東京へ気温がまた下がり冷たい雨が降っている。10月も半ばを過ぎたのだから当然といえばそれまでだ。
同じ気温でも春先この気温になったときの感覚とは随分違う。私たちの体感は相対的なものであり、それまでの気温の推移で暑くも寒くも感じるものだ。また冬に向かうこの頃は気分のあり方も違う。
気持ちの持ち方が健康にも影響するという。明るくすごそう。
日々の思いを言葉にして
タグ: 日記
東京へ気温がまた下がり冷たい雨が降っている。10月も半ばを過ぎたのだから当然といえばそれまでだ。
同じ気温でも春先この気温になったときの感覚とは随分違う。私たちの体感は相対的なものであり、それまでの気温の推移で暑くも寒くも感じるものだ。また冬に向かうこの頃は気分のあり方も違う。
気持ちの持ち方が健康にも影響するという。明るくすごそう。
感情は自発的なものであり、制御ができないものと考えられる。ただ、ある種の記憶に関してはそれが可能になることもあるようだ。
大切な思い出の一つはいつまでも忘れられないもののはずなのに、思い出すことを封じているかのように出てこない。これは何かが自発の動きを制しているからなのだろう。そんなことは映画かドラマの中の虚構だと思っていたがそうでもないようだ。
制していたものはいつか堰を切ることになる。そこには痛みもあるかもしれない。いまはそのことを恐れるのは止めておこう。いまを生きるための本能の技を信じていよう。

電車の待ち合わせで時間があまった。見上げると鱗雲が広がっている。季節は確実に過ぎている。
アメリカ大統領選挙が近づいている。この時期になると残念なことがある。それは相手陣営に対するネガティブキャンペーンが始まることだ。
明らかな非を指摘するのならいい。しかし、大半はいわゆる粗さがしであり、言わずもがなの内容も混じる。また誰が言ったのか分からないようにして言う巧妙な悪口雑言も混じる。それが民主主義の必要悪のように感じさせられてしまうのが実に残念だ。
もちろん世の中は善意だけではできていない。どんな善人に見える人にも、見方によっては悪事に見えることはいくつも行っている経験はある。そのどちらかを誇張することは様々な問題がある。特にネガティブの方向に延長することには明らかな悪意がある。それがまかり通るのが、そしてあたかも正義であるかのように行われるのがアメリカ大統領選挙であるようだ。とても辛い事実である。
もちろん民主主義を生きる私たちはもっとタフにならなくてはならない。巧言令色に包まれて本質を見失うことがないよう常に現実に向き合うことが必要だ。主人公が何者かではなく、自分であるためには清濁を併吞する必要があるのは事実だ。
あっと言わせるような感情操作に騙されないこと。本当に必要なのは何かを常に忘れないことが大切だ。それは時々思い出さなくては忘れてしまう覚悟なのかもしれない。
残念ながらかなり老眼が進んできたことを実感している。近視なので遠くを見るには眼鏡が要り、近くは邪魔になる。実に面倒な状況だ。しかし、気づいたこともある。ものの見方が少し変わったのだ。
絵を描くときはラフな描写から始めるという。クロッキーというものもあった。ぼんやりと位置関係だけを捉えるものだ。その状態でも少なくとも描いた本人は画像が再現できる。そしてこの状態は眼鏡を外してみている私の視覚と似ている。
つまり、はっきりとはわからないがそれと知れる程度の画像を私は見ていることになる。それを紙の上に描けばいいのだ。そう考えると絵が描けるようになる気がしている。老眼になって失うものは多いが、得られることもまだあるはずだ、
再び暑さが戻って来た。ただ空は薄い雲が覆っている。またいつ降るかわからない。季節の変わり目なのだろう。

今日の東京の予想最高気温は25℃だそうだ。夏日と分類される一日になりそうだが、これまでの暑さになれた身体にとってはかなり涼しく感じる。ただ、熱帯低気圧が湿度を絶えず供給しているとのことで爽快さとは程遠い。
気がつけば9月も中旬になっている。おそらく来週には肌寒さを覚える時間帯もくるのだろう。ここ数年は夏が長く秋が短いという感覚がある。気候変動なのか何なのか分からないが、何かが起きていることは確かなのだ。
ちょっとした用があって公園の中を通り抜けた。すると設置されたランニングコースに何名かの人たちがジョギングをしている。もうすぐ9時になろうかという時間にかなりのランナーが汗をかいている。
外出自粛の要請はなくなったといえ、感染対策の風潮は蔓延しており、運動不足になりやすい。リモートワークをしている人は通勤という運動の機会さえもない。私たちは経済的生産者である前に生き物であり、体調を維持する上では何らかの行動が必要だ。それがランニングである人もいる。
走っている人の大半は社会人と思われる男性だった。この公園は最近整備されたので走路も照明も揃っている。こういうところがもっと必要になるのかもしれない。
8月もまもなく終わる。今朝はさまざまな形の雲が流れている。雨雲も、はるか上空の雲も同居している。季節の変わり目を感じる。まだ暑い日は続くのだろうが季節が確実に進んでいるのは確かだ。雲の展覧会と考えることにしたい。
京都市で恒例の送り火の行事が今回は限定された形で虚構された。「大」の字に見えるように山腹の点火台に火をともす行事は京都の夏の風物詩だ。しかし今年は密を避けるという意味で6か所のみの点火となった。
「大」という文字のそれぞれの画の始点と終点、それに交差点の6か所だけともされた大文字は人々に想像の炎を加えさせた。誰もが足りない部分に見えない光の線を足したのである。ある意味、非常に貴重なものであった。本来、送り火は盆に迎えた先祖の霊魂を再びあの世に送るための炎である。今日との五山送り火のような大規模なものでなければかつては日本各地の門前で同様の行事が行われたらしい。祖霊は神でもあると考えられた。
ひと時の祖霊との交流によって、私たちの祖先は鎮魂をするとともに、祖霊には浮世の我々を守護してもらうことを願ったかもしれない。その精神は今も変わらない。非科学的かもしれないが日本人はどこかで祖先が守ってくれることを期待している。そしてここ最近の災禍を顧みるに祖霊の助けにすがらなくてはならない状況にあることは間違いない。こういう時は原始的な感情を隠さなくていいのかもしれない。
テレビに映った京都の送り火を見て、なぜかこみ上げるものがあった。