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心内語の能力

 心の中で思うことを言葉にするのが心内語である。この能力は当たり前に備わっているもののように思えるがそうではあるまい。例えば本を声を出さず読む黙読という読み方が我が国に定着したのは明治時代の後半であるという。江戸時代から貸本などの個人的読書の機会があったのにも関わらず、黙って読むことはできなかったようだ。

 黙読するためには読んだ言葉を自分の言葉に変えて、それを解釈しなくてはならない。かなり高次元の脳内活動がなされていることになる。語彙力や文法に関する知識などは別に獲得しておく必要がある。だから、予想以上に高度な技能である。

 発達障害で黙読ができない人もいる。難読症といわれる人は一定数おり、彼らの知的レベルは必ずしも低くはない。ただ、文字を見るだけでは理解ができないので音読が不可欠になる。

 心内語の未発達は独り言の多さにも表れる。独り言をいうのは誰にでもあることだが、度を過ごしている場合は何らかの障害が疑われる。よく電車に乗っているとやたらに独り言を言う人がいる。恐らくその人にとっては自然に過ごしているはずだ。独り言を話している意識もない可能性が高い。周りにいる人はその人の心の中の声が聞こえてしまっているのだ。

 心の中で言葉をもつことは実はかなり高度な行為なのだった。それは後天的に習得しなくてはならないものなのかもしれない。その力は小学校や中等教育で身につく。この時期に黙読力を身に付けなくては生涯の損失になる。読書を阻害するデジタルデバイスはその意味でもほどほどにしなくてはならない。

昔書いた字

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 自分がかつて書いた字を読み返すと不思議に思うことがある。こんな字を書いていたのかと素直に驚く。それが子どものころの文字であれば普通だろう。子どもは手の大きさや筆記具を扱うための筋力が異なるだけではなく、字形に関する認識も違うから書いた字の印象が大きく変わって見えるのは当たり前だ。

 気になるのは大人になってからの字形の変化だ。ある時期には繊細な字体で書いていたのに、突然豪快もしくは乱暴になる。そういう繰り返しを何度も繰り返している。これは気分や環境の変化によるものに違いない。活字のような字を書くことを理想と考える時もあれば、自由闊達に書きたいときもある。ノートなどをみると、どうもその気分の波が私には大きく作用するようだ。この時はどんな気持ちだったのだろうか思い出すのもいい。

 デジタルでブログを書いているのはその意味では物足りないことになる。いつ書いても同じフォントで画面に現れるのは大切な感覚の何かを失わせているのかもしれない。