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個人レベルでのアップサイクル

 これまでは廃材扱いされていたものを製品として利用し、商品価値を見出していくことをアップサイクルというのだという。使用されたものを再利用することや、その素材を別の形にして利用するリサイクルとは別の概念だ。リサイクルの多くは、二次利用の方が商品価値が低い。これをダウンサイクルというのだそうだ。つまりアップサイクルは素材の価値の再評価を基にしている。

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 大量生産と大量消費、そして大量廃棄が私が生きてきた時代の主流であり、それこそが経済の成長の基本と教えられてきた。それが地球規模の環境破壊の進行が明らかになり、その影響があらわになっている状況下で見直しが余儀なくされているというのだ。究極的には使わないのが一番なのかもしれないが、それでは人間の文化的な生活は維持できない。そこで有限の資源を極力使いつくすという考え方が広まりつつあるのである。

 そうはいっても何をもってアップサイクルできるのかというのは知恵がいる。少しでも何かが欠ければすぐに新しいものを買い足すことを続けてきた私たちには、そもそも価値のあるものを見分けられる目が育っていない。これはこういうことにも使えるという発想力が必要なのだ。コピー用紙の余りを、計算やメモの用紙に使うのは先ほどの分類でいえばダウンサイクルである。メモ用紙は結局捨てることになるからだ。でも、その用紙で何か造形して芸術品として仕立てると話は変わる。結局いつかは捨てなければならないが、捨てるまでの日々に見る人の感情に何らかの形で働きかけるオブジェになることで、別の価値が与えられたからである。

 食品加工や建築素材の分野では様々な方法でアップサイクルを模索しているようである。素材観の見直しで新商品を開発することが急務のようなのである。私が考えるのは個人レベルでのアップサイクルには何が必要かということだ。そこには無価値と考えられてきたことに価値を見出す想像と創造の力が必要であるのは間違いない。そしてそれは意外なところにある。空き缶をペン立てとして利用しているのはささやかながらアップサイクルの一例であり、ふた付きの缶を様々な収納用に使っているのも捨てるよりはいい。そういうところから始めるべきなのだろう。

おせち料理の意味

 最近はいろいろなところにおせち料理の予約の広告がある。贅沢な具材をふんだんに用いて数万円という価格で予約を受け付けている。すでに受注終了というシールが貼られたものもある。私などはどうしてここまで投資しなくてはならないのかと考えてしまうが、価値観はさまざまあってよい。

 おせちの原点は節日の供物にあるのだと考える。季節の節目に神に季節の収穫物を備えることで、神に満足してもらい、次の年の豊年を予祝する。神はここまでやってくれたのだから来年もという気持ちになると古人は考え他のだろう。だから、あくまで神饌であって、人はそのお下がりをいただくのに過ぎなかったはずだ。

 それがいつのまにか人間がその贅を尽くすためのものと考えられるようになる。信仰の枠から外れれば、限りなくその内容は形式化し、高級食材を使う方がよいとされていく。神様を忘れ、自分が神であるかのように振る舞うが、神である資格は経済力に裏打ちされたものだ。変動の激しい基準である。私のようにいつまで経っても神様になれない人もいるが、神になったり、落ちぶれたり、その繰り返しをしている人もいるはずだ。

 おせち料理を食べるとき、一瞬でも自分の信じる神もしくは尊敬すべき人やモノを思い浮かべるといいのかもしれない。するとその重みがその味を荘厳なものに変えてくれるはずだ。¥ではない単位の幸福が得られるかもしれない。

警官のネクタイ

 警官のネクタイ着用を自由化する県警が増えているようだ。至極当然だと思う。ネクタイで威儀を糺す必要はない。昨今の異常な暑さの中では業務自体に悪影響を及ぼすだろう。

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 それよりも場合によっては格闘しなくてはならない人にとって、首を縛るアイテムは危険だ。もし付けるとしても、強く引けば外れるような工夫がなされるべきだ。私は日々ネクタイをして通勤しているが、有事の際はどうすればいいかと思うことがある。

 職業に相応しい衣服はあっていい。制服にはそれなりの役割がある。ただ、それが業務に適したものなのかは時に応じて見直した方がいいと思う。

犬の日でもあり、猫の日でもある

 今日から11月だ。今年もあと2カ月である。ここのところ急に秋が深まってきているので体調が追い付けない。ところで今日は犬の日であるそうだ。鳴き声のオノマトペからの語呂合わせらしい。犬にとっては実にどうでもいいことであろうが。

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 同時にサンリオのキャラクターのキティちゃんの誕生日が1974年11月1日なのだそうだ。設定上はロンドンの出身ということだが日本のデザイナーが創作したものである。いまでは世界中にひろまって愛されているらしい。つまり今日は猫の日でもあったのだ。

フロッピーディスク

 職場の同僚にフロッピーディスクの存在を知らない者が増えてきた。それは何ですかと言われる方がまだいい。ネットの動画で見ましたとか、親が話しているのを聞いたことがありますなどと言われると、あなたは昔の人ですねと言われているのと同じように聞こえる。

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 最初に買ったコンピューターはフロッピーディスクなしには起動さえしなかった。しかも途中でディスクを入れ替えてようやく起動したのだった。その後、外付けハードディスクなるものが誕生してスイッチを入れれば起動し、入力画面までたどり着けるようになった。その時は実に驚いたものだ。今は蓋を開ければ起動するといっても過言ではないほどだ。

 フロッピーディスクの容量は1メガ程度であり、解像度の高い写真が数枚入るほどしかない。私が使っていたころはほとんどがテキストの情報であり、この小さな容量でも何とかなったのだ。私は万葉集の検索用のデータを打ち込んでは試していた。そんなものはより優秀な研究者による商用版にたちまちのうちに乗り越えられてしまったのだが。

 フロッピーディスクとは何ですか、という問いは私の世代でいえば蓄音機とは何かというのにもう近くなっている。資料では見たことがあるが使ったことはない、そんなものが世代ごとにあり、そのサイクルはどんどん短くなっている。今はAIが世の中を変えようとしているが、しばらくたてばAIって何ですか、ああ、むかしパソコンとかいうものに文字や音声で質問していたというものですね。いまは脳に内蔵しているものですけれどね、などと言われることになりそうだ。

屋上のアイドル

 渋谷に住んでいたころの思い出は数々あるが、懐古の波が起きると止まらなくなることがある。思い出したときに書いておこう。

 高校生の頃だったか、今はなき東急プラザの屋上にちょっとしたステージがあって、ときにはタレントやアイドルのショーがあった。友人と訪れたのは河合奈保子のプロモーションであった。その頃の彼女はデビューしたての新人歌手だった。レコードのいわば手売りのイベントで持ち歌もシングルの両面のみ、いかにもプロの作詞家と作曲家がアイドルのために作ったという感じのコケティシュな曲だった。後に彼女自身がかなり完成度の高い作曲をするとは、そのときは思えなかった。

 彼女にものすごく熱を入れていた友人は、いろんな情報を持っていて、いろいろと説明してくれた。彼はいたって真面目でピアノ演奏が得意な控えめな性格の持ち主だったので、アイドルへの執着は不思議だった。彼のおかげで売れる前のアイドルの姿を見られたのは幸いであったのかもしれない。

 昭和のアイドルたちはいまより過酷な条件でステージに立っていたようだ。一人もしくは数人の単位で営業していた当時は個人の能力や才能、資質に多く依存していた。そのキャラクターが前面に出ることから、個人的な批判に晒されることも多く、中にはステージ上の仮面と真の自分とのバランスを保てなくなってしまった人もいた。

 過酷な世界に咲いていたあだ花と見る向きもあるが、過去の思い出の一つとして記憶されていることを思えば、時間の流れの中に確かに結実したのかもしれない。

鉄道網の上に立つ首都圏

 毎日利用している電車が事故のため一日中止まった。人為的ミスとシステム上の問題点が重なったようである。怪我人は出なかったというのが幸いだが、おかげで首都圏でも有数の混雑路線が使えなくなった。

 振替乗車をして職場へは遅刻することなく到着できた。首都圏は都心部から郊外へと走る路線が数多く存在するので、迂回ができるのだ。それらをつなぐ路線が大切であると実感した。

 鉄道網が東京圏を支えているのは明らかだが、今回のような事故があって始めて実感できる。今回は一つの会社の2路線のみの障害だったが、同時多発したときどう振る舞うのかを考えておかなくてはならない。

女性首相誕生へ

 高市早苗氏が自民党総裁に選出された。時期総理に指名されることは確実であり、憲政初の女性首相が誕生しそうだ。少し遅すぎたがようやく性別による偏重が解消されるきっかけが生まれたことになる。内閣にも少なくとも4名以上の女性大臣を指定してほしい。議員でなくてもいい。能力のある人がいればだが。

 ただ、状況は容易なものではない。少数与党となっていることは変わらず、野党との協力が必要となる。高市氏は右派の考え方を信条としており、靖国神社参拝問題はその象徴的な事実だ。連携できる政党は限られるし、韓国や中国との関係も考慮しなくてはならない。融和を標榜する石破政権は進歩は少なかったかもしれないが大きな損失はなかった。自身の信条に固執するあまり国益を損することのないようにお考えいただきたい。

 保守層の一部が新総裁の誕生を歓迎していることは確実であり、これを機に社会が活性化すればよいが、理念ばかりをふりかざし現実から乖離した政策を展開すれば、分断を生むだけだ。大いなる期待と不安を持たざるを得ない。

自分とは何か

 自分とは何かという問いは誰もが一度は行う。容易に答えが出ないので、多くの場合は思考停止となる。そんなことは分からなくても日々の生活に困ることはない。むしろどうでもいいことをあれこれ考える方が時間の無駄ということになる。

 でも、自分を失うと厄介なことが起きる。現代のように常に他者の発信する情報に囲まれていると、果たして今の判断は私のものなのか、流行りの意見に迎合したのかが分からなくなる。迎合の意識があるうちはまだいい。自己判断を停止したままで周囲の環境に自動的に合わせて、それに違和感すらなくなっている人にとっては、最早自分の判断というものが消えている。彼らに自己責任を問うことはたやすいが言われた方には戸惑いが起きるだろう。私は決めていない。流行りに従ったはずだ。多分そうだと。

 こういう時代には自分が他者に操られる事態を起こしやすい。最近の流行語であるインフルエンサーは、他者への影響力が強い者という意味と心得ているが、この語が流通しているのは真のインフルエンサーが本当は少ないことを意味している。でも、多くは動かせないがいわゆるクラスタクラスの影響はあることになる。

 もし強力な影響力を持つ存在が権力の野望を持って登場すれば、容易に独裁者になれる。現代はその下地が整っていると言える。自分とは何かという厄介な問いを後回しにしているうちに事態は予期せぬ展開をするのである。

 多くの人が是といっても何かおかしいことがあればそれを指摘できる気概は保持しておくべきだ。多くの人にそれは変だけどと言われても、変と言っている貴方が変だと言える自己にならなくてはならない。情報社会において自己を保つのは難しい。でも、それができなければ危険な未来が待っている。

 

老人の概念の変化

 敬老の日であったが、実はもう人ごとではない。律令制では数えで60歳以上を老と呼んでいる。今より平均寿命がはるかに低かった時代においてはこの歳まで生きられた人は限られていたはずだ。

 現代は衛生環境、医療などの進歩で60歳は労働人口に含まれる。一部の業種では定年の年齢とされるが、実態に合わないので見直しが必要とされている。

 100歳以上の人口がまもなく10万人に達するという。65歳以上の人口は3619万人で全人口の29.4%に達する。対して昨年の日本での出生数は686,061人であったというから少子高齢化が急激に進展することは避けられない。古代において老人の区分となっていた人々が扶養される側にならず、できる限り自立して生活できる仕組みを着実に作らなくてはならない。

 老害などと年配者を非難しているだけでは埒があかない。そういう自分も必ず老いるのだから。歳に応じて何ができるのかを各自が具体的に示していかなくてはならない。少なくとも70までは自己開拓できる社会にしなくてはこの国の未来はなさそうだ。