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印象操作

 最近、気になっている言葉に印象操作がある。マスメディアからソーシャルメディアまで、事実の一面を強調することにより、全体のイメージを変えてしまうことだろう。これを結果的に行って来たのがこれまでのメディア史だったが、最近は明らかに意図的に行っている気がする。

 例えばある出来事について、その賛成派を中心に取材すれば好意的報道になるが、反対派を中心に報ずれば批判的になる。マスメディアは一応公平性を配慮するが、それでもどこを切り取るかで受け手の印象はかなり変わる。ソーシャルメディアは元々発信者の個人的な意見なので偏向報道そのものだ。

 メディアリテラシーが意識されているうちは何とか見過ごすこともできる。ただし昨今のように目まぐるしく、大量の情報が流動する状況では何が中立で何が偏向しているのかなど考える余裕がなくなってしまっている。

SNSに流れた情報があたかも事実、もしくは多数意見のように振る舞い、多くの人がそれを信じてしまう。よく考えれば、雑踏の中の誰かの呟きに過ぎないのに、おかしな力を持ってしまうのだ。少し前の、インターネットなどなかった時代の人たちの感覚を取り戻したい。トイレの落書きをどれだけの人が信じただろうか。

 意図的に事実を歪曲しようとする印象操作はAIの力も借りてますます巧妙化している。どんな報道がなされても、そこにある映像がいかにももっともらしくとも、立ち止まって考えなければならない。それができれば、操作されない自由が獲得できる。

ショート動画の落とし穴

 TikTokに代表される短い動画は耽溺性がある。ダンスや豆知識などの種類は見ていて楽しいが、中にはニュースや政策に関するものもあり、多彩だ。アメリカ人のかなり多くの人たちがこのショート動画を通してニュースを見ているらしい。トランプ次期大統領を支持した人の多くはこのニューメディアを情報源にしているらしい。

 極めて短い時間で要点のみを強調して結論しか言わない。非常に分かりやすい。ただその反面、結論の根拠や都合の悪い事実が一切省かれている。あたかも作者の言わんとすることが絶対的に正しく、他は排除すべきもののように思えてしまう。冷静に考えればおかしいと思うことさえ、明快さと誇張の陰に隠れて見えなくなってしまうのだ。

 メディアリテラシーが本当に重要な時代になってきた。自分で考えずによくできた話に安易に取り込まれる。その他の選択肢を考慮できない。そういう環境にいまはある。

 悪意のある権力者が世論を支配することも容易だ。ファクトチェックというジャンルを最近よく目にするようになったが、これも世に欺瞞が横溢していることを示すものだ。チェック自体もチェックしなくてはならない。ただ、実際には門外漢には判別できないことが多い。少なくも鵜呑み即決は止め、立ち止まって考えること、そして誤った判断をしたら、訂正しやり直すことに躊躇しないことが求められる。自戒したい。

被災地で起きたことをどう報じるか

 能登の穴水で起きた被災者による自販機の破壊に関してさまざまな報道がなされた。混乱の中での報道ではあるが、看過できない問題点がある。災害時のメディアの報道の在り方について考えさせるものであった。

 避難場所になっていた穴水高校に設置されていた自販機が被災者によって破壊された。被災者たちは破壊行為をみて悲鳴を上げたがどうしようもできなかったと読売新聞が報じると、地元紙である北國新聞は緊急時のために取り出し、取り出した商品は避難者には配布されていたと報じた。

 読売新聞の初期報道は裏が取れていないまま報道してしまったことになる。それだけではなく、被災地において無道な窃盗事件が起きていたと報じることは日本人の矜持を傷つける大問題である。この点の配慮もなく、報じてしまったのは痛恨のミスだ。読売は記事の訂正を行わず自販機の設置会社が被害届を出したことを中心に報じた。初期の報道に間違いはなく、現に被害届が出されたと弁明しているかのようである。ところが、まだ続報がある。先日の報道によると設置会社は破壊を申告してきた人に対し、請求を行わないことを発表したという。被災者の心情を考え、賠償請求は行わないというのである。ただし被害届は器物の保障のために必要なので取り下げないということだ。

 被災地の「火事場泥棒」の報道はほかにもいろいろある。中には自衛隊の服装を偽装して倒壊した建物から金銭を盗み出しているなどといった報道があった。これらも本当に裏が取れているのだろうか。

 限界状況で人々がどのように行動するのかは誰にも分からないし、とても関心がある内容だ。そこに報道が焦点を絞るのは分かるが、事実無根の情報を流せば人心を乱す原因にもなるだろう。報道の責任を感じてほしいことである。

再放送・リモート放送

 緊急事態宣言が長引いていることも影響してテレビ番組も収録ができなくなっているようです。国民的漫画である「サザエさん」も45年ぶりにストック切れによる再放送に踏み切ることが決まりました。大河ドラマもこのままでは本能寺の変にたどり着けないのではと危惧する人までいます。

 一部の番組やネット動画チャンネルなどは相互動画配信のサービスを用いたリモート収録を行っています。スタジオに出演者の数だけ置かれたモニターに個々に映し出されるタレントの自宅と思われる(思わせる)背景の登場人物たちがカメラ目線でものを言いあうという風景は異様なものです。この後語り草になるであろう21世紀初めの出来事の一つなのでしょう。個人的にこの状況でよくなったと思うのは出演者が他人の話をよく聞いて番組を進めている様がうかがわれることです。これまではなにか合いの手を入れるためにあえて話を分断するということもよくありましたので。

 再放送は過去の作品を見直すことができる良いチャンスなのですが、民放の経営的にはよろしくないようで、しかも変わってしまった社会状況や人物の事情を考えるとただそのまま流せばよいのではなく再編集も必要で、手間がかかる割には視聴率、広告収入が期待できないようなのです。

 危機感を扇動し、集団ヒステリー現象を助長するようなワイドショー的な番組以外でメディアの人々も努力していただきたいと考えます。人を安心させる力をもっているのもマスメディアの大きな特徴ですので。

脅威の価値

 北米大陸を中心にインフルエンザが大流行し多くの死者が発生しているようです。中国発の新型肺炎よりも致死率は高いようですが報道は控えめです。

 アメリカで流行しているインフルエンザはウイルスとしては新しいものではないようで、対策のワクチンも存在するようです。ただ皆保険制度が存在しないアメリカではインフルエンザにかかっても医療機関には行かない人が多いために流行が把握しにくく、対策が後手に回るようなのです。

 アメリカのインフルエンザは非常に脅威ではありますが、さほど報道されず、コロナウイルスばかりが注目されています。これはニュースの価値が実情以上に偏向しているといえます。事実をどのように伝えるのかはジャーナリストの責任でもあります。またそれを読み取る側の能力も試されています。

視点を変えれば

 スポーツの試合結果を知りたいときに、見出しだけを見ると同じ結果でも全く違ったものに感じることはよくあります。快勝なのか、苦戦なのか。接戦だったのか、消化試合だったのか。同じ試合でも見方が変われば全く印象が変わるのです。

 結果だけを見ると大差がついている試合は、一方的にどちらかが試合を優位に進めていたかのように感じます。ところが、実際に観戦した人に聞くと、点数には表れていないけれども実力差はそれほどなかったという感想があることもあります。得点と試合経過とは異なり、また見る人の印象がどこに重きを置くかによって印象は大きく変わるのです。

 スポーツだけではなく様々な場面でこのことは言えます。結果を数値で表すことはその現象の一面を表現しているのに過ぎないのであって、それがすべてではないということです。私たちは結果ではなく経過を出来事として認識します。そして経過の印象は視点によって異なります。同じものを見ても別のものを感じるのが私たちの本質であることを思い出さねばなりません。