タグ: 国語教育

気が散る仕掛け

 読売新聞でデジタル書籍に関する特集記事が連載されている。新聞という紙面のメディアからの発言であることを割り引いても、現状のデジタルテキストは学習効率を決して高めないものと読み取ることができる。

 情報の活用や拡張性については電子書籍の方が圧倒的に勝る。モノでないことから物質的な拘束から解放されるのが何よりもよい。ただ、メールもゲームも何でもできるという多機能性は読書を阻害する。真面目な読者であっても、参考のリンクをたどるうちに本論の論理が消えてしまう可能性がある。

 私は電子書籍リーダーを使うことで誘惑から決別しようとしている。一つのソースに集中できる環境を自ら作り出すしかない。金はかかるが読むことしかできない端末を教育現場で普及させるのはいかがだろうか。

古典の発想

 複雑な時代を生きていると何が正解なのか分からなくなることが多い。というより常に正解が分からない世界に生きている。そんな私たちにとっては一つの指標がある。古典を読むことである。

 私にとっての古典は日本の古典文学作品である。大学時代にこれを専攻したこともあり、私にとってなじみ深い。万葉集の歌を読むとき、中世の説話を読むとき、そこには常に発見がある。未完成で粗削りなストーリーの中に可能性を感じる。国語の教員である私はそれを教材としてのみ扱うことに常に抵抗を感じている。まるで暗号解読のように古典を読む同僚たちの手際よさに感服しつつも、それは古典を呼んではいないだろうとも思う。そして彼らと同様に、しかも少々拙く読解のテクニックばかりを教えている自分の毎日を反省する。

 私はひそかに古典文学をなるべく自分にひきつけて読む意訳を最近続けている。学校では決して教えられない方法だが、日記やブログに書くのならいいだろう。その訳し方では決してテストで得点は取れない。大学にも合格できないが、少なくとも主体的に古典を読むというもっと大切なことはできるのではないか。いつかこのサイトにもそれを載せることができればなどと考えている。