何度も書いているが、今年も繰り返すことにする。1945年8月9日、私の父は現在の北九州市にある八幡で暮らしていた。この地がテニアン島から発進したB29爆撃機がプルトニウム型原子爆弾の第一投下目標であつた。目標地点上空まで来たところ、煙霧で目視ができず、長崎に移動したという。霞や煙は米軍の空襲によるものとも、八幡の市民が意図的に煙を焚いていたとも言われている。
長崎でも雲が多く、投下目標が定まらなかったが、わずかな雲の切れ間から投下された。当初目標としていた地点からは外れたものの7万4千人を超える人命を奪うことになる。広島型よりも威力が大きいプルトニウム原爆をどうしても実戦で使っておきたかったのだろう。実戦で使用された原子爆弾はこれが今のところ最後である。
第一目標に原子爆弾が投下されていたら、恐らく私は存在しないはずであり、運命の苛酷さを痛感する。長崎には公私を含めて何度も訪れているが、いつもそこに行くたびになんともやりきれない思いになる。その日に亡くなった方や、被爆後遺症で苦しみ続けた人たちの代わりに生かされていると勝手に考え、いただいた命を大切にしなくてはならないと思う。
それにしては大したことはできていないことを恥じるが、せめてこの思いを折に触れて繰り返し、若い世代にも伝えていきたい。だから、この話はこれからも何度も書いたり話したりすることになるだろう。
