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いつ終わる

 深夜に鳴り響いた緊急地震速報のために驚かされ、寝起きが不愉快な朝です。加えて昨日から喉が痛く、風邪を引いてしまったのかもしれません。

 私とほぼ同世代の人がコロナウィルス感染による肺炎で命を落としています。病の自覚があってから数日で重篤化し、場合によっては死に至るという過酷な経過を辿るのだそうです。

 私自身がコロナウィルスの感染歴があるのか。抗体が獲得されているのかは分かりません。突然発病して落命する可能性もあるのです。

 人生に決まった未来はなく、常に偶然の結果で次に進んでいるのはいまに始まったことではありません。ただ、こうした事態に直面すると運命とは何かなどと考えてしまうのです。

言論統制

 中国武漢で発生したと言われる新型肺炎の報道についてはいろいろと考えさせられます。目的は何かによって報道の中身がまったく変わってしまうということを改めて痛感しています。

 発生段階で新型のウイルスであり、大量感染の可能性があるとネットに書き込んでいた武漢の医師は当局でデマ拡散の行為により処罰されていたとのことが報じられています。これが事実ならば予防線を張る機会を人的に奪ったことになり、当局の判断ミスは重大です。デマによる人心の撹乱と、危険察知のどちらが重大かを考えなくてはなりません。中国は言論統制がしやすい政治体制にあることは知られています。ただ、これは共産主義国家でなくても起こりうるケーススタディになります。

 武漢から帰国した邦人に対する報道についてもマスメディアやソーシャルメディアの報じ方について注目すべき点があります。人権と公共の福祉とのバランスをどのように考えるべきか。この問題も臨機応変の判断が求められていきます。

 以前の新型インフルエンザ流行のときにも行き過ぎた報道が問題になりました。私たちは適切なメディアリテラシーと判断力とを持たなくてはならないようです。

すべて一期一会

 自らの体内組織が刻々と変化している現実を考えるならば、感知した現実もまたその時限りのものということになります。すべてのものが一期一会なのです。

 自分という視点が不動の座標軸の原点であると考えることができれば、かなり単純な数式で世界が捉えられるかもしれません。また日常的にはそのように考えています。時空を目盛において起きた現実を同一の平面に投影しようとします。大体のことはこれで事足りるのです。

 ところが実際は原点自体が常に移動しており、揺れながら対象を見ているのです。手ブレを補正するカメラのように巧みに対象を見続けてもその限度を超えるともはや同じものを見ているともいえなくなる。私たちの見ている世界はこのように変動的なのです。

 変わってしまうことを前提として物事を捉える視点を私たちは常に忘れてはなりません。昨日そうだと確信しても明日は違うかもしれません。そういう心の余裕と、世界観はこれからの現実を生きる上でかなり重要だと感じるのです。

変わらないことへの感動

 一つの仕事を実直に続けている人をみるとさまざまな感慨に包まれます。どうしてかくまで情熱は絶えることがないのか。何が彼を動かすのかと。

 一つのことを継続することは年々難しくなっています。社会の変動が激しく、その影響に飲まれてしまうからです。とどまりたくてもとどまれない、大きな流れの中に私たちは置かれているのです。だから変化しないのは停滞ではなく、かなり能動的な行為であることになります。

 変化していないかのように振る舞い、変わらないための懸命の努力を怠らないことこそ、人を感動させる何かを醸し出す源泉なのかもしれません。

建物の寿命

 まもなく開業する南町田グランベリーパークの前進グランベリーモールは20年に満たない期間で取り壊されました。耐用年数は建て方によって異なるとはいえ、意外にも短い建物の寿命を感じさせます。

 かつて人類が急に消滅したらどうなるのかというSF映画がありました。荒唐無稽の設定ながら環境破壊に対する問題提起がなぜか印象的でした。この作品に関連して人類消滅後の地球の変化のシナリオを特集する番組がいくつか作られました。それによると人間が造り出したものの多くは意外にも早く地上からなくなってしまうらしいです。

 コンクリート製の建造物の多くはメンテナンスがなされなくなると崩壊してしまう。ビルや橋脚などはある日突然瓦解してしまうそうなのです。私たちが永遠と幻想しているものの大半が、実は弛まぬ努力によってようやく存在している訳です。

 鳥や虫の作るすみかをみて感じる脆さ儚さは実は人類にもそのまま当てはまります。私たちは自分の人生の長さを基準にして時間の長さを感じているのに過ぎないのです。ものやことの寿命を考える時に、それを測るものさしが何なのかを今一度考える必要があります。