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戦争は

 戦中の証言として当時を記憶する方から話を聞く機会を得た。その中で戦争末期の日本の捕虜に対する扱いが劣悪であったと語っておられたのが印象的であった。

 戦争の記憶が薄らぐとともに一部が美化されていく傾向があるのは感じていた。多い傾向として一部の好戦的な人たちが突出して多くの善良な人を無理やり戦争に駆り立てたというものだ。これが正しくないのは戦争を遂行しているのは誰なのかという問題と関わる。

 確かに戦争を遂行していたのは限定された人物だっただろう。しかし、それを行っていたのは普通の国民であったことを忘れてはならない。戦争という特殊な状況が人間を狂気に駆り立ててしまうことを再認識すべきなのだ。戦時中の出来事を意識的もしくは無意識的に美化していく流れを注意深く見つめ、あらゆる正当化の糸口を監視しなくてはならない。

女性候補

 衆議院議員選挙の立候補者のうち政党に所属する女性は全体の18.4%で、均等を求める理念からは程遠いことが分かった。

 与党の自民党は9.7%と全く目標に及ばず、公明党は意外にもそれより低い7.5%とこの国の女性の地位を向上させる思いがうかがえない。それでは野党はどうかといえば立憲民主党も18.3%にとどまっている。

 政党別で女性の比率が最も多いのは社民党で60%である。唯一女性候補の方が上回った。ただし、立候補者数15人の小党であり、解散前の議席数は1で議員となるにはハードルが高い。

 各党とも候補者不足をその原因として挙げているが、そもそも女性を政治家として育てるシステムが各党にあるのか。タレント議員を思い付きで擁立して集票するという方法で女性を使う以外に方法はないのか。政治家として必要な経験とキャリアを用意して議員に立候補させる仕組みを各党が考えていかなくてはならないのではないかと考える。

 女性議員が増えるだけで政治がよくなるとは私は思っていない。大切なのは性別ではなく資質だ。それでも、多様性は必要でありその大きな柱の一つは性別だ。無理に均等にする必要はないが、現状ではなりなくてもなれないという性的ハンディが大きすぎる気がする。

公園へ

 隣の市の公園に行ってみた。いわゆる森林公園というもので、開発をされずに残った緑地だ。かつてはむしろこの方が広範な土地を占めており、その空白地に人が住んでいたのだろう。いまは全く反対でわずかに残された森林が公園として保存されている。

 緊急事態宣言が解除されたとはいえ、マスクを外せない毎日だが、周囲に人がいないことを確認して素顔を日光に当てるのもよい。公園は芝を張った広場を除けば雑木林が広がっている。その中を歩くのも気持ちがいいものだ。

 自然そのものではないことは分かっている。様々な管理の末に公演は保たれているのだ。その意味では公園も極めて人工的な空間だが、緑や様々な花に囲まれる時間は日常とは異なる空気を吸う貴重なものである。

Serizawa Park, Zama city

改革、再生、復興

 岸田首相が誕生し組閣人事が昨日のニュースだった。わずかながら世代交代があったことは喜ばしい。女性閣僚が3名に止まったのはやはり人材不足なのだろうか。

 最近の大臣には兼務項目を併記する傾向にある。今回も記憶できないほど多くの肩書きがある大臣が複数いる。本来職掌の中にありそうなものもあり、仕事をすることのアピールなのだろう。

 それにしても再生とか改革とか、そういう名のついている役職が多い。それがいまの日本の現実なのだろう。世間では実際には何もできないとか、短命であるとかいろいろ噂するものがある。国民としてはそのどちらもが国益に叶わないので、世評を裏切ってほしいと願いたい。

融合というイノベーション

この国を再起するためにはイノベーションしかないと言われて久しい。しかし、研究開発にかける資金もそれを支援する制度も不完全な現状では一向に進む気配がない。残念ながら何も起きそうもない気がしている。

でも、そうでもないという人もいる。日本型のイノベーションとは新しい物をゼロから生み出すことではない。むしろこれまであるものを組み合わせたり、新しい解釈を加えることで新機軸を作り出してきたのが我が国のあり方だった。最近はその方法を忘れてしまったかのような気がする。

でも、この国に染み付いた文化融合のエネルギーはそう簡単には消えないだろう。まずは自国が一番というおごりを捨てて周囲の良いものを見つめることだ。その謙虚さが新しいものを作り出す始点となるだろう。我以外皆我師の精神をこの国が取り戻せば、また新しい展開が見られるはずだ。私もその一員としていろいろなことに関心を傾けていきたい。

総裁選

自民党の総裁選挙が行われ岸田文雄氏が当選した。議院内閣制に馴染みがない国の皆さんにとっては不思議かもしれないが日本国民は自分の首長を自ら選ぶことはできない。だから、総理大臣に対しての意識がかなり屈折している。自分のあづかり知らないところで選ばれた人という意識が常に付きまとう。

自民党はよきもあしきも日本の社会構造の縮図のような組織だ。国会議員たちは空気を読んで行動する。つまり自分の主義主張より、周囲との調和の方を重視するため普段からあまり自己主張しない。したとしてもこのようなときにはあっさりと大勢に調和してしまう。だから党全体としては大失敗はしない。代わりに飛躍的発展は望めない。

日本のこのようなあり方はどうなのだろう。おそらく、短期的もしくは中期的な局面においては著しく危険だろう。新機軸を出せないままひたすら衰退していくしかない。一度衰退が始まると様々に波及してその深刻さは顕著になっていく。

逆に考えれば失敗はしないことは、最低限の水準で消滅は逃れる可能性はある。冒険をしないことで損害は逃れられるという楽観的な考えだ。これから発展していく国にはよく考えてみれば数々のリスクがある。それを乗り越えられるのかは誰にもわからない。堅実路線を行ったほうが最終的には生き残る可能性もある。

自民党を選ぶのは日本国民の冒険しない国民性の心的傾向を体現しているとも言える。実は自民党にはいくつもの派閥があり、野党の役割を党内で果たしている一派もある。日本には政権を担当できる野党がないので、その代わりを果たしているのである。

それでも私は今のままでは行けないと思う。岸田次期首相には嫌われ者になっていただきたい。日本を改革するためには首相が行動を起こさなければ始まらない。変革者はたいてい嫌われる。それでも停滞しているこの国をなんとかしなくてはならない。直接、選んでいない代表だがなるからには相応の働きを期待したい。

万葉集の歌

私にとっては万葉集の歌は何かを考えるときの原点になっている。日本以外の国からこのブログを読んでいらっしゃる方のために申し上げると、「万葉集」は日本のかなり古い古典である。8世紀くらいまでの日本の歌、短詩を集めたものである。

私は学生時代この歌集を研究していたのだが、今でも実に魅力的な古典だ。最近は文庫本で読み返すことが多いが、開くページごとにさまざまな発見がある。わたしたちの考える和風というのはだいたい室町時代以降、もっと言えば江戸時代のそれを指すことが多い。それ以前の鎌倉時代、平安時代は陸続きではあるものの今とはかなり違う。それ以前の奈良時代になると日本文化の常識が通用しない。畳、茶、日本酒そのいずれもないのが奈良時代なのだから。

それでも万葉集の作品は胸に響く。特に何かに行き詰まったときにこの作品を開くと良いヒントがあるような気がする。大昔の人が考えていたことが今の時代を動かすこともあるのだ。

非常停止装置

自動車の運転手の発作によって悲劇的な事故がまた起きてしまった。運転手は文字通りの急病であったようで、健康診断に異常はなかったということである。高齢社会の日本ではこのような事故が定期的に起きている。もちろん高齢だけが問題ではなく、人間は間違った判断をしてしまったり、今回のように突然自分の身体が制御できなくなることもある。

そういうことを踏まえた自動車の設計をしていく必要があるだろう。自動運転はこれを解決する方法になるかもしれないが、その段階に至る前にもできる事あるのではないだろうか。例えばアクセルの踏み方がおかしい場合は自動的に動力を切り、制動装置を作動するといったことはAIの技術などを応用して実現することはできそうである。未来をための開発もいいが、現実に起きていることを解決する技術の開発にも期待したい。

私などの素人はまず運転席に乗ったときに即座に健康状態を測定する機器を搭載すれば、リスク回避の一助になるかと思う。制動装置の開発は少し遅れるだろうから。こうした開発の資金は国税を投入にしても十分な見返りがあると考えるがどうだろう。

変わり続ける性質

 日本の文化は閉鎖的だと表現する人がいる。恐らく正解であり、間違いだ。結果的には大きな間違いだ。

 日本にはユニークな文化現象が数多く見られるという。独自、唯一無二というのは言いすぎかもしれない。どの地域にもそういった特徴がある。ただ、かなりユニークであるのは確かだ。その意味では閉鎖的な一面があるかのように思える。

 気をつけなくてはならないのは日本文化の特徴としてあらゆる局面で融合という過程に持ち込んでしまうことがある。有形の文物もそうだか、思想や制度にもそういう面がある。敵対的排除というのが少なく、取り込んでしまうのだ。

 変わっていくことがこの国の特徴だと評する人は多い。不易流行などという人もいるが、流行の占める範囲がかなり多いといえる。変わらない何かがあるという幻想がようやく国民性を支えている。

 だから、決して保守的ではない。また、意図的に革新を求めているのとも違う。百年後の「日本人」はいまとは姿かたちも考え方もまったく違うかもしれない。でも、相変わらず日本人論を展開しているだろう。百年前の先輩がいまの我々に対して考えたかもしれない予想と同じように。

戦争は終わっていない

 終戦記念日の今日、日本各地は大雨で非常に不安な状態にある。すでにかなりの犠牲者が出ており、これ以上の被害が出ないことを祈るばかりだ。朝から携帯電話に避難指示のエリアメールが警報音とともに届いている。

 その中でも私の住む街でも正午に太平洋戦争の犠牲者に黙祷をささげることを勧める街頭放送が流れてきた。2021年は終戦から76回目の記念日にあたる。先ほどの放送にもあったが、二度と戦争が起こらない平和を願うという文言に反して世界ではいまも戦争が続いている。日本では戦争は起きていないが、平和の価値を観念的にしか理解できない世代、ー私もその一人だー が増えている。

 ある番組で沖縄戦に向かった戦艦大和の駆逐艦雪風の元乗組員だった方の経験を知った。敵戦闘機に襲われた時の恐怖や、反撃の機銃を撃ち続けているうちに人間的な感情が消えていく経験の恐ろしさ、大和沈没後の人命救助の際の悲惨な状況など、90代のその方にはいまだ鮮明にその状況が思い浮かぶというのだ。

 終戦記念日という言葉に安心してはいけない。戦争は終わっていない。終わったと思ったときにまた始まってしまうのが戦争なのだろう。この連鎖を乗り越える叡智を身につけなくてはならない。