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表現手段

 公園で楽器を演奏する人を見かけた。なかなかの腕前であり、通行人の注目を浴びていた。もちろん一流の演奏には及ばないのだろう。でも、演じている本人が楽しそうであり、生きがいを感じているようだった。

 自分を表現する方法を知っている人は幸せだと思う。うまく言えない何か、言葉にならない何かを表現することは案外難しい。それをあきらめてしまうのが通常の人のあり方だが、楽器演奏なり、大道芸と言われるパフォーマンスなりにそれが表現されることもある。演じること自体が目的だから収益は二の次だ。もちろんお金がもらえればもっといいが、それが目的ではない。

 自己表現ができてそこそこ暮らしていける生活が出来たら、なんと幸せなことなのだろう。私は最近そんなことばかり考えている。

上着

 今日から上着、ネクタイを着用することにした。まだ少し暑いが気分転換のための手段である。

 上着を着ると便利なのは収納が増えることだ。ポケットにはいろいろなものが入る。だからいろいろ入れてしまう。これにはよくないこともある。どこに入れたかわからなくなって大捜索を繰り返してしまうのだ。これを避けるためにいちおう一歩どこに何を入れるのかはだいたい決めている。しかしそれでも確実にエントロピー増大の法則に支配されてしまうのだ。

 上着をつける生活は個人的には気にいっている。けじめのようなものが具現化できていい。ただこれになれるまでは今年も無駄な動きを繰り返すことになりそうだ。

漫画と老眼

 残念ながらかなり老眼が進んできたことを実感している。近視なので遠くを見るには眼鏡が要り、近くは邪魔になる。実に面倒な状況だ。しかし、気づいたこともある。ものの見方が少し変わったのだ。

 絵を描くときはラフな描写から始めるという。クロッキーというものもあった。ぼんやりと位置関係だけを捉えるものだ。その状態でも少なくとも描いた本人は画像が再現できる。そしてこの状態は眼鏡を外してみている私の視覚と似ている。

 つまり、はっきりとはわからないがそれと知れる程度の画像を私は見ていることになる。それを紙の上に描けばいいのだ。そう考えると絵が描けるようになる気がしている。老眼になって失うものは多いが、得られることもまだあるはずだ、

身体ならし

 今日は夏の日差しが降り注いでいる。気温も上がっている。酷暑とまではいかないが体調に影響を及ぼす暑さだ。いつもならば当たり前のことなのだが、今年は少し事情がちがう。

 マスクを着けたまま外を歩くのはやはりつらい。息苦しさはもちろんだが、口から発散される体温がうまく放出できない気がする。科学的に合っているのかどうかは分からないが。通り過ぎた婦人が連れた飼い犬の息がいつもより荒そうにみえるのは気のせいだろうか。

 冷房のもとに逃げ込むのも手だが、少し体を慣らしていかなくてはならないと思い、散歩をしてみた。周りに人がいないときはマスクを外して歩くべきだと考えながら、結局つけたままだった。ならしはこれからも続けなくてはなるまい。

曇天続く

 東京はまだ梅雨空が続いている。ほとんど日がささない。涼しいのはよいがまるで調子が出ない。

 暑い日々がよくないことは分かっている。場合によっては命さえ奪う猛暑はお断りだ。しかし、やはり夏は陽射しがなければ調子が出ない。

 ただ、この後急に気温が上がると健康被害が多数出るかもしれないと言われている。自宅待機で身体の順応ができていない人が多いこらだという。私もその一人だ。

 適度に日が差し、気温が上がればよいなどと勝手なことを考えている。思えば私たちは実にわずかな幅の環境で生きているものである。

冷静に

 コロナウイルスの感染者が刻々と増えている。我が国では感染者数を低く抑えてきたが、これは検査数の少なさとも関係があると言われている。最近は積極的に検査を実施するようになって、30代以下の人々の感染状況も補足するようになった。結果的に軽傷もしくは無症状の感染者も計上することになっているのだという。

 経済活動再開に歓喜していた人々にとってはまた冷や水を浴びせられる結果になってしまったのは事実だ。このブログでも取り上げた政府の国内観光推進策も方向転換せねばなるまい。ウイルス拡散の政策と認知されれば政権の存亡にも関わる。ただ、以前のようなロックダウンの政策はもはや難しい。そもそも我が国では都市封鎖の効果はほとんどない。いたずらに自粛に走り、経済活動を止めれば感染予防以上のダメージがあるのは自明の事実でもある。

 識者にも予測不能の現況を私たち市民はどのように受け止めればよいのだろうか。まずは冷静にならなくてはなるまい。この期間の異常事態に正気を失ってはいけない。まずは足元を見ることから始めなくてはならない。コロナウイルスはかつて歴史を変えてきた天然痘やペストなどのような致死性はない。罹患すると確実に回復させる特効薬がないということが問題であって、すぐに死に至る病ではない。だから恐れすぎてはいけない。

 さらに、感染力もさほどではない。空気感染をする結核や水疱瘡のような威力はないと言われている。ある程度の予防策はある。最近、コロナウイルスも空気感染するとの報道があったが、諸見解を総合すると飛沫感染の可能性の方が高いようだ。その意味でマスク着用の意味はある。

 感染よりも重大なのが心理的な影響であると考える。コロナウイルスに対するショックは日常のルーティンを破壊し、さまざまな弊害を生んでいる。その中には生活のリズムを失って途方に暮れる人もいるという。私自身にもそう思う瞬間がたびたび起きている。実際に感染していなくても心身に不調を訴える人が出てきているように感じられるのは、精神的なストレスが作用しているのではないか。

 こういう時は冷静にならなくてはならない。緩やかな気分になるために大きな風景を見たり、穏やかな音楽を聴き、少々日光を浴び、孤独を避けなくてはならない。それだけで救われるものがたくさんある。世界は危機的な状況にあるが、致命的な状況では決してない。これから展開次第ではいくらでも状況は変わる。思いつめず冷静に過ごすことが大切なのだ。

違う風景をみること

 外出が歓迎されない日々が続いている。政府は観光推進で国内産業を回そうとしているようだが、現状では国民の理解は得られそうもない。

 経済の問題とは別に精神衛生の問題として、外出ができないことは大きな問題がある。普段見ない風景を観ることから得られるインスピレーションが生じないことだ。決して絶景である必要はない。日常の時間には遭遇しない環境に身を置くとこが大切なのだ。

 いつになったらこの自由が謳歌できるようになるのか。私たちの眼前にある現実はあまりに厳しい。せめて細かい観察眼と想像力を鍛える日々としたいと思う。

梅雨空続く

 雨が降り続いている。予報でも傘マークが並び、梅雨明けは持つ少しあとのようだ。ここ数日は気温も上がらす、ときに肌寒く感じることさえある。

 本来であれはオリンピック直前の時期であり、さまざまなプレイベントが行われていたはずだ。学校は学期を切り上げて夏やるべきことをいま行うはずだった。例えば部活動合宿は今ごろ行う手はずで宿も予約を済ませていた。

 降り続く雨の中でもマスクが外せない日が続いている。やるべきさまざまなことが流れ、それを悔やむ暇もない。押しつけられた新しい日常に心身の方が流されている。梅雨空はかえって諦めがつくきっかけかもしれない。

マスクの価値観

 コロナウイルス対策のためにマスクを着用するのが当たり前になる以前の話です。大手スーパーのイオンは従業員にマスクをさせないことを発表して物議を醸しました。理由は声が通らず、表情が見えないことはサービス業として不適切だというようなことでした。それが状況一変して今はマスクをしない店員は許されない状況にあります。

 マスクがコミュニケーションを阻害することは紛れもない事実です。私たちは表情で人の感情や心理といったものを判別します。マスクで覆い隠されてしまうとその情報量は半減以下となり、発音の不明瞭さも加わって伝わりにくい状態になります。またウイルスの大きさが流通しているマスクの繊維の隙間より小さいため予防効果はほとんどないとも報じられてきました。咳や嚏などによる飛沫を防ぐためのものだと説明されてきました。

 ところがそういうことはいつの日から言われなくなりました。感染予防のためにはマスクが不可欠だ。マスクをつけていない人は接近してほしくない。マスクをつけない人は社会的に問題のある人物だとされるようになっていったのです。日本人は同調性が強い国民性を持っていますので、マスク絶対主義な瞬く間に広がり定着しました。店舗からマスクは消え、高額で転売される事態が発生したのも事実です。

 慢性的に品不足であったマスクですが、いまはかなり安価に手に入るようになってきました。品切れになる店もありますが、根気よく探せば手に入ります。マスクの価値がここ数月でこれほど激変するとは。今後もいろいろな価値観が変わっていくことになるのでしょう。

パターン認識

 老眼が進んで視力が低下していることによるのでしょうか。道行く人を知り合いではないかと思うことがしばしばあります。近づいてみると別人であることが分かって自分の識別能力の低さに苦笑いします。

 私は個人認証する場合、いくつかのパターンを使っていると自覚しています。身長や体格の他に、顔の形、頭髪の状態などの他に特徴的な要素をいくつか取り出して過去の記憶と照合しています。その方法が近ごろ簡略化している気がします。

 細かい観察ができるのは才能の一つなのかもしれません。得られた情報を細部まで検証することは時には非常に重要です。この点において私は劣っているし、開発する努力を怠っています。逆にいえばピントを甘くして複雑怪奇な現実を大まかに捉えて心的負担を減らしているとも言えるのかもしれない。

 大雑把な把握によって誤った判断をしないようにと願うばかりです。