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理系信仰そろそろ

 文系より理系の出身の人材の方が合理的で優れている。そういう論調はそろそろその欺瞞に気づいた方がいい。

理系の方が社会的ニーズに叶うという幻想は、いま心地よい噂として広まっている。ならば理工科目に全フリして良いかといえば、恐らくそれは大きな間違いだろう。今の日本の文理分けはあくまで受験のためであって、個々人の資質なりコンピテンシーによるものではない。文系の方が合格しやすいからということで文系学部に進んだ人も多くいるはずで、それは打算的な判断によるものだ。このことを非難するつもりは毛頭ない。逆に将来つぶしがきくとの大人の助言で理系に進んだ人も多いらしい。

理系的な論理的思考力は必要とされる場合が多いが、それはやるべき方法が決まっている場合である。頼るべき方法がない場合には価値の創造から始めなくてはならない。そのとき哲学や歴史、文学を参考にしなくてはならない。どちらも必要であり、択一という話にはならない。

理系的な知識だけで何とかなるという考えは既に過去のものになっていなければならないが、若者に過去の価値観を押し付けてしまう現実は厳然としてある。

歳を重ねると

 歳を重ねるとそれなりに得られるものとに失うものとの循環を感じられるようになる。得られるものが多ければよいが、しばしば失敗を重ねることになる。経験だけではやれることに限界がある。

 だから、若者のように貪欲に何かに挑戦することは大切だ。そこから開ける世界がある。いくつになってもその次を目指すことは欠かせない。

 でも、身体がついていかないということがある。ここで言う身体には脳の働きも、含まれる。どうも脳の働きが以前のようには機敏ではない。残念ながら身体的にな衰えは多面的な影響を及ぼす。

 それでも立ち止まったり、うろたえたりしてはならない。今の自分にはそれなりのやり方がある。それを粛々とこなしていくしかないのだ。続けていくうちにできるようになることは日常の様々な出来事の中に見いだせる。前のように走れなくても、毎日歩き続ければそれなりの成果は得られるものだ。

まだ諦めない

 若い世代と比べて、いろいろな局面で機動力が落ちていることは痛感している。瞬発力に関しては残念ながら全く及ばない。でも、負けていないこともあることは確かだ。その一つが力の抜き方が分かっていることである。

 がむしゃらに突破するにはエネルギーが足りないが、適度に力を抜いて、あるいは満点を目指すことなくある程度諦めて物事に向かうことは年の功で獲得したものだ。これは意外に大切で、実戦的な戦略である。その結果、かつてはうまくいかなかったことができるようになったことが幾つもある。

 ただ、陥りやすいのはことが始まる以前の諦め、敵前逃亡である。これは残念ながら意識していなくても起きてしまう。まだ諦めないという強い意志を定期的にもしくは習慣的に確認しなくてはならない。最近の流行り言葉は、確かに大変だ。しかし、まだ諦めない。できるかもしれないという独り言だ。かなり哀調を帯びてはいるが、そういう言葉を繰り返していきたい。

空想する力は

 空想する力はとても大切だと思う。できるはずがないとあきらめてしまえばそれ以上のことは起きない。あらゆる困難な条件をもし克服できたとしたならばと考えることが大事なのだ。こうした発想法は日本では漫画やアニメの世界ではすでに成功例を積み上げている。ありえないことを創作の域、芸術の域まで高めている。

 でも、それがほかの領域に及ぶのかといえばそうでもないようだ。実用的な分野においては最近の日本の力は衰退気味にあるように思える。資金力がないとか、開発に対する意欲の低下があるという。この評価が本当に的を射たものなのかは分からない。多くの人がそのように考え、その人数の割合が少しずつ増えているようなのが問題だ。

 ありえないことをまじめに考え、あきらめずに実現をしていくこと。それが私たちの先輩のしてきたことだった。何とか豊かになりたい、家族を幸せにしたいと思う気持ちが不足していた技能を帳消しにし、それ以上の成果をもたらす。これは我が国の隠れた歴史の跡である。歴史上の勝者が織りなしていく表舞台と、その背景にあり、実は人間の生活感覚から多少逸脱しても実現することだけを信じて空想を続けること、それが今後の時代を拓くのだろう。

言語化という言葉の真意

 最近よく聞くのが言語化という言葉だ。何かをうまく行かせるために必須の過程だと言われる。確かに形なき思いは応用できず、そのままになってしまう。自分が直面していることに言葉を与えることで取り扱い可能の材料になる。

 ただ、この言語化は言葉にすること以上に大切なことがあることを忘れられている気がする。言語化されていない状態の現実に向き合い、見逃さないという努力である。このことを忘れてしまうと既成の言葉を積み合わせてうまくやろうと考えるようになるだろう。ならば新しい何かは見つからない。

 言語化は形がなく概念すらないものに名付けをすることなのだから、思う以上に難しい。そのためにもまず、もやもやとした現実から目を逸らすことなく、手探りのじれったさから逃げないことが必要なのだ。なんでも検索や人工知能で探し出せると考えてしまう現代人には難しいことである。

 恐らくそれは普段の生活の中にちょっとした冒険の心を持ち込むことで達成されるのだろう。日常から少し抜け出して見ることで当たり前と考えていたものの陰に隠れている何かが見えるときがあるはずだ。

小さな感動

 私は昔からいろいろな言い訳をしてきた。だからこれもその一つである。ただ、これから私の年齢に達する人たちには聞いていただきたい。老いの繰り言と聞き流していただければそれでいい。

 恥ずかしながら、いま私は小説や脚本を書こうと思っている。しかし、これがなかなか進まない。その原因の一つが感動できないことにある。感性の鈍化と言うのが近いのかもしれない。

 詰まらないことに感動することは若者の特権だ。ただそれがつまらないなどと誰が決めたのだろう。それこそが老いのもたらす弊害だ。感動することはいくらでもあるのに、それを予め過去の経験と照合して類型化してしまう。その結果、目の前にある出来事をそのまま受け取ることなく様々な測定値のもとに数値化してしまうのだ。

 創作にとって必要なのは小さな感動の積み重ねだと私は思う。それがあるからこそいままでにない世界が創れる。それを過去の経験にいちいち照らし合わせてマッピングするのは世の中には測定できないものはないといっているのと近い。

 私が感動できるものの範囲は年々狭まっている気がしてならない。恐らくいまの安定的な境遇が崩されるときがいい機会だと思っている。思春期ならぬ思秋期もしくは思冬期は創作の機会としては意味がある。小さな感動を敢えて過去の出来事と結びつけない。それでいろいろな創作ができそうだ。

熱中できる余裕を

 何かに熱中して時を忘れてしまうという経験は誰にもあるだろう。今はそれを時間の無駄使いと考えてしまうが、実は大切なことだとも思う。何かに打ち込めるというのはそれだけでも幸せなことなのだ。

 恐らく熱中できる余裕を今はなくしている。1日本を読んで何もしなかったとか、限りなく歩き回って何の用事も足さなかったといったことがなくなっている。少なくとも何らかの意味づけをして自己満足をする。それができなければ自責の念に苛まれる。

 よく考えてみれば余裕のない不幸な日々なのだ。すぐに答えを出さなくてはならない最近の風潮に背くことも必要なのかもしれない。そこから始まる何かもある。

オンリーワンの美学

 ナンバーワンにならなくてもいい。オンリーワンを目指せという言葉は流行した歌詞にもあって人口に膾炙している。しかし、これは言うに易し、行うには覚悟がいる。負け惜しみと区別がつきにくいのだ。

 ただやはりオンリーワンの美学は大切だと思う。人を何かの物差しで測るとたちまち序列が生じる。身長順、年収順、家柄の序列、その他何でもいい。たちまちに序列が発生する。ただ物差しが変わればこの順番は一変する。例えばもっとも私の性質を備えたものという基準では紛れもなく1位は私である。

 物差し次第で世界はいくらでも変わるということを私たちはもっと意識していいのではないか。私は他にはいない。極めて不格好で要領がよくないがこれらの条件をすべて満たしているのは私しかいない。不細工と不器用の絶妙なバランスだ。歴史を学ぶとあらゆる美意識も価値観も無常である。たまたま誰かの基準で低い値になったとしても、過去もしくは未来においてその数値がそのままであると誰が保証できようか。

 最近の私は全く時流にはあっていない。それで衰微していくのが既定路線なのかもしれない。でも少し上空に登って見下ろそう。お前の振る舞いは単に時代遅れなのか。それとも真の評価がなされていないのかと。

 老いの繰り言と失笑されそうだが、やるべきことをやり続ければ必ず世の中のためになる。その役を演ずることをまだ諦めたくはないのである。

とにかくやってみる

 昔書いたノートなどを偶然発見すると同じ自分なのかと思うくらいの差を感じる。内容は稚拙だがとにかくいろいろ書き込まれていているのだ。その中には冗長なものが多いが何よりも挫けず書き続けていたことに驚く。

 馬齢を重ねれば無駄な動きはしなくなる。ただ、新しい発見はしばしば無駄な行動から発生するものだ。だから、新機軸を打ち立てることも難しくなっていく。

 若者にあるのはとにかくやってみるという行動力だろう。それが失われると発想や行動が固定化していく。新しい価値観も生まれにくい。だから、この歳になってできるのはもう失敗を恐れないことだ。効率を考えないことだ。とにかくやってみることなのだろう。

 若い頃はよかったなどとは言いたくない。今を終わったものにしないためにも結果を考えずにやってみることも大切だ。

職業差別

 職業による差別的な発言をして辞職に追い込まれた知事がいる。報道されたコメントが事実だとすれば市民の代表たる資格はないとしか言えない。度々軽口をたたいては謝罪してきたというから、本人の気質の問題なのかもしれない。

 ただ、変な人の許しがたい行動と片付けてしまうと、労働に対する考え方は変わらない。差別された業種は農業、酪農家、製造業に相当する。これらの職業は人手不足の危機に瀕している。それは労働の対価が低いことにも原因がある。そして彼らがいなくなるとこの国は回らなくなる。

 経済的支援や人材育成のためにやらなくてはならないことがある。それをせずに悪口を言った人を責めるだけは解決はしない。