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学びの道具

 スマートフォンてゲームをしている大人が多いのは今に始まったことではない。ストレスフルの社会情勢の中で気晴らしや現実逃避の具として機能していることは確かなので否定するばかりではない。ただあまりにもそればかりだと心配になる。

 スマートフォンには学習型アプリもあるし、ニュースを読んだり、電子書籍リーダーにもなる。スマホで学習している大人が増えたなら、子どもたちにも変化があるかもしれない。

 だからゲームはやめましょうと言いたいのではない。いろいろな使い方ができ、場合によっては金の足しになったり、心を豊かにすることもあると考える人がもう少しいてもよいのではないかと思うまでだ。

考え方

 検索するのにも高度な方法があるようだ。知っている人には当たり前のことなのだろうが、私を含めて多くの人は知らない。どんなことにもその道の先達がいるものだ。

 ネットの普及で情報を探すことは誰にでもできるもののような錯覚が生まれている。実は精査することなく最初に見つかった項目を正解と思い込んでいることが多い。これが積み重なると大きな誤解が形成されていくことになる。虚像が見えると、そこにさらなる装飾が施され、本物そっくりの贋物が完成する。

 考え方の根本から間違っていれば修正は困難になる。適切な考え方を学ぶべきなのだろう。それを教えるのが学校であり家庭であり、社会であるはずなのだ。安易に答えだけを求めることは百害しかない。

資格

 思い立ってある資格を取るための準備をはじめようと考えている。この歳になって資格などほとんど意味などないはずだ。だが、実益よりも自己啓発の具として使いたい。

 資格認定とは用意された知識やスキルを修得することにあり、吸収型の学習だ、これはこれまで長年身につけてきた方法である。ただ記憶力は着実に低下しているからそれは学習量で補う必要がある。

 年寄りの冷や水に過ぎないがやってみることに意味がある。

ノートに

 ノートといっても紙面のもののことをいう。そのノートにいろいろな情報なり、思い付きを書いたものがたくさん並んでいるというのは私の思う理想であった。知識なり経験なりが物理的な形となって蓄積していくというイメージがあるからだ。

 しかし、現在は書くためのノートがたくさんある割には埋められていない。何もたまっていないのだ。それはとても残念であるし、なぜか悔しくもある。このブログのようにデジタル上に書き残したものを集めるとおそらくそれなりの分量にはなる。私の場合は質より量だ。内容より継続が目標になっている。

 それでも大学ノートやらコクヨの野帳やらに何かを書き続けたいという思いは常に持っていて鞄の中には何冊ものノートがある。それらは書かれることなく、自宅と職場やその他の場所の間を移動し続けている。いつかはそれが活用されることを期待しているのだが。

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読書量

 読書量といわゆる国語の能力はおそらく相関関係があるはずだ。たくさん本が読めるということは、文字から内容を理解できているということであってそれだけで読解力のある証だろう。

 ただ、本を読まなくても国語の点数がいい子どもはいくらでもいる。つまり、読書量は国語の点数を取る必要条件ではない。点数を取ると断ったのはあくまで従来の大学入試のような問題を想定しているからだ。より深い読解をここでは考えないことにする。

 国語の試験で聞かれることは論理の展開を把握できているかどうかだ。だから極端なことをいえば、内容が本当に理解できていなくても正解は書けてしまう。国語の成績はいいのに、その知識の深みが感じられない人がいるのはそのせいなのだろう。

 読書量は国語の成績のためというより知識や知恵の厚みを担保するものとして重ねるべきなのだ。

俳句でも

 俳句は有季定型の文学であり、情ではなく景を描くことによって、結果的に作者の感情を表現する文学です。ある景物にどのような感情を抱くかは民族性や地域性があり、それがこの文学のローカルな一面を作り出しています。

 俳句という言葉自体はグローバル化しており、haikuは世界語となっています。極めて短い形式の中で行なわれる文学表現という行為は民族を越えて広がっていることになります。

 俳句の楽しみ方の基本は句会ですが、この句会システムはデジタルとの親和性があります。無記名で提示された作品の中から気に入った作を選び、最後の披講で作者がわかるというのはとても分かりやすい。これをたとえばG-Suiteを通して生徒諸君との間でデジタル句会を行うことも可能かもしれません。

 俳句には吟行という楽しみもあるのですが、集まれない近づけないいまではせめてデジタルで句会でもなどと考えてしまうのです。

考える基準

 自由に考えてもいいと言われても私は困惑するばかりです。自由に考えるというのは無から何かを生み出すくらい難しい。

 何かを考える基準として例えば宗教的な知の枠組みとか哲学者の言葉とか、歴史的事実とかは確かに役に立ちます。さらに身近な人たちの言葉も大きく影響しているのは事実です。

 なんらかの基となる言説があって私たちは自分の考えをまとめることができる。まとめるまでは無数の試行錯誤の繰り返しです。それをある言葉にまとめあげたときに、さらなる命名前の体験に挑戦できるようになるのでしょう。

集中できる場所

 自室では仕事ができないという人の気持ちはよく分かります。生活のための空間という位置づけができてしまうとそれを変えるのは難しいのです。

 仕事をする上で図書館やカフェにわざわざ出かけてやった方が能率が上がるという人がいます。私もそうでうるさくて仕方がないはずのコーヒーショップの方が読書が捗ります。恐らくいまはこれをやるときという割り切りが場所の移動によって自覚できるからでしょう。場所と意志とは連動するのです。

 わざわざ金をかけて他人の空間を借りるよりも、遥かに高い家賃を払っている自宅の方が使用されるべきであることは理屈では分かっているのです。しかし、気分というものは簡単ではありません。

 自分が集中できる場所を探すことが何かを成し遂げるには不可欠であるとつくづく考えているのです。

中央林間図書館

 神奈川県大和市の中央林間図書館は東急ストアなどの複合商業施設の中にあります。蔵書は少ないですがショッピングをしたついでに気軽に立ち寄れるなかなかいい場所です。

 図書館のあり方については各自治体で様々な試みがなされています。中央林間図書館の場合は気軽に利用できる点で優れています。図書館というと私語厳禁の密室的な雰囲気がありますが、ここはショッピングセンターの中にあるためかなり開放的です。図書館とタイアップした星乃珈琲店も隣接しており、おしゃべりやコーヒーと読書とを両立できる空間まで用意されているのです。

 最近は労働時間の短縮のために職場を早めに引き上げる必要がありますが、その時間で資格取得のための勉強や趣味の読書をする人も増えているようです。そんなときに気軽に利用できる図書館の存在はありがたい。私もこれからしばしば立ち寄ることになりそうです。

学び直し

 教員の役得の一つとして、近くにいろいろな教科の教員がいるということがあります。これを利用しない手はない。そこで学び直しといくことにしました。

 教材は生徒諸君が卒業時に残していった問題集や参考書がありますので、それを使えます。なぜかほとんど使った形跡すらないのはなぜかわかりません。でも報われなかった学びの本たちに活躍の場を与えてあげることにしたのです。

 継続できるように学びの記録はスタディプラスというサイトにつけることにしました。問題集単位の記録なので何をどこまでやったのか分かりやすいのがよいところです。いつまで続くのかお立会。

 生涯学生と考えていますがそれを形でも表わそうということです。最近読んだ脳科学の本によれば高年齢者の脳も学習次第で活性化するのだとか。真偽のほどはさておくとしてとりあえずやってみたいと考えています。