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新成人に送る

 今年の新成人はコロナ禍のためにいろいろなことを犠牲にしてきたようだ。さまざまな行事が感染予防の名目で中止になり、距離をとることばかり強制された。その結果、密なる関わりを阻害され、本質に迫る何かを失ったかもしれない。

 君たちが失ったことは大きい。間違えないでほしいのは、人は情報の多寡のみで規定されるものではないということだ。情報にはそれに付帯する生の要素があり、それらは近くにいないと分からない。スクリーンに表示されない極めてアナログな要素こそが実は大切だったりするのだ。それは必ずしも電送されない。

 コロナ禍に多感な時期を送った人たちにはこれからでも密な繋がりを持つ機会を持ってもらいたい。その多くは上手くいかない。理屈に合わないことの方が多いかもしれない。しかし、それがリアルな社会であり、私たちは理屈通りにはならない世界で生きていることを分かつてほしい。

 ますます少子化していく日本社会の中で生きていくのは大変かもしれない。社会保障の問題は恐らく年配者で何とかある程度解決する時代が来るかもしれない。ただ、あなた方自体の生き方は自分で拓くしかない。この後に起きるかもしれない不可抗力に対抗する免疫は持っている世代と考えればいい。

契約学科

 韓国や台湾で既に行われている契約学科を日本でも設置する動きがあると報じられた。これは企業が大学教育に大きく関与することを意味する。自社にとって有益な人材を大学時点で育成し、企業の即戦力としようとするものである。主に理系の分野ではこの件に関して積極的であり、学生にとっては就職しやすくなるという旨みもある。

 人口知能など最新の技術が企業側にある最先端分野では、企業の関与が有益であることは容易に理解できる。少しの差で世界におけるリーダーシップが確保できるのならば、国際社会的にみて不可欠なことのように思われる。

 ただ、気になるのは大学が企業の論理に丸ごと飲み込まれた後の世界だ。本来、大学は利益とは無関係に知的好奇心に従って謎を解明していくための機関であったはずだ。金儲けとか序列とかそういうものとは一線を画した研究ができた場所であるという前提が破られていいのだろうか。

 そんなことを言っているから日本の技術は世界に遅れていくのだ、そんな批判を浴びる可能性を覚悟しつつ、それでもやはり大学の独立をどこかで守らなくてはならないと考える。 

歳を重ねると

 歳を重ねるとそれなりに得られるものとに失うものとの循環を感じられるようになる。得られるものが多ければよいが、しばしば失敗を重ねることになる。経験だけではやれることに限界がある。

 だから、若者のように貪欲に何かに挑戦することは大切だ。そこから開ける世界がある。いくつになってもその次を目指すことは欠かせない。

 でも、身体がついていかないということがある。ここで言う身体には脳の働きも、含まれる。どうも脳の働きが以前のようには機敏ではない。残念ながら身体的にな衰えは多面的な影響を及ぼす。

 それでも立ち止まったり、うろたえたりしてはならない。今の自分にはそれなりのやり方がある。それを粛々とこなしていくしかないのだ。続けていくうちにできるようになることは日常の様々な出来事の中に見いだせる。前のように走れなくても、毎日歩き続ければそれなりの成果は得られるものだ。

言語化という言葉の真意

 最近よく聞くのが言語化という言葉だ。何かをうまく行かせるために必須の過程だと言われる。確かに形なき思いは応用できず、そのままになってしまう。自分が直面していることに言葉を与えることで取り扱い可能の材料になる。

 ただ、この言語化は言葉にすること以上に大切なことがあることを忘れられている気がする。言語化されていない状態の現実に向き合い、見逃さないという努力である。このことを忘れてしまうと既成の言葉を積み合わせてうまくやろうと考えるようになるだろう。ならば新しい何かは見つからない。

 言語化は形がなく概念すらないものに名付けをすることなのだから、思う以上に難しい。そのためにもまず、もやもやとした現実から目を逸らすことなく、手探りのじれったさから逃げないことが必要なのだ。なんでも検索や人工知能で探し出せると考えてしまう現代人には難しいことである。

 恐らくそれは普段の生活の中にちょっとした冒険の心を持ち込むことで達成されるのだろう。日常から少し抜け出して見ることで当たり前と考えていたものの陰に隠れている何かが見えるときがあるはずだ。

考え方の模倣

何かを修得するということは、それら関連する知識や技能ができるようになるというだけではなく、学び方そのものを学ぶということだ。テスト前の丸暗記で試験を切り抜けても、終わってしまうとすっかり忘てしまうという経験は誰しもあるだろう。学ぶことは真似ぶことという人もいるが、それは師の考え方、生き方の模倣をすることで、表層の形をコピーすることではなさそうだ。

 若い頃は短期記憶の能力が優れているので、とにかく暗記ということができる人が多い。ただ、この方法だと記憶の限界とともに雲散霧消する。そうさせないためには知識を習得する意味を考え、関連する要素との関係性を把握することだろう。詳細は忘れても仕組みが分かっていれば再現することができる可能性がある。

 料理に例えれば、ある料理のレシピを覚えるのではなく、調理の仕方や調味料どうしの相性などを覚えることになる。それが分かれば他の料理も作れる。絵画なら筆の持ち方、デッサンの仕方などの基本を学べばいろいろな絵が描けるようになるはずだ。また画家の生き方を知れば多少の画法の差より大切な何かを知れる可能性がある。

 大事なのは表面的な模倣に終わらせないように指導することかも知れない。型から学べとはよくいう話だが、型の中にはそれを形成する心のあり方が含まれていることを忘れてはならない。

取引というけれど

 アメリカ大統領の言動のために取引ということばが最近の流行言葉になっている。取引というと聞こえがいいが昨今の状況を見ると、対等な立場にある相手との取引は少ない。有利な立場を築いた上で、相手に無理難題を吹っ掛けるのが取引なようだ。しかし、このような意味は本来の取引の意味とは異なっているような気がする。

 一見公平に見えて実は全くの不公平という話はいくらでもある。特に優位な立場の者が仕掛ける似非公平主義は巧妙で露見しにくい。さらに、この不平等に異議を唱えると、まるで我儘を通しているかのように攻撃してくるのだから厄介だ。ルールという不公平を巧妙に作り出し、自身の利益を保とうとする。これは残念ながら国際的な常識のようなものになっている。

 おかしいものはおかしいと言える態度は保ちたい。しかし、それも今は難しい。交通事故を起こしたら、自分が悪くても決してそれを認めてはいけないというのはよく聞く。それと同じだ。ただ、これは日本人の通念とは乖離している。

 高度成長期には勝つことを最優先課題とし、相手を傷つけることも厭わないのが美徳とされた。しかし、いま弱者の悲哀を知ってしまった以上、取引に限りない疑問点を持ってしまう。

酒を飲まずに大丈夫か

 最近の学生は酒を飲まないようだ。私のように学生時代はキャンパスの周辺の居酒屋で飲みまくっていた者にとっては不思議にさえ思う。酒を飲んでも醜態をさらすだけで、身体的にも負担が大きく、いいことなどないと考えるのだそうだ。我々の世代からすれば、正論を語っても野暮に見えるだけだ。

 酒を飲むことによる高揚感はそれなりに意味があるはずだ。日常の困難に対応するための本能的な逃避術ということもできる。ただ、これには幾つもの分かれ道があって、単なる憂さ晴らしならばやはり飲まない方がいい。少なくとも他人を巻き込むべきではない。

 飲み会のあとには何も生まれないという人もいるが、そうでもない。ある人の別の一面を知って、理解が深まることもあるし、生活上、仕事上のヒントをもらえることも多い。素面では話してくれない仕事のコツなどを私はその場で相当教えていただいた。覚醒した後、それをいつの間にか自分のものにしていることもしばしばあった。

 ただ、それには飲んでも翌日働ける体力がいる。私はその自信がないので最近はすべてのお誘いを断っている。でも、若者にはときには酒席に臨んでほしいと思う。飲みすぎなければ得られることは多い。

何とか切り抜ける力

 効率よく最短距離でが推奨されるご時世だが、どうも私には親和性がない。失敗を繰り返し、たまたまうまくいって何とか切り抜けるというスタイルの方が私にとってはやりやすい。

 こういう考え方は効率性への逆行と考えられがちだが、果たしてそうなのか。あるいは寄り道の上、出口を見つけた経験こそが大切なのではないか。何もかも上手くいかない状況の中で、必死に出口を模索できたことが何よりも貴重な出来事だったのではないか。

 物事を効率的に行うことに関して人工知能に勝つ見込みは少ない。かのシステムは過去のデータベースを引用して、今日の問題に提言をしてくるのだから、そうそう勝ち目は無さそうだ。

 ただ、不確実で法則性が見いだしにくい状況の中で何とか答えを見つけ出すのは人間の得意分野である。状況に対応してその場で解決策を見出すのは進化の過程で、獲得したスキルでである。これを大切にしなくてはならない。失敗することは避けられない。それでも続け、やり通すのは人間に残された最後の最強の能力なのであろう。

かけないことの幸せ

 私は近眼でそれに老眼も加わっているから、眼鏡がなければ遠くは見えないし、眼鏡をかけると近くが見えない。実に不便である。近視の方はほぼ変わらないが、残念ながら老眼は少しずつ進行している。

 面倒なので眼鏡をかけずに過ごすこともある。1メートル先の風景はぼやけてよく分からない。特に人の表情は判別できない。だから、人のことを察して振る舞いを変えるということはできない。不便だが気楽でよい。余計な気遣いは要らなくなる。

 大切な情報を幾つも見逃すことにもなる。見えていたことが見えなくなることで、失うことは多い。無意識のうちに視覚から得ていた事実は捕捉できないものとなる。ただ、雑多な情報に振り回されることもなくなるとも言える。

 なるべく多くのものを見て、外界の変化を見落とさないようにするのは本能としてのあり方かもしれない。さらに昨今の情報至上主義の世相にあっては「視力」は必須、不可欠のもので私のような考え方は否定されるはずだ。

 でも、あまりにも多くを見ようとし、精神をすり減らすより、ときには見えない時間を作った方がいいのではないか。眼鏡を外すことによって私はあまりに生々しすぎる現実にフィルターをかけるのである。

忙しいときの思考

 仕事などで多忙なとき、場合によってはとても集中できていることがある。特に締め切りが迫っているときは、なんとかしたいと思うからか、結果的にうまくいくことが多い。もちろんそうでないときもあるのだが、記憶の濃淡を辿ると明らかに成功例が多い。

 恐らくそれは努力と妥協との産物なのだろう。余裕があるときはさまざまな選択肢を並べてその中での最適解を求めようとする。大きな間違いをしないための大切な段階だろう。しかし、切羽詰まったときには選ぶべき候補が揃わない。結果的にできることを今やるしかない。そういう思い切りが結果的にうまく運ぶのかもしれない。

 決して余裕のない選択の方が良いなどとは考えない。ただ、極めて短期的に立ち回ることだけに集中したときには、いまある状況の中で何ができるのかを考え、それを構成した方がいいのかもしれない。緊張感はどんなときでもあった方がいいようだ。