タグ: 感情

時代おくれ

 つくづく自分は時代遅れだと思うことがある。そういうときはいままでやってきたことに自信がなくなっている。これまでの道のりが無駄なものであったかのように考えている。こう考え出すと止まらなくなる。

 先日、先輩にお会いすることがありこのことを話した。するとどうもそうでもないという。時流に乗ることは自分を陳腐なものにしていくことに繋がる。だから、周りとは違うやり方でも構わないし、むしろその方が貴重なのだ。堂々と時代を外れる方がいいのだというのだ。

 恐らく落胆気味の私の表情を悟られて激励のつもりで仰られたのだろう。でも、この助言は私にとってはとてもありがたいものであった。やるべきことをしっかりと自分の調子で続けるのが大切さなのだ。

 と言うわけで時代に遅れてしかも意図的に外れて生きることにする。このブログも文字ばかりでよくない例という例に入るようだが、おもねることなく、硬派に駄文を連ねることにする。

後天的な感情

 雑な言葉づかいをしていると感情が雑になるという言説によく出会う。私たちが感情や行動を言葉を通して認識している事実からして的を射たものと言える。

 しかるに現代は語彙の貧困化が進み、社会的地位のある人にも言葉が乏しい人がいる。恐らく彼らの多くは感情表現が偏っており、独善的な面が多い。感情のグラデーションが乏しいから、予想外のことが起きると異常反応をしてしまう。

 感情は後天的に獲得されるものなのかもしれない。そのためにも語彙を増やすことに関心を持つべきだろう。

思い出

 過去の出来事が突然浮かび上がることがあります。恐らく何らかのきっかけがあるのでしょう。それが説明できるときもあるのですが、多くの場合なぜそれを思い出したのかわからないようです。

 こどもの頃はいろいろな予感もありました。これはこの先に何かが起きる予兆ではないかと。それが当たったことも当たらなかったこともありますが、なぜか当たった方を覚えているのです。まるで自分が未来から過去に戻って人生をやり直しているように感じたこともあります。

 それに比べれば最近の自分は未来も過去もあまり思い出せない。冷静になったといえばそれまでなのですが、自由で柔軟な発想ができなくなっているともいえるのかもしれません。思い出をよみがえらせることにも体力や気力がいると感じています。

考え方次第

 まったく同じものを見ていても感じ取るものが違う人がいるということはよくある経験です。自分の感性がすべてだとは決していえないのです。

 たとえばあるものを手にするときに、右手で扱うか左手にするかでその後の成り行きは変わります。その人の利き腕が違えばまた異なる結果になる。身長の差だけでも世界は別の姿になるし、それをどう捉えるかも人それぞれです。同じものを見ていると言えるのかどうかもあやしくなる。

 だから、始めから同じものを見ているとは思わない方がいい。また自分が感受したものは他者には説明しなくてはならないときがあることを意識しておかなくてはならないのです。

 このことを分かっているつもりでいながら、いざというときにあっさりと忘れてしまう。それが私たちの宿命であり、欠点でもあります。悲観的になりすぎないための本能かもしれませんが。

手に負える時間

 常に忙しく暮らしている私ですが、多忙の中にも何とかなるときとそうでないときとがあります。時間は平坦に存在している訳ではなさそうです。

 ルーティンワークはいくら多忙でもなんとか切り抜けてしまうことが多いものです。場合によっては多忙であることに麻痺していることもあります。私の場合は朝の一連の動きについてはやることが多いのにあまり印象に残りません。

 対して普段やらない仕事や突発的に起きたことなどは重圧となって心にのしかかります。あとから考えばさほど大変でもなかったことに、多いに緊張し打ちのめされます。そういうことに当たるときの多忙感は非常に大きなものです。

 私にとっては手に負える時間と負えない時間とがあることになります。手に負えない時間が精神的負担をもたらすのならば、その時間を飼いならすための方法を考える必要があります。色々な克服法があり、さまざまなアドバイスもありますが、根本的な解決はできません。むしろこの時間帯はうまくいかないことが多いものと割り切らなくてはならないと考えた方がよさそうです。そのあとに手に負える時間がくるはずですから。

 時間が人間とは無関係に存在するものとは最近は考えられなくなってきているのです。

感情に訴える

 情に訴える方法にはよい点も悪い点もありますが、少なくともその効果的な方法だけは知っておく必要があります。理詰めではなかなか事態が進まないことが多いからです。

 私たちは何かを伝えたいときに、論理的に構成されたメッセージを送ることを目指します。それができないと独りよがりで理解不能なものになり賛同者が得られない。最低限の論理的な型に乗っ取って話を作ります。

 しかし、論理性だけでは人は感動できない。その中に感情を動かす何らかの要素が必要になります。人が何に感動するのかは個人的な差異があり、特定できません。同じものをみても抱く思いは異なるからです。それでもある程度の共通性はあり、多数の人に共有される感覚があることも事実です。

 感情に訴えるメッセージを送るためには他人の感覚の傾向を日常的に観察しておく必要があります。他人は何に感動するのかを知ることが大事なのです。その意味で人間観察は大事なのでしょう。メディアで取り上げられている感情のツボをまねするだけでは得られない何かがあることを発見しなければなりません。