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やってやろうじゃないか

 先生は漢検の級もっていないんですか。生徒に聞かれたとき用意している答えがあります。私が高校生の頃、漢検がなかったんだと。

 大抵はここで引き下がるのですが、時々このバリアを突破されます。それならいま受けたらいいじゃないですかと。これも苦笑いでかわしてきたのですが、どうも後味がよくない。そこで一念発起することにしました。来年度中に準1級に合格しようと思います。ブログに書くのは公約のつもりです。

 準1級は実用レベルを越えた漢字の知識が問われます。ほとんど使われることがない文字や熟語が大多数を占めます。デジタル時代では入力できる文字が少ないので、このレベルの文字は使えないことも多い。漢文学の知識も要るようです。

 目標は大きい方がよい。ならばやってやろうじゃないか。いまはそんな気持ちになっています。

期待感の演出

 私たち教員にとっては毎日必ずしも理想的な生活ができているとは限りません。メディアで報道されているほどブラックな職場ではありませんが、残業や休日出勤が当たり前の職場環境であることは確かです。ただ他の業界と少々異なるのは強制されてやるというよりは自主的に行っている人が多いということでしょうか。もちろんそれは私の職場だけの現象かもしれませんが。

 そんな中で生徒諸君に君たちの未来は明るいぞというのにはちょっとした覚悟と工夫が必要です。先生になりたいという人がどんどん減っているのは、教員の仕事がいかに大変かを目にしているからであり、ある意味なりたくない職業の手本となってしまっているのかもしれません。教員だけではありません。働くこと全般に対して、人生を考えることに対して現在の日本社会では悲観的な側面で語られることが多いような気がしてなりません。

 それでも教育者たるもの、やらねばならないことがある。それが期待感を演出することです。生徒に勉強をさせるための手段は数々ありますが、もっとも有効なのは自分の将来に今の学習が何らかの形で役立つという実感でしょう。今はやりたくない宿題をやっていても将来はそれが基礎となって役立つときがくる。そう実感できたときにやる気のスイッチは入るのです。そのスイッチをいれるのは教員の大きな役目なのでしょう。

 私のように数学が苦手で、中高時代には苦しみぬいたものでも、いま成績処理やちょっとした表計算ソフトの関数などを組み立てる時に数学的な思考が利用されていることを実感します。もう少し数学的思考ができれば人生の損失も少なかったのではと思う場面も多数あります。論理的に物事を考えるということに数学は必要です。英語はいまだによくできませんが、職場でも英語話者と仕事をするようになり、必要な時には使う場面があります。これももう少しやっておけばよかったと思うことが多い。なによりも英語が理解できれば、英語でしかとらえることができない世界をもっと受容できたはずだったと思うと無念ですらあります。そのほかの教科についても同様のことがいえます。

 このような後悔を生徒に話すのも手だとは思いますが、それに加えて将来に学習がどう結びつくのかを具体的に示すことも大切だと思います。普段から、日常生活の各場面において過去の勉強がどのように役立っているのかを言葉として子供に示すことが大切なのでしょう。私たちは自分のやっていることをいちいち分析はしませんので気づかないことが大半なのですが、たいていの活動は中学生くらいの知識をベースにして行っているのだと思います。このことを大人はもっと子供に語る必要がある。これは教員でなくてもできることです。

 われわれといまの中高生との大きな違いは、将来の職業観に決定的な差があることです。昭和世代の学習目標はよい大学にいけばすばらしい人生が待っている、ということに集約できました。学歴がかなりの度合いで人生を決めていた時代だからでしょう。でも、いまの若者は常日頃から次のようなことを聞かされています。「今ある仕事の大半はなくなる」と。

 AIが発達し、やがてシンギュラリティが訪れるといまある常識はほとんど通用しなくなる。勉強することも意味がなくなるのではないか。無理して漢字を覚えなくても、英単語を学習しなくてもいい。計算練習なんて無意味だ。みんなコンピュータがやってしまうのだと。

 そういう時代が来るのは避けられないとしてもやはり基礎的な学習はしなければならない。精巧なロボットができてもそれを操るのは人間でなくてはならない。操られる側になってはいけないんだという危機感を生徒に伝えなくてはならないと考えるのです。期待感というよりは危機感になってしまいますが。

 整理します。生徒の学習動機を促進させるさせるために教員や親、社会の人々全体で、子供たちの未来への期待感を演出していく必要があるというのが今回の趣旨です。大事な後継者を育成するためにも大人がへこたれていてはいけない。いまある基礎学習を大切にして、次の時代きり開く叡智を生み出すきっかけにしてほしいというメッセージをさまざまな形で出し続ける必要があるのです。

やはり役に立つ

 シンギュラリティはいつかという話題の中で、果たして今のような教育は必要なのかという議論は必ず出ます。そして誰もそれに答えられません。まだ、起きていないことを前提に議論はできないからです。

 英語を勉強してどうするんだ。英語は自動翻訳機がやってくれるからもう必要はないんだ。英単語を必死に覚えなくてもいいだろう。意味のない勉強はやめよう。そんな話が出てくることがあります。これが暴論だと思う人は多いでしょう。では、古典文学はどうでしょうか。例えば漢文の分野などに話を移すと旗色は変わります。今さら漢文になんてやってどうなる。返り点を習っても中国語はできない。そもそも論語や孟子は紀元前の思想であって現代に通用しない。ほとんどの中国人は読んだことさえないはずだ。だから、漢文は不要だ。これが正論だと考える人はきっと多いはずです。

 英語も漢文もその学習が不要だという人の根拠は、実生活で有益か否かの基準で話していることなります。そしてその際の利益とは表面的なものであって、私たちの思考の方法に基づいていません。私たちが物事を考える際には、考えたことをまず言語化し、それを組み合わせて論理を形成します。さらに複雑な文法に当てはめて初めて言葉になります。機械ができるのは最後の段階であり、自分の思考や感情を言葉にするという段階は機械にはどうしてもできません。思考や感情を形成するのは言葉の学習を繰り返した末にできます。国語はもちろん、様々な外国語学習によってそれは鍛えられていくのです。

 だから中等教育程度の学習はやはり必要です。必要でないという人はとにかく自分の意志は放棄して効率よく機械の勧める何かに従って生きようという方針でいくしかなくなります。つまり、自分も機械の一部になることを目指す人は無駄な学習はしない方がよい。私はそうはなりたくありません。

やってみせる

 やってみせることが大切をと感じさせられました。ある教育法の紹介です。

 その方は子どもに勉強しなさいとはあまり言わないそうです。ただ英検、数検、漢検にはこだわりがあってすべてを2級以上取得することを勧めているそうです。それだけならよくある話なのですが、この方の場合はご自分も検定に挑戦して子どもとともに勉強していらっしゃるところです。

 あと2点足りなくて合格できなかったと悔しそうに、そしてその割には楽しそうにお話していました。漢字検定の準1級に挑戦していらっしゃるのです。子どもに2級を勧めた以上、その上に挑戦する姿を見せたいというのが最初の目的だったとか。漢検準1級は普段あまり使わない漢字が多数使われ、マニアの域に入るなどといわれます。受検数も合格率も低い。そこに敢えて挑戦していらっしゃる訳です。

 率先垂範の精神に他なりませんが、ご本人自身もまるでゲームの攻略か一種のスポーツのように楽しみながら検定に挑戦されていることに感銘を受けました。やってみせることも大切だと実感したのです。

出力しやすく

 素晴らしいアイディアは天災によって偶然生まれる。確かにそうかもしれません。歴史的がそれを証明するという人もいます。ただ、それだけではないのではないでしょうか。

 何かが生み出されるとき、結局残らなかった失敗作が大量に作られています。その中でとびぬけた何かが含まれるものが画期的な作品になるのです。ということはブレークスルーを生み出すには作品を生み出しやすい環境を作り、多くの駄作を生み出す環境が必要だということになります。たくさんの失敗を許す寛容性が与えられなければ革新的な何かは生まれないのです。

 私たちができることは何か。まずは失敗を恐れずになにかを作り続けることです。もちろん素晴らしい成果を期待して作るのですが、結果的に失敗しても仕方がないと割り切れる気持ちが必要です。次に作品を作ってみようという環境をつくることです。成功しか許さないという雰囲気の中では挑戦者は減ってしまう。厳しすぎる環境下では完全に委縮してしまって何もできなくなります。また、作品そのものへの評価も大切ですが、それに至るまでの行動や方法論などへの評価もなされるべきです。結果だけがすべてではないと考える風潮も大切です。

 失敗の中から素晴らしい成功作品が生まれるためにはたくさんの出力があり、それを支える環境が必要だと考えます。

インプット

 人に教える仕事をしているうちにふと気づくことがあります。教えてばかりでは枯れてしまうのではないかということです。

 教員の仕事は多岐にわたり、そのどれもが単なるルーティンで解決しないことが多いものです。となると、毎日の仕事に追われて自らが学ぶことが疎かになってしまいがちなのです。教える教科や生活指導の内容や方法論、人間関係などの助言を行う生活指導など学ぶべきことはたくさんありながら、それができずにいる。そうして手持ちの札がどんどんなくなっていくような感覚になるのです。

 多忙を言い訳にせず学ぶことを職務の中に組み入れていかなくてはなりません。私たちは常に学ばなくてはどんどん流されていく。この方面においては貪欲にならねばなりません。