが求められるのだろう。

ズートピア

 先日、ズートピア2を観てきた。前作も映画館で観たが、それから9年も経過していたとは驚きである。ディズニー映画らしい分かりやすさと、ある意味予定調和の安心できるストーリーは大衆受けするものである。日本アニメとの違いはこのグローバルな後味にあると痛感した。

 原作もそうだが、この可愛らしいアニメーションの世界は多分に暗喩に富んでいる。現在のアメリカ合衆国で進む分断に対する提唱とするならばかなりラディカルなメッセージが込められている。前作では肉食動物と草食動物の対立がテーマであったが、今回は哺乳類と爬虫類という対比がなされている。ズートピアという理想的国家には実は様々な格差があり、それを認めることが難しい状況にある。個々人が幸福を追求する競争社会において多様性がどのように受け入れられていくのかは現実社会の抱える問題点そのものだ。アメリカという移民によって建国された国家が根源的に抱える問題である。

 日本においてこうしたダイバーシティに関する知見は少しずつ定着しつつある。でも、いざ有事になると分からない。日本には差別なんてありませんよ。そんなふうに思い込んでいることが実はもっとも深い問題なのだろう。

 

個人レベルでのアップサイクル

 これまでは廃材扱いされていたものを製品として利用し、商品価値を見出していくことをアップサイクルというのだという。使用されたものを再利用することや、その素材を別の形にして利用するリサイクルとは別の概念だ。リサイクルの多くは、二次利用の方が商品価値が低い。これをダウンサイクルというのだそうだ。つまりアップサイクルは素材の価値の再評価を基にしている。

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 大量生産と大量消費、そして大量廃棄が私が生きてきた時代の主流であり、それこそが経済の成長の基本と教えられてきた。それが地球規模の環境破壊の進行が明らかになり、その影響があらわになっている状況下で見直しが余儀なくされているというのだ。究極的には使わないのが一番なのかもしれないが、それでは人間の文化的な生活は維持できない。そこで有限の資源を極力使いつくすという考え方が広まりつつあるのである。

 そうはいっても何をもってアップサイクルできるのかというのは知恵がいる。少しでも何かが欠ければすぐに新しいものを買い足すことを続けてきた私たちには、そもそも価値のあるものを見分けられる目が育っていない。これはこういうことにも使えるという発想力が必要なのだ。コピー用紙の余りを、計算やメモの用紙に使うのは先ほどの分類でいえばダウンサイクルである。メモ用紙は結局捨てることになるからだ。でも、その用紙で何か造形して芸術品として仕立てると話は変わる。結局いつかは捨てなければならないが、捨てるまでの日々に見る人の感情に何らかの形で働きかけるオブジェになることで、別の価値が与えられたからである。

 食品加工や建築素材の分野では様々な方法でアップサイクルを模索しているようである。素材観の見直しで新商品を開発することが急務のようなのである。私が考えるのは個人レベルでのアップサイクルには何が必要かということだ。そこには無価値と考えられてきたことに価値を見出す想像と創造の力が必要であるのは間違いない。そしてそれは意外なところにある。空き缶をペン立てとして利用しているのはささやかながらアップサイクルの一例であり、ふた付きの缶を様々な収納用に使っているのも捨てるよりはいい。そういうところから始めるべきなのだろう。

おせち料理の意味

 最近はいろいろなところにおせち料理の予約の広告がある。贅沢な具材をふんだんに用いて数万円という価格で予約を受け付けている。すでに受注終了というシールが貼られたものもある。私などはどうしてここまで投資しなくてはならないのかと考えてしまうが、価値観はさまざまあってよい。

 おせちの原点は節日の供物にあるのだと考える。季節の節目に神に季節の収穫物を備えることで、神に満足してもらい、次の年の豊年を予祝する。神はここまでやってくれたのだから来年もという気持ちになると古人は考え他のだろう。だから、あくまで神饌であって、人はそのお下がりをいただくのに過ぎなかったはずだ。

 それがいつのまにか人間がその贅を尽くすためのものと考えられるようになる。信仰の枠から外れれば、限りなくその内容は形式化し、高級食材を使う方がよいとされていく。神様を忘れ、自分が神であるかのように振る舞うが、神である資格は経済力に裏打ちされたものだ。変動の激しい基準である。私のようにいつまで経っても神様になれない人もいるが、神になったり、落ちぶれたり、その繰り返しをしている人もいるはずだ。

 おせち料理を食べるとき、一瞬でも自分の信じる神もしくは尊敬すべき人やモノを思い浮かべるといいのかもしれない。するとその重みがその味を荘厳なものに変えてくれるはずだ。¥ではない単位の幸福が得られるかもしれない。

警官のネクタイ

 警官のネクタイ着用を自由化する県警が増えているようだ。至極当然だと思う。ネクタイで威儀を糺す必要はない。昨今の異常な暑さの中では業務自体に悪影響を及ぼすだろう。

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 それよりも場合によっては格闘しなくてはならない人にとって、首を縛るアイテムは危険だ。もし付けるとしても、強く引けば外れるような工夫がなされるべきだ。私は日々ネクタイをして通勤しているが、有事の際はどうすればいいかと思うことがある。

 職業に相応しい衣服はあっていい。制服にはそれなりの役割がある。ただ、それが業務に適したものなのかは時に応じて見直した方がいいと思う。